研究者としてのこれまで(とこれから)
(5) 東大地震研時代(1995年まで)

 こんな感じで夢のような日々が続いていたのですが,好事魔多しではないですが,そんなことが永遠に続くはずもありません.今にして思えば,背景的には,いろんな要因があるんですが,一つには,やりたいことを見つけてそれを仕事にするという夢を実現したということは,夢を失ったということでもあるわけです.私は今は夢とか目標なんか要らないと思ってますし,そんなものはどこかの誰かが下々の人間を体よくこき使うための戯言とさえ思っていますが,当時はまだ若かったですかね.

 実際,私は研究したくて研究してたわけで,夢とか目標のためとか,やりたいことを見つけてそれを仕事にするために頑張ってたなんてわけはありません.でも,何かおかしくなって行ったというか,父を亡くしたときのようにどんどん泥沼にはまって行く感じはしました.

 実際,そういうきっかけがあって,具体的には,当時付き合っている人がいて,結婚まで考えてたというか,互いの親に挨拶して式場の予約までしましたが,いろんな事情でだめになりました.就職して翌年(1992年)のことでしたかね.

 あとは,仕事がどんどん忙しくなって行きました.大学での(研究以外の)仕事はそんなにないのですが,学外の仕事がどんどん増えて行きました.具体的には,いろんな委員会から声がかかって,それはもちろんありがたい話なんですが,委員会で議論してこういう解析をしようということになって,それを下っ端の私が実働部隊になってやるわけです.それが1つとか2つならまだしもどんどん積み重なっていくといっぱいいっぱいになって行きますし,外の仕事ばかりしてると給料は大学からもらってるのに一体何してるん?という変な気分にもなってきます.

 でも,それでもまあ何とかやっていたと思います.研究テーマとしては,地震研に来たのでRCの部材実験というわけには行かず,RCを対象として地震応答解析でできることをやっていました.RCよりもっと広い範囲のものとしては,南先生の地震荷重委員会での仕事も手伝わせていただいて(私が計算して資料を作って),評判がよかったらしく,委員会の委員の先生からうちの大学に来ませんかという話が来たりもしました.

 D1のときにやった剛性で変形角を制御する解析というか,その背景をもっと明確にした論文は,学会での反応は今一でしたが,南先生には,ただ解析するんじゃなくて,シンプルだけどこういう物理があるやり方でやって行くのがいいと言っていただいたと思います.

 そして,何年かした頃,行く行くはこの研究室を継いで欲しいというようなことを言われました.もちろん嬉しかったのですが,一方では先が見えたような感じもして,当時はいろんな仕事でいっぱいいっぱいで,これがずっと続くと思うと素直に喜べないというか,よくない負のスパイラルに入っていたのかもしれませんね.

 時系列的には,前後するかもしれませんが,1993年の1月に釧路沖地震が起こって,初めて被害調査に行きました.田才先生,隈澤先生,柏崎先生といっしょでしたが,しんどかったです.久しぶりの被害地震で,RC建物の被害状況をしっかり後世に残しておくという重要な仕事でしたが,研究というよりは,まさに仕事でしたね.でも,最後に釧路地方気象台に立ち寄って,台長さんに900ガルで震度6の記録を見せてもらった時はちょっと萌えました(笑).

 この年は,北海道南西沖地震,グアム地震,そして,年が明けてノースリッジ地震と立て続けに被害地震が起こり,そのどれにも被害調査に行きました.でも,当時の私からすると,被害調査はとにかくしんどく辛いもので,調査結果を報告書にまとめるのも大変で,今の私からするとこんなこと言っても誰も信じてくれないと思いますが,被害調査が嫌で嫌でしょうがなかったです.お仕事だから仕方なく行ってる感じで,行くたびに「皆勤ですごいね」とか言っていただいたんですが,別に好きで行ってたわけじゃなくて,これも委員会の仕事と同じですが,どうして自分のところにばかり仕事が来るのかという不満が溜まって行ったと思います.

 でも,その頃は,まだ何とか頑張ってましたかね.というのは,ノースリッジ地震が起こって,被害調査に行った人がJCIの論文提出をあきらめる中,私は行き帰りの飛行機の中に巨大なノートPC(98ノート)を持ち込んでJCIの論文を書いていたのを覚えているからです.

 釧路沖地震と同様,ノースリッジ地震の調査結果をまとめるのも大変でしたし,これらの地震の強震記録を使って地震応答解析をして論文を書いたりしていました.具体的には,釧路沖地震は,震度6で大きな加速度を記録したけど非線形の地震応答解析を行うと全然大したことなくて,つまり,1993年釧路沖地震で被害が小さかったのは,建物の耐震性が高いからではなく,地震動が大したことなかったからなんですが,当時は,日本の建物の耐震性が高いという雰囲気が蔓延していて,それは違うといろんなところで言っていたのですが,私みたいな若僧の言うことは,ほとんど聞き入れてはもらえませんでした.

 でも,そういうことをもっと声高に叫んでる人がいて,それが当時はまだ清水におられた川瀬先生で,ちゃんとわかってる人もいるんだと思ってものすごくほっとしたのを憶えています.

 そして,今にして思えば,この大加速度地震動の問題が,後の「私の研究テーマ」となる地震動の性質と構造物被害の関係に関する研究のスタートになっていたことに気づかされます.

 南先生にどこでもいいから(笑)海外留学してこいと言われたのもその頃ですかね.昇進させるためには,海外留学経験が必要ということもあったでしょうし,私個人的にも単純に行ってみたいということもありました.それで小谷先生に相談したらUCバークレーのJ.Moehle先生を紹介してくださり,文部省の在外研究員を当てて彼のところに1年間行くことになりました.

 そして,年が明けて1995年,兵庫県南部地震が起こります.つまり,川瀬先生や私が予言した通りになってしまったわけです.ただ,当時はまだ強震記録はJMA神戸しか公開されてなくて,それでは被害を説明できませんでした.その年の3月までにバークレーに出発しないといけなくて,神戸まで被害調査にも行かないといけなくて(これはお仕事とかそんなことは超越した大地震だったことは言うまでもありません),しかも結婚までしたので(スキーの1級もこのシーズンにとった.その日か前日くらいに地下鉄サリンが起こって,帰りに乗った千代田線が霞ヶ関駅を通過したのを覚えている),もう大変どころの話ではなかったです.

 そして,その年,太田先生が定年で退官されるということで,その枠で人をとる,上から順番に声をかけていくけど,断られたらお前になるかもしれないので,一応業績リストを置いて行けと言われました.でも,上記のような感じでいろんな仕事をしていたこともありますが,大した研究業績はなかったと思います.

 というか,委員会の仕事とか被害調査の報告とかいろんな仕事をして行く中で,「私の研究」は何なんや?ということです.もちろん,いろんな仕事の中には論文を書けるようなこともありますし,そういう中でやれることはやってたと思いますが,そういう委員会の中の一つで日米でワークショップがアメリカのどこかで開かれることになり,私も何かフレームの地震応答解析をやって発表しました.

 評判はよくなかったですね.というか,そういうことをそれとなくちゃんと言ってくださる人がいるのはありがたい話でもありました.それで,夜はワークショップの会場だったホテルのバーとかで飲むんですが,京大の渡辺先生に「動解なんかやってもしょうがない」とはっきり言われました.

 先生はおそらく私が博士の時にNewRCの実験をしたことを憶えてくださっていて(JCIの発表のときも質問してくださいました),動解なんかやめて部材実験やろうよと暗に言ってくださったんだと思います.ありがたい話です.

 でも,当時私は地震研にいましたから,実験設備もないし部材実験というわけにも行かず,そもそも,部材実験というか,RC部材の静的挙動より,地震動というか動的挙動に興味があったので,どうしたらいいかわからなくなってしまいました.

 いつ頃からそういう感じになったかはよく憶えてないのですが,バークレーに行く頃は,既にそういう感じだったような気がします(つづく).

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