研究者としてのこれまで(とこれから)
(2) 研究生活が始まって

 研究室に入ってからは,とにかく研究というものに出会って楽しかったですね.

 でも,たかが学部4年で何も知らないわけですから,勉強もしないといけないのですが,それまでの勉強とは全く違っていました.それまでの勉強は,これが何の役に立つのかわからないというか漠然としてるというか,もっと言えば,試験に受かる,いい点をとるための勉強だったわけで,そんなものには意欲を感じなかったのですが,研究のための勉強は,解明したいことがあって,そのために必要なことを勉強するわけで,それも何かの教科書や本を読むというよりは,とにかく調べまくる,わからないことがあったら上級生に質問しまくるという感じでした.

 私の卒論のテーマは「地震動の破壊力に関する研究」でした.なんて大きいテーマということなんでしょうが,今にして思えば,三つ子の魂なんとかじゃないですが,結局,これが(その後の紆余曲折を経て)私の生涯の研究テーマになったことは驚きです.でも,当時の中身は,まずは,M2の定本さんに就いて,彼の修論のテーマである1968年十勝沖地震の八戸高専の被害を再現する,そのために八戸港湾から伝達マトリクス法を使って八戸高専の地震動を推定するというものでした.

 青山・小谷研は,鉄筋コンクリート造の研究室でしたので,伝達マトリクス法というか表層地盤の増幅特性についてご指導いただくため,当時,筑波大から戻られたばかりの地震研の南忠夫先生のところに二人で週一で通っていました.つまり,卒論でこのテーマを選んだことで学部4年のときから南先生と繋がりができたことになります.

 夏休みが終わる頃には,八戸高専の推定地震動ができて,南先生が「じゃあ,定本君はもう来なくていいから」と言われて,それ以降は,私一人で週一で地震研に通うことになり,まさに家庭教師のように説明を受けて課題をもらってそれをやって次の週に行って,ということになりました.そして,当然?のように,研究のこともそこそこに「じゃあ一杯やるか」となるわけです(笑).

 私のテーマは,まさに「地震動の破壊力に関する研究」で,いろんな復元力特性モデルを使って非線形地震応答解析を行って,どういう地震動が大きな地震応答を引き起こすかというもので,最初は南先生からもらったプログラムを使っていたのですが,小谷先生に先生がトロント時代に開発されたSDFと対応してるかチェックしておきなさいと言われてからはSDFを使うようになったと思います.

 でも,4年生にしてみればあまりに大きなテーマで,先生方に指示された具体的な内容は正直憶えてない(笑)のですが,どういう研究をするか自分で考えたいと(4年の分際で)考えて,でも,そんなことそんな簡単にできるわけもなく,とにかく関係した論文を読みまくって,でもなかなかアイデアが浮かばず,今でも脳裏に残っている光景は,目が覚めてとき家の枕元に置いた論文のファイルに夜明けの光が窓から差し込んでる情景ですね.

 結局,どういう内容になったかですが,伝達マトリクス法で表層地盤を変えた地震動を作成することができるようになっていたので,どういう表層地盤のときに破壊力のある地震動が発生するかというものだったと思います.

 こんな感じで,楽しい研究生活が始まったのですが,それまでは研究者になれるかどうかというか,研究というものが楽しいと思えるかどうかわからなかったので,国家公務員上級職(今の国家I種)の受験申し込みもしてそれなりに準備もしていたのですが,それをあっさりとりやめ,夏の大学院入試の面接で博士まで行きます!と言いました.

 家も卒論が佳境に入る12月に駒場から本郷の正門から歩いて百歩(笑)というところに引っ越しました(バドミントン部は4年は夏の七帝で引退).夜遅くまで(研究したくて)研究してて,正門が夜中の0時に閉まるので,0時を過ぎると正門の横の塀をよじ登って越えないといけないのですが,その瞬間何とも言えない幸せな気分だったのを今でもよく憶えています(つづく).

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