研究者としてのこれまで(とこれから)
(3) 大学院時代

 こんな感じでは,肝心の「研究成果の解説」というか,どういういきさつで今やってるようなことにたどり着いたかになかなかたどり着かないのですが,おそらく,あと2, 3回だと思うので,頑張って書いてみます.

 卒論を出して,大会論文を出して,耐震研という発表会があるのですが,春休みに当時助手をしておられた田才先生の実験を手伝うように言われました.彼が博論執筆に時間をとれるようにということもあったと思いますが,私の卒論が解析的な研究だったので,ちゃんと部材実験もできるようになっておけということもあったと思います.でも,同期の坂本と浅海がソファーのところで遊んでいるのに私だけ埃と油にまみれて実験しているのは正直ちょっと辛かったですね.

 最初は,田才先生から実験のノウハウとかはを教えてもらいながらいっしょにやっていたのですが,途中からは,まるで自分の実験であるかのように私が主体となって他の学生達に指示しながら実験するようになってました.でも,やっぱり,私のテーマではなく田才先生のテーマなので,それはなんだかなあとは思ってましたが,JCIの査読論文に投稿はしました.

 M1のときは,他にHFWのプロジェクトに入れてもらって,フレーム構造の地震応答解析をやって虎ノ門の建築センターで行われる委員会で(M1の分際で)結果を報告したりしていました.当時建築研究所におられた芳村先生と委員会前にソファーのところで打ち合わせをしていたのを覚えています.あとは,小谷先生が行けない時は私が代理で行くんですが,小谷先生が来られる時は,食事の弁当をこれあげる,これもあげるっていっぱい私にくださった(笑)のもよく思い出します.

 こんな感じでM1のときは,実験と地震応答解析の両刀使いで(JCIは実験で出して,AIJ大会は,フレームの地震応答解析の縮約モデルで出しました)今にして思えば大変だったんじゃないかと思うのですが,あんまりそんな感じじゃなかったですかね.

 M2のときというか修論は,フレームの地震応答解析で書きました.具体的には,フレームの設計用スペクトルを地盤種別によってどう設定するかと梁曲げ降伏先行型の崩壊機構を実現するための柱応力の動的増幅率でした.青山先生と小谷先生に筆頭著者になってもらって,JCIは2編,AIJは3編出したと思いますが,ちょっと無謀というかさすがにいっぱいいっぱいだったかもしれません.

 博士に進学してからは,総プロのNewRC(青山先生が委員長で,高強度材料を使ってRCで超高層建物を実現させるという国のプロジェクト)の実験を担当させていただくことは言われていたと思うのですが,実験が始まるのがD2からということで,応答解析に関係した仕事はいくつかありましたが,比較的自由というか,やりたい研究ということで,フレームの地震応答解析をやって構造工学の論文を書きました.

 中身的には,気になってることとして,設計のクライテリアが変形角で与えられているのに建物の性能が耐力というのが個人的にしっくり来なくて,つまりは,変形を抑えたいのであれば,耐力を上げるだけではなく剛性を上げるのが筋なんじゃないかと思って,そういう解析をして論文を書きました.

 D2になってNewRCの実験,具体的には,高強度鉄筋とコンクリートを使った柱を作成して,靱性能に劣るとされる高強度コンクリートを横補強筋でどう拘束すれば靱性能を確保できるかの実験をするということで,曲げせん断力を受ける柱試験体と拘束コンクリートを模擬した中心圧縮試験体の実験をやりました.でも,これがもう大変でした.

 試験体は,鉄筋加工,ゲージ張り,鉄筋組立は,いっしょに担当した卒論生の日比君や他の研究室の学生達に手伝ってもらって自分達でやらないといけないですし,コンクリートは,大林の技研で打ってもらったのですが,私の段取りが悪くて前日徹夜になり(欲張ってゲージを貼り過ぎて中心圧縮の試験体のいくつかで型枠が閉まらず,最後は,ドリルでえいやーっとリード線を出す穴を開けた),日比君といっしょに技研のコンクリートの床の上に寝ることになりましたし,研究室OBの勝俣さんにものすごく助けてもらいました.

 次に大変だったのが加力装置で,大がかりな装置は11号館の地下では無理ということで,何と総合試験所の2000t試験機で軸力をかけて,そこに治具を入れて曲げせん断力をかけるという超大掛かりなものになりました(ガンダムみたい(笑)と言った人もいました).これは当時助手をしておられた細川先生にものすごくお世話になったというか,私が案を出すのですが,実質彼が設計製作してくださったようなものです.

 こんな感じで,ほんとにいろんな人達に助けてもらって,もうほんとへろへろになりながら実験を終えてデータをとることができました.余計な話ですが,この年は,ライオンズが(130試合中)129試合目でブライアントに4連発を食らって優勝を逃した悔しい年でしんどかった思い出が重なってしまいます.

 当時はほんとに段取りが悪く,いろんな人に迷惑をかけたと思うのですが,実験を何とか終えて「段取り八分」ということを思い知り,その後,この教訓を活かして,とにかく事前にしっかり段取りすることができるようになった気はします.

 でも,これだけ頑張って(と言うより回りの人達に協力してもらって)データがとれれば,博士論文が書けるってわけじゃなくて,というか,書けるのかもしれませんが,私としては,どーーしても自分のアイデアを入れたいわけです.

 D2の実験前のアイデアとしては,これは,今にして思えば,D1のときにやった変形を抑えたいのなら耐力ではなく剛性というのと繋がってるのですが,当時は,横拘束力から拘束コンクリートの応力度−歪度関係を決めるというものが主流だったのですが,横孕みという変形を抑えたいのなら,「横拘束剛性」という概念を取り入れれば,より正確に拘束コンクリートの応力度−歪度関係を導けるのではないかと思いました.

 で,曲げせん断実験のデータを分析していくと,先行研究で当時建築研究所におられた平石さんや清水の佐藤さんが指摘されていた軸歪が急増する点というのがあって,そこに物理的何かがあるのは明らかで,それを何とかしたいと思っていました.

 それで,拘束コンクリートの応力度−歪度関係を歪度分布を仮定して荷重−変位関係に変換して見て行くと,その点が拘束コンクリートの応力度−歪度関係と幾何学的な関係で対応することがわかり,そうすると,いろんな横拘束「剛性」をもった中心圧縮試験体の結果があれば,万能?かつ物理的背景がある拘束コンクリートの応力度−歪度関係が得られ,柱の変形限界点も決められるわけです.

 その時点で,D3の夏です.そこから更に様々な横拘束「剛性」をもった中心圧縮試験をやるなんてーのは,いくら何でも無謀ですよね.ちょうどその頃,つくばでNewRCの中間発表がノバホールであって,そのとき塩原先生に相談したら,いくら何でも無理だから今の結果で博論をまとめた方がいいと諭されました.でも,私ってそう言われるとやりたくなっちゃうんですよね(笑).

 もう,最後の最後は,青山先生に相談ということで,上記の幾何学的関係などの説明をして,あとは,中心圧縮試験をやれば,ということをお話ししました.先生は,うん,うん,なるほど,なるほどと説明をきいてらっしゃったのですが,最後に一言,面白そうですね,是非やってくださいとおっしゃいました.

 ひえー,もうこりゃやるしかないかと言うか,青山先生に背中を押してもらったような感じでした.でも,それからが大変でした.まず,中心圧縮試験体を作るための横補強筋というかスパイラル加工をできるところを探さないといけないのですが,細川先生が見つけてきてくれました(境君,やっと見つかったよとソファーのところに小走りで来てくださったときのこともよく憶えています).

 高強度コンクリートは材料研の野口先生に調合していただき,試験機は,フジタにある高剛性の試験機を田中さんに頼んで使わせていただけることになり,実験が終わったのは11月くらいでしたかね.博論提出は12月下旬ですから,ほんとどうやって書いたんでしょうね(笑)? 正直,よく憶えていないのですが,D3のときの睡眠時間は3時間くらいだったと思います.

 でも,何とか博士論文を提出して,とてもとても大変でしたが,自分が研究者として(無謀なことだとしても)ここまでどうしてもやりたいというところまでできたことは大きな達成感があったとともに,ほんとにいろんな人に助けていただいてありがとうございましたという気持ちでいっぱいでした(つづく).

※こうして文章を書いているとでも,もう30年くらい前の話なんですが,当時のことが鮮明に思い出されて,ついこの間のことのような感じで,ふと我に返ると逆に違和感を感じるというか,30年なんてあっという間なんだなとも思いますね.

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