8/13'05
2005年全日本教職員バドミントン大会(於栃木)

 全日本教職員も今年で4回目です.1年目はベスト16まで行きましたが,その後,つくばに移ってからは,2年連続初戦負けと全くぱっとしません.つくばに来てから地震が頻発して忙しすぎるというのもありますが,筑波大バドミントン部という練習環境には恵まれていますし,まあ仕事が忙しいなどというのは言い訳にはなりません.でもなんかつくばに来てからだめなんだよなー.なんでだろ?幸いもうすぐつくばエクスプレスが来て東京に気軽に行けるようになるので,東京にいた頃練習していた人達と久しぶりに打ってほんとに弱くなったのかどうか「キャリブレーション」してみよかな.

 ただ,今年はトーナメント表が送られてきた瞬間に「終わって」しまいました(T_T).1回勝つと第1シードの江藤さんという「当たり」でした.第1シードの江藤さんは,全日本教職員のみならず,全日本シニアのチャンピオンなので,まあはっきり言うと40代で日本一バドミントンが強い人です.私の目標はベスト8なので,ここでも書いていますが,そんな雲の上のレベルは目指している場合でもありません(^^;.ただ,全く試合にならないようでは「当たり」が悪くなくてもベスト8になど入れるわけありませんから,1回勝ってどの位通用するのか通用しないのかは少し楽しみではありました.

 江藤さんとちゃんと試合をするには,初戦を余力を残して勝ち上がる必要があります.去年のようにファイナルの最後の最後まで死闘をやっているようではだめです.ということで,早く終わらせるべく最初から飛ばして行きました.その甲斐あって,1ゲーム目はあっという間に大きくリードします.これはちゃんとしたコンディションで江藤さんと試合できそうだな.そう思った瞬間,相手からクレームが入ります.サーブがフォルトではないか,ということらしいです(ロングハイサービスなのに).主審にクレームをつけているのですが,主審はフォルトではない,と判断してそのまま続行しますが,相手はしつこくクレームをつけてきます.そして,とうとう審判長を呼んで協議が始まってしまいました.主審は勉強不足でよくわからないと言っています.審判長は最終的にはあなたが判断してください,と言って帰っていきました.

 クレームの内容は,サービスのバックスイングで動きが止まる,ということのようです.私も全日本や関東,県大会,都大会などいろんな試合に出てきましたが,そんなことを言われたのは初めてです.ルールによると,「一連の流れの中で」サービスを打たなければならない,とのことですが,サービスの途中で動きを止めてるつもりなど全くありませんし,やれと言われてもできません(^^;.第一「一連の流れの中で」って何でしょうか?そんな曖昧なことが競技規則に書いてあるのでしょうか?

 ということで,帰ってきて競技規則について調べてみました.ここにあります.9.4と9.1.7が対応しますね.つまり,「サーバーのラケットヘッドの最初の前方向の動きはサービスの開始」であるので,私が一瞬止まるとクレームをつけられたバックスイングのマックスの位置が「サービスの開始」なわけです.つまり,百歩譲って一瞬止まっているとしてもそこが「サービスの開始」なので,それ以降,「サービス(9.4項)を始めた後は、サービスを打ち終わるまで前に向かって動きを継続しななければならない」はしっかり守られているので,フォルトでも何でもないことがわかります.競技規則は実に明確に書いてあり「一連の流れの中で」などという曖昧な表現は一切ありません.

 全日本教職員は,線審の中学生の誤審に散々悩まされてきましたが,もうそれは慣れました(^^;.中学生だしまあ仕方ないでしょう.常総の木内先生は全日本教職員では線審の誤審は必ずあるので(^^;それにペースを乱されないことが大事とよくおっしゃっていました.しかし,今回の誤審は(おそらく)ライセンスをもっている(はずの)主審のことなので,かなりひどい話です.自分で勉強不足と認めるのなら,少なくとも「疑わしきは罰せず」が原則でしょう.しかし,私も最大限気をつけながらサービスを続けましたが,得意げに何度もフォルトを取られました.フォルトをとられても「一連の流れの中」ではない,という非常に曖昧なことが理由なので修正のしようがありません.

 そんな感じで1ゲーム目はなんとか取りましたが,2ゲーム目は取られファイナルになってしまいました.バドミントンはサービス権がないと得点できないので,サービスのフォルト(それも誤審)を取られるのはかなり致命的です.ファイナルはかなりリードしましたが,結局追いつかれセッティングで取られました.ていうか,セッティングになった時点,いや,ファイナルになった時点でもう今回の全日本教職員は「終わって」いました.

 私の目標は初戦突破などではなく,あくまでベスト8なので初戦でもたもたした時点でもう終わったようなものです.今回は,2回戦が江藤さんだったのでそれは尚更のことでした.初戦の相手の人はとても礼儀正しく感じのいい人で試合後,「私のベストゲームでした」と声をかけていただきましたが,正直,サービスにしつこくクレームをつけてくる,という態度に好感はもてませんでした.彼が競技規則を熟知し,明らかにフォルトであるのなら,もちろん従わざるを得ませんが,彼がクレームをつける理由は「タイミングが合わない」が理由でした.そして競技規則によれば明らかにフォルトではありませんでした.

 スポーツなので勝ち負けはもちろん大事ですが,勝つためにはなりふり構わず手段を選ばない,という考え方は私の最も嫌うところです.バドミントンプレーヤーであるまえにちゃんとした人間であり,俗な言い方ですが,紳士でなければならないと思っています.それは阿部先生もたびたびおっしゃっていたことでした.

 しかし,そうは言っても要は私が力不足であることは否定のしようがありません.トーナメントなので半分は初戦負けするわけで,つまり,半分は初戦突破を目標としてくる人達なので,そういう人達は初戦からなりふり構わず挑んでくるでしょう.最終的にベスト8入りするには,そういう人達に対しても余裕をもって,退けられる力がやはり必要だと痛感させられました.実際,ベスト8入りしているような人は初戦はほとんどあっさり勝って勝ち上がっています.私が16入りしたときも初戦はあっさり勝ち上がり,シード選手との試合に全精力をそそぎ込むことができました(そこで体力を使い果たして次であっさり負けましたが(^^;).

 一方,私に勝って勝ち上がった人は次の江藤さんとの試合は,もう目標を達成した?のか,ファイナルセッティングの死闘?で疲れ果てていたのか(実際足を引きずっていた),まるでものけのからのようなプレーであっさり負けていました(単に全く歯が立たなかったのかもしれませんが(^^;).全日本チャンピオンと公式戦で試合ができるという非常に貴重な機会なのに,そんな試合するのなら私に代わりにやらせてくれ,と正直思いました.

 繰り返しになりますが,私の目標はあくまでベスト8です.断じて初戦突破などではありません.はっきり言って今の私の力でベスト8が目標というのは,身の程知らずでしょうが,ベスト16までは行ったことがあるので,既に達成したライン以下が目標になどなるわけがありません.しかし,今の自分の力はそれに遥かに及んでいないということも事実です.ベスト8入りするには少なくとも3〜4回は勝たなくてはいけません.初戦でもたもたしているようでは話にならないわけです.東京にいた頃,よく相手をしてもらっていた松井さん(当時,やはり40代全日本チャンピオン)もトーナメントを勝ち上がるにはペース配分が必要とおっしゃっていました.

 そんな感じで,今年も非常に不本意な結果に終わってしまいましたが,ここでも書いているように,あくまで目標に向かって,創意工夫を行い,練習することが私のバドミントンライフ?なので,また次の試合に向けて練習するだけです(といってもそんなに練習できるわけでもありませんが(^^;).

 つくばへの帰りに,去年,筑波大バドミントン部を卒業(もちろん筑波大大学院の修士も(^^;)した純平君がつくばに寄りたいので乗せていってください,と言うので(彼は今北海道にいて,今回の全日本教職員に北海道代表で来ていた),彼を乗せて,バドミントンなどいろんな話をしながらつくばに帰ってきました.2時間くらいでしたが,いろんな話ができて楽しかったです.彼も社会人になってもバドミントンのプレーが続けられるという喜びを感じているようでした.筑波大バドミントン部でいっしょに練習した学生が卒業して,その後もプレーを続けて,全日本教職員などで再会できるのはとても嬉しいことです.来年は,初戦など楽々突破できるような力をつけて試合に臨めるように(実際の結果はともかく)これから1年また頑張ろうと思います.

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2004年全日本教職員バドミントン大会(於島根)

 去年の奴も一応書いていたのですが,なんとなくぱっとしなかったので公開していませんでしたが,今年ある意味吹っ切れた?のでこれも併せて載せておこうと思います.

 全日本教職員バドミントン大会に出るのも今年で3回目です.1年目はシードに勝ってなんとか16に入ることができましたが,去年はいきなり強い相手に当たって初戦負け(おそらく所属が東京から茨城に変わったのでシードされなかった)でした.今年は,去年のように地震が頻発して調整ができなかったということもなく,調子もよくもないが悪くもないという状態で島根に乗り込みます.

 去年は飛行機でひどい目にあったのと試合の前に仕事(地震発生時に海外にいたため被害調査に行けなかった2000年鳥取県西部地震のいくつかの強震観測点周りの様子を見てくる)があったこともあり,電車で行きます.岡山まで新幹線で行ってそこから特急やくもで松江まで行き,そこでレンタカーします.

 前回は飛行機が台風で飛ばず,吉澤さん以外の茨城県チームの人達とあまり話もできなかったので,団体戦の前の日には現地に入ります.実は帰りの電車の中で筑波大の吹田先生からメールが入ってわかったのですが,当日,今年筑波大を退官された阿部先生の研修会があったとのことでした.

 茨城県チームはそのほとんどのメンバーが団体戦のみの出場ですが現在2連覇中です.メンバーは常総の木内先生の教え子を中心としたそうそうたるメンバーです.ですから,そのプレーぶりをちょっと見てみたいというのもありました.結果は,残念ながら準決勝で福島に1-2で負けて3位でしたが,やっぱり強かった.特に印象に残ったのは大橋君のプレーでした.動きやショットがスピードがあってとても安定しているのにもとにかく驚きましたが,相手がそれなりに強くてそれを崩しにかかって来ても,ちゃんと考えて調整できる,自分の頭でしっかり考えることができるバドミントンを熟知したとても「大人の」プレーヤーだと思いました.

 さて,肝心の自分の方ですが,1ゲーム目は3点しか取れずあっさり取られてしまいました.調子はそんなに悪くないと思うのですが,とにかく相手が思うようにプレーをしています.こういう時はだいたいクリアやロブがしっかり奥まで飛んでいないことが多いです.そこで,2ゲーム目はとにかく甘い球を上げずにしっかり繋いで体力勝負に出ます.去年は相手が強すぎてそれでもどうしようもなかったのですが,今年は明らかに相手が疲れてきて流れが変わりました.2ゲーム目は何とか取り,ファイナルにもちこみます.ファイナルは最初はかなりリードしましたが,最後はこちらが疲れてきて13-15で取られてしまいました.あー,また初戦負けかよ.

 もちろん全国大会に出てくるような人に弱い人はいませんが,2年連続初戦負けはかなり堪えました.去年は相手が強かったし(ベスト4まであっさり勝ち上がった),その後,周りのプレーを見ていて,やはり今の自分の力は16くらいか,と思うことができましたが,今年は見てて1回勝てても2回勝てる気はしませんでした.2年前に死闘(^^;を制して勝った岡山の松本さんも今年はすごく強く見えました.実際,1回戦で東京の加藤さん(かなり強い)にあっさり勝ってました.私が1回戦で負けた大西さんも(彼も大学で教えているようで試合後名刺交換までしました(^^;)2回戦で静岡の人にあっさり負けました.もちろんファイナルの死闘の後で疲れていたということはあるでしょうけど,私がやっても勝てる気はしませんでした.なんか強いのがごろごろいる感じで,こんなにレベル高かったかなー?なんかほんとに弱くなってしまったような気がする...

 帰りの電車の中で,これからどうしよう,バドミントンを続ける意味なんてあるのかな?などと考えながらぼーっとしていると,前述の筑波大の監督の吹田先生からメールが入ります.筑波大の学生には,ただ漫然と練習に出てるだけではだめだ,ちゃんと自分に何が足りないか,どういう練習をしたらいいかを考えられるようにプレーヤーになるようにと話しているのですが,自分がそれができていない,というような返事を書いたと思います.

 さて,これからどうするか,ですが,ちょっと思い当たりません(T_T).今筑波大のバドミントン部の練習に混ぜてもらってるのですが,1年生がたくさん入ってきてその相手をしないといけなかったりして,レギュラー,準レギュラーと打つ機会もほとんど無くなってきました.ただ,バドミントンを続けているのは,なかなかうまく行かないからでもあり,まさにうまく行っていないのですから(^^;,続けて行くしかないとは思っています.

 帰るとき,東京にいた時練習していたクラブ(プーナ)の逆井さん(日大職員)を車に乗せて松江までいろんな話をしました.こういう大会で再会していろんな話ができるのはとても嬉しいことです.逆井さんも頑張ってバドミントンを続けているようで,来年は50になられて(^^;,勝ち上がるチャンスが増えると思います.やはり続けることはそれだけでも大変なことだし,意義あることなのでとにかく続けてみようとは思っています.

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8/20'05
昔住んでいたところに久しぶりに行ってみました

 8/16の宮城県沖の地震の調査中に母方の祖母が亡くなり,宮城からつくばに戻ってきて,次の日の朝一で福岡に向かいました.もちろん亡くなってしまったのはとても残念ですが,96まで生きてもらえたので感謝の気持ちの方が強いかもしれません.やはり人は自分のためではなく,人のために生きている,生かされているという気がします.

 通夜には間に合いませんでしたが,葬儀には何とか間に合い,ちゃんと見送ることができました.翌日は,一通りのことは済んでしまい,仕事もたまっているのでつくばに戻りますが,折角,福岡まで来たのですから,久しぶりに昔自分が住んでいたところに行ってみることにしました.おそらくもう15年くらいは行っていないと思います.実は,3月の福岡県西方沖地震の被害調査のとき近くを通って,でもあまりの変貌ぶりにがっかりしていました.ほんとはちょっと寄ってみたかったのですが,震度計の余震記録の回収中でノートパソコンのバッテリがなくなりそうだったのでそのときは諦めたのですが,実はちょっと気になっていました.また,「しばらく」のラーメンの味もずっと気になっていて,地震被害調査のときは行けなかったので,今回行ってみることにします.

 祖母が叔母といっしょに住んでいた二日市の家から西鉄大牟田線で天神に行き,地下鉄に乗り換えてまず赤坂に行きます.西鉄大牟田線に乗ったのも久しぶりですが,多分私が子供の頃,父方の祖母に会いに行くのによく乗っていた頃の車両と同じ(型の)車両が使われているのには驚きました.でも古くて重くて燃費は悪そう(^^;ですが,とても堅牢な感じはしました.天神で地下鉄に乗り換えます.福岡の地下鉄はとても高いのですが,1日乗車券が600円なのでこれを購入します.赤坂は,福岡県西方沖地震で震度6弱が記録された福岡舞鶴震度計があるところです.その後の様子といくつか追加調査(構造種別など)を行いました.

■福岡舞鶴観測点に関する情報はここから■

 半径200mからぎりぎりはずれますが,赤坂駅のすぐ上にある壁にせん断ひび割れが多数入ったオフィスビル↓

は,(まだ)工事中.倒壊して取り壊された材木店は駐車場になっていた↓
せん断ひび割れが入った病院の補修の後↓

ちょっとわかりにくいが,補修をしてその上にタイルを貼っているので,補修した柱はタイルの表面の位置が少し手前に盛り上がっている.
応急危険度判定で危険(赤紙)が貼られたままの木造建物↓.ただし,外観からは被害レベルはさほど大きくない.

木造建物のカウントを行ったが,全部で10棟足らず.これでは震度を定義する被害関数のデータとしては不充分(100棟程度は必要).


■福岡舞鶴観測点に関する情報はここまで■

 そして,再び地下鉄に乗り,しばらくのある西新に向かいます.しばらくのラーメンはやはり味が少し変わっていました.でも思ったほどではなかったです.一口食べたところでは,昔食べた頃のコクがしっかり感じられましたし,日本橋店のように麺がにゅるにゅるしてることもありませんでした.ただ,コクの強さは落ちたかな.その分,ちょっと塩辛い感じがしました.体に悪そーな(^^;白い粉はシュッシュッと2回でした(以前は5回(^^;,東京の店は1.5回).今はやってるかどうかわかりませんが,昔は替え玉を8回すると只になって名前が店の壁に書かれるのですが,その掲示板を見ていたら,西南中の大平君の名前がまだしっかり載っていました.テレビでは高校野球の決勝戦,ではなく,ホークスの試合を試合前の国歌斉唱から中継していて,あー,もう福岡はホークス一色になっちゃったんだなー,と思いました.ちなみに,しばらくはホークスの試合の後行くと,ホークスが勝ったら20%OFF,負けても10%OFFだそうです(^^;.

 しばらくのラーメンを食べた後,西新の町を少し歩いてみました.西新は中学(西南学院中学),高校(修猷館高校)と6年間通ったところです.何年か前,来たときもその変貌ぶりにがっかりしていました.

 しばらくを出て,西に進み,城南線にぶつかって北の方を見たところです↓

うーん,やはり昔の面影は...しかし,そのまま西に商店街の方へ行くと↓

雑多な感じは昔のままですね.昔からある果物屋さんもまだちゃんとあります↓

そして,蜂楽饅頭もまだちゃんとありました!↓


コバルトアイス(^^;もまだちゃんとあります!↓

そして,脇山口に来ました↓が!,バス停がない...

中学,高校のときは,この脇山口から3番線のバスに乗って国道263号線を通って通学していました.今日もそのバスで家の近くまで行こうと思ったのですが...少し北の方に行きます.今の修猷館高校です↓.この辺の雰囲気は昔と大分違います.
脇山口のバス停は少し南のベスト電器の前に移動していました↓つまり,ベスト電器は当時と同じ場所にありました.ここで1本810円(定価1000円だが,店で1割引,クーポンで更に1割引)のカセットテープ(TDKのSA90分)を何本買ったことでしょう.

バスに乗って263号線を南下します.263号線沿いは雰囲気は相当変わっていますが,道の曲がり方とか,部分的にはやはり昔のものが残っているところも沢山ありました.平田君ち(平田耳鼻咽喉科)や笠君ち(笠外科)もありました.
西南中や森田修学館に来てる生徒の中に医者の息子が沢山いましたが,ちゃんと医学部に受かって後を継げるというのも大したもんですね.バスは最寄りのバス停の1つ前の干隈で降りました.ここは福岡県西方沖地震の被害調査のとき通りましたが,昔と全く雰囲気が違っています.ここから,昔の家の方ではなく,東の方へ,即ち,西南分校前(まだあるなら)のバス停の方へ歩いていきます.西南分校前に着いて(ちゃんと当時と同じ名前でありました),バス停から七隈小学校の方を見たところです↓.なお,この辺からごくごくごく一部の人にしか意味不明だと思います(^^;ので,どうぞ読み飛ばしてくださいm(_ _)m.ごくごくごく一部の人のためと自分が忘れないように整理しているというような類のものですから.

うーん,当時の面影はありませんねー.西南分校前から南の道に入ります.この道は高校のとき,自転車で行くときに通っていた頃よく通った道です.昔のままなら,入ってすぐ二股のはずだが...ちゃんとそうなってました(^^)↓

ここを右に行くと,左に大きな池があるはずだが...ちゃんとありました↓
しかもほぼ当時のままです(^^).ここから見た油山です↓

ちょっとちんちくりん(^^;ですね.ぐるっと回って行くと,左にけもの道?(^^;があるはずだが...けもの道ではないですが,整備されてちゃんとありました↓
ずっと南に進んでいくと↓

この辺の雰囲気は当時とあまり変わりません.だんだん嬉しくなってきました.そして,昔住んでた家に近づいてきました.左に曲がると干隈公民館があってその向こうを右に入るのですが...ちゃんとありました.建物も当時のままですね↓

そして,右にはいると↓

当時はこの辺は田んぼでしたが,建物が建っています.が,雰囲気は残っています.そして進んでいくと,桜庭さん,岡野さん,千竃さんの家がほぼそのままありました↓.この辺は全く当時のままです!いやー,来てよかった(^^).こりゃ,思ったより変わってないじゃん.

千竃さんの家の3軒先が昔住んでいたところです.どきどきしながら(でもないが(^^;)進んでいくと,いきなりひらけて↓

大きな道路が通っていました↓

昔住んでいた家があったのは,この辺でしょうかねー↓.向かいの米田さんちももうありません.

道を渡って反対側から見るとこの辺か↓右の方にソーラーパネルが3枚乗った青瓦屋根が千竃さんちなのでその3軒分手前ということになります.


香原さんちは当時のまままだ残っていましたが,もう住んではおられないようでした↓

西の方を見たところ↓川浪病院が見えます

この辺から見た油山↓

当時のままです(当たり前か).やはりこの辺からのアングルがバランスがとてもいいです(^^).そのまま進み,丘の頂上だったところから栗原酒屋さんの方を見たところ↓

うーん,昔はもっと急な坂だったような気がするが...ここから昔住んでた家の方を見ると↓家が見えたのですが今は全然見えませんね.ていうか家ないし(^^;

坂を下って下から見ると↓
うーん,やっぱりどー見ても坂が緩くなってる.栗原酒屋さんのところを振り返って↓

ここを過ぎて右に曲がる道↓

昔よく父と魚をとった川↓今じゃ考えられませんね(^^;

ずーっと行って,国道263号線のあたりまで来ました.右に当時からあったラーメン屋さん,左にマルキョウがまだあります.

国道263号線に出て南(野芥)の方を見たところ↓なんとなく当時の雰囲気は残っています.

来た道を引き返します.この辺から見た油山↓やや間延びした感じ.

再び丘の頂上まで戻ります.家があった反対側の方向↓夏休みにラジオ体操をやってた納骨堂?が見えます↓

ここから七隈小学校への通学路を通って七隈小学校まで行ってみることにします.ここから2kmくらいはあったはずです.この道を毎日向かいの米田君達といっしょに走って通いました.そのおかげで大分足腰が鍛えられた?最初は右に曲がります↓.
ここまでの道の曲がり方は当時のままです.曲がりきって右の方に行くのですが↓
ちょっとめんどくさくなり(^^;,新しくできた大きな道↓で真っ直ぐ行くことにします.
ここにまた丘があったのですが,それは当時のままですね.でも小学生の頃のイメージからすると随分低く見えます.これを越えると梅中(梅林中)や福大が見えるはずです.丘の頂上付近です↓

渡辺さんちがおそらく当時のままありましたが,もう住んではおられないようです.丘を越えると梅中と福大がちゃんと(^^;見えました↓

この辺はうっそうとした林の中の急な下り坂だったのですが↓当時の面影はあまりありません.梅中の手前に何と地下鉄の梅林駅があります.当時ここに地下鉄の駅ができるなど誰が考えたでしょうか?

少し進んでいくと,急な下り坂の名残がありました↓
地下鉄梅林駅です↓天神まで18分!信じられませんねー.でも地下鉄七隈線も乗車数が予想を大きく下回り,こんなでかい看板を出して宣伝しているようです.そりゃー,こんなとこ?に地下鉄作ってもねー(^^;.

地下鉄七隈線はここから福大を通り七隈の方へ行っているようです↓

梅中です↓.東の千代,西の梅中と言われた梅中(意味は知る人ぞ知る?)は今はどうなんですかね?

この辺から見た油山です↓.大分ちんちくりんになってきました.

梅中を過ぎて北に曲がったところです↓.この辺は田んぼの中のほとんど車も通らない道だったのですが,今は車がどんどん通っていました.まだ通学路にはなっているようでしたが...

少し進んだところ↓

振り返って梅中を見る↓.この風景は当時とほとんど変わりません.でも校舎は確か赤っぽかったような記憶があります.

更に進みます.地震の影響か,まだ屋根瓦にブルーシートがかけられた家がそこかしこに見られます↓(ここだけ被害調査報告風(^^;)


七隈小に近づいてきました.右に曲がる近道のところです↓

七隈小の前の通りに出て干隈,西南分校前の方を見たところ↓

七隈四つ角の方を見たところ↓

七隈小学校(私が卒業した小学校です)↓

この辺から見た油山↓.大分ちんちくりんです(^^;.何年生のときかは忘れましたが,油山が山火事になり,当時は大変でした.火の手が広がってどんどん人家に迫ってくるのがここから見えたほどです.

さっき,干隈から西南分校前の方へ歩いていくとき,なぜか3番線のバスが走っていたのですが,こういう理由だったようです↓.要は,地下鉄開業に伴い,14番線が廃止されたとゆーことですね.

七隈四つ角まで来ました↓昔と比べると道も格段に広くなり,賑やかになっています.

七隈四つ角から北の金山団地の方を見たところ↓.道が広い!(^^;

七隈四つ角から南の福大の方を見たところ↓.やっぱり道が広い!(^^;

地下鉄七隈駅↓から地下鉄に乗って天神まで戻ります.

歩いてきた経路です↓.+が昔住んでいた家があった場所.

地下鉄はとても新しく,座席が丁寧に7つに分かれていて(いいアイデアですね)快適でした↓.

歩き疲れて,うとうとしていたらあっという間に天神に着きました(^^;.でも天神と言ってもすごく南の方で(駅名は天神南となっていた),空港へ行く地下鉄の天神駅まで随分歩きました.こりゃー大手町並?

 ということで?,久しぶりに(15年ぶりくらいか?)昔住んでいたところの周辺を歩いてみました.福岡県西方沖地震の被害調査のとき近くを通ったときは,あまりの変貌ぶりにかなりがっかりしたのですが,丹念に歩いてみると当時の面影を残しているところも沢山あって,とても嬉しかったです.来てよかった(^^).これらの情景はよく夢にも出てくるので,「現実」の空間を歩いているのに夢を見ているようなとても不思議な気分でした.また,道路が通って実家が無くなるとき,忙しすぎてちゃんとお別れをしておらず,ずっと気にもなっていたので,ちょっとすっきりもしました.でも多分もうこの辺に来ることはないかもと思うとちょっと寂しい感じもします.福岡に来ることも仕事や身内の不幸などがなければまずありません.さようなら福岡,と言って,東京(厳密にはつくば(^^;)に帰ってきました.でも宮城に福岡にという大変な1週間ではありました.

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