研究者としてのこれまで(とこれから)
(6) 東大地震研時代(1995年〜1999年)

 バークレーには,ばたばたやって行った感じでした.というか,日本の建築構造界は1995年兵庫県南部地震で大変なことになっていて,まさに後ろ髪引かれる思いでした.でも,当時名工大におられてその後東大に来られた久保先生にむしろ却ってよかったんじゃない?と言っていただいたのはかなりの救いでした.

 でも,そんな状況ですから,向こうに行っても話は,1995年兵庫県南部地震のことで,最初は,JMA神戸の記録しか公開されてなかったんですが,大阪ガスの葺合とかが徐々に公開されていって,当時はまだインターネットもそんなに普及してなくて,電子メールがようやく始まったばかりという感じでしたから,日本とアメリカの連絡係みたいなところはありました.

 バークレーでの1年間は,楽しかったですが,あまり仕事はできなかったですかね.まあ1年と言っても実質10ヶ月ですし,いろんな準備とか考えると実働半年ってところですからね.それに正直に書くと,向こうはそんなに研究が進んでる感じではなくて,これなら日本にいた方がよほど刺激があると思ったのも事実です.

 でも,1995年兵庫県南部地震で発生した地震動がどういうものかということで,WCEEの原稿を私と南先生の分と2つ書いて向こうで提出しました.結構笑えたのは,当時Dの学生がラボに3人いたんですが,そのうち1人がぎりぎりというか間に合わなくて,集配の車を自分の車で追いかけていって渡してたことです(笑).

 1995年兵庫県南部地震は,まさに衝撃的な地震だったのですが,最初に公開されたJMA神戸では,どうしても被害を説明することができず,悶々としているところに,夏くらいに葺合の記録が公開されて(いっしょに被害調査に行った東大の山田先生が送ってくれました),それで何とか説明できた,つまり,日本の建物に問題があるのではなく,地震動の破壊力が凄まじかったことを証明できて,逆にどこかほっとしたことをよく憶えています.

 バークレーにいる間に,私にとって大きな出来事がいくつかありました.一つは,南先生の肺がんが再発したという連絡が工藤先生からあったことです.先生は,私が地震研に赴任した次の年に肺がんと診断されて手術を受けられたのですが,手術はうまく行ってその後元気に過ごされていました.でも,この年,1995年兵庫県南部地震が起こり,更にサハリンで地震があって,無理されて被害調査に行かれたということで心配していた矢先のことでした.

 もう一つは,壁先生から連絡があって,こっちに来てるから会えないかということでサンフランシスコで会ったのですが,そのときに来年から地震研に行くのでよろしくということでした.その時は,壁先生といっしょに仕事ができるということで純粋に嬉しかったのですが,バークレーの家に戻ってから,そっか,ということは,私はどうなるのかなと思いました.

 留学期間を終え,バークレーから地震研に戻ると既に壁先生は赴任されていて,南先生と3人で飲んでこういうことになったから,一度外に出るように言われました.まあしょうがないというか,そんな大した業績もないので自業自得というところもあったと思いますが,振り返ってみると,それなりにちゃんとやってたとも思うので,なんだかなあとも思いますね.

 でも,どこかに出るとか言っても,そういう話が来るわけでもなく,時は流れるという感じでしたかね.「自分の研究」としては,まさに「どういう地震動が大きな被害を引き起こすか」ということを地震応答解析を通してやっていたと思います.具体的には,振幅だけではなく周期特性(という用語は当時はまだ使ってなかったと思います),この2つの組み合わせが重要ということで,それを用いた地震動の破壊力の指標とか,この2つを使って地震動をサイン波一波に縮約する,そうすれば,地震動をたった2つの指標に集約できて,距離減衰や発生確率とも結び付けることができるというようなものでした.

 でも,そういう話をRC関係の研究会とかでしてもぱっとしないというか,反応は今一でしたね.むしろ,強震動関係の研究会でしゃべった方が大きな反応があったと思います.

 でも,私の主戦場は,RCというか構造関係なので,そこで発表しても評価されず,研究会では,そんなことやってどうすんだというようなことを言われて大喧嘩みたいになったこともあったりして,だんだんめげて行ったと思います.実際,自分の中でもどうもしっくり来ないというか,これが「自分の研究テーマ」というか,これで研究して行くという感じではなくて,何をしたらいいか模索を続けているような感じでした.

 当時は,今の所属で言うと,千葉大の中村先生,名工大の梅村先生,阪大の真田先生,九大の神野先生,防災科研の中村さんとかがDの学生としているときで,いっしょにスキーに行ったりして楽しかったですし,名工大の梅村先生とは,阪大の鈴木先生にお声がけいただいて入れてもらった委員会絡みで,繰り返しによる耐力低下モデルを開発したり,構造工学には毎年論文を出して発表したりしてましたから,今にして思えば,何をやったらいいかわからないというか模索しながら,そういう中でそれなりに頑張ってたんじゃないかとこの文章を書きながらちょっと思えました.

 南先生からは一度外に出るようにと言われたのですが,時は流れ,でも私としては,研究できて飯が食えればそれはそれでよかったのですが,ある日,昇進させるから論文,具体的には,海外のジャーナルを書けと言われました.1998年くらいだったと思います.

 びっくりしたというか,それはそれで嬉しかったので,じゃあ書きますという感じで,サイン波一波でEarthquake Engineering & Structural Dynamicsに論文を出しました.でも,実際はなかなか筆が進まなかったですね.私が研究したり論文を書いたりするのはやりたくてやるからなわけで,昇進とかそういうことが目的になると途端に意欲がなくなるのは受験のときと同じでしたね.

 でも,それでも頑張って書きました.でも,すごくいいと評判の英語校閲に出して,でも,その英語がこなれ過ぎてて,英語がおかしいと(おそらく日本人のエディターに)突っ返されたりとかして,結局,自分がしっくり来る英語に戻したら通ったりして,結構時間がかかったと思います.

 それで,また南先生に話があると言われて,何かと思って行くと,昇進の話はなくなったと言われました.それはそれでがっかりしたのですが,別に仕事がクビになったわけじゃないし,つまり,研究はして行けるわけで,まあしょうがないかって感じでしたかね.

 そんなことより,当時は,南先生はもうかなり具合が悪くて,入退院を繰り返されてて,酸素ボンベが手放せなくなっておられたと思います.そんな中,出来の悪い助手の昇進にかけ合ってくださってたわけです.

 そして,先生は逝ってしまわれました.ずっと具合は悪かったので,そういう日がいつか来るとは心のどこかで考えていたと思うのですが,ほんとに突然,亡くなってしまわれた感じで,全く心の準備ができてなくて,ただただ茫然とするしかなかったのは,高二の時に父を亡くしたときと全く同じでした.

 とにかくショックが大きくて何も考えられなかったのですが,そのとき,工藤先生や壁先生がトルココジャエリ地震の被害調査に行っておられて,彼らが帰ってくるまで待つのかどうするのかとかを坂上さんと相談したんですが,彼らの帰国までかなり時間があったことやご家族のご意向や葬儀屋にかなりせっつかれたりしてとにかく葬儀をすることになりました.

 つまり,葬儀の日には,まだ工藤先生や壁先生はまだ帰ってきておられなかったのですが(のちほどお別れの会をやりました),その翌日,小谷先生にとある大学のポストに応募するように言われました.どうしてこのタイミングで?と思いましたが,呆然として何も考えられない中,なすがままに書類の準備をしたり,その大学まで行ってどういう大学か見たり,周辺の不動産屋に行って家賃相場を調べたりしました.

 でも,結局,その大学に応募することはどうしてもできませんでした.理由はよくわかりません.でも,はっきり言えるのは,これで反旗を翻したというか,言うことをきかなかったわけで,もうこの世界にはいられないというか,少なくともRCの世界で圧倒的な勢力をもつ,というかそんなことより,散々お世話になった青山小谷ファミリーはクビになったと思いました.

 そして,南先生もいなくなってしまわれたわけで,ほんとに独りぼっちになってしまいました.壁先生とは,ずっといい関係だったと思いますが,彼が地震研に来られてからは,うまく行ってなかったと思います.何でも言うことをきくわけじゃないという私に問題があったんですが,いやそれはそういうことじゃなくてこういうことなんですけど,というような行き違いがとにかくものすごく多くて,どうやってもうまく行かないようになってるんだなという感じでした.でも,それでも彼のことをずっと,それこそ今でも尊敬し憧れているのは変わらないんですが,そういうことといっしょにうまくやって行けるかどうかって全く別なのかもしれません.

 こんな感じで,当時(1999年9月)は,まさにどん底というか,絶望の淵に立ってたわけなんですが,捨てる神あれば拾う神ありということなんでしょうか,私にとって,まさに人生を変えるというか,「何の研究をしていくか」ということについて,一気に展望が開けることが起こります.それが1999年台湾集集地震です(つづく).

※(5)(6)と一番辛い時期のことを書くのは,かなり苦しくて,でも,だから早く通過して次に行きたいというのもあって,頑張ってだーっと書きました.正直,こんなことまで書いていいのかということも書いてしまった気がするのですが,気づいたら今日は南先生の21回目の命日で何かそういう巡り合わせもあるんですかね.

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