5/15'05
勉強と研究 似て非なるもの

 勉強と研究は,似ているようでその実は全く異なるものです.勉強は「既にわかっていることを勉強する」ことで,一方,研究は「まだわかっていないことを研究する」ことです.このことは何を意味するかというと,勉強ができない,嫌いだからと言って研究者になる道を諦める必要はなく,逆に,勉強ができるからと言って優秀な研究者になれるとは限らない,ということです.

 まあこれも当たり前と言えば当たり前のことで,何を今更という感じもしますが,勉強と研究は似ているようで実は全く違うものです.大学院時代や大学に就職してからも時々「へー,勉強が好きなんですね.」と言われますが,はっきり言って私は勉強が好きではありませんし,得意でもありません(^^;.それは今でもそうです.実際,今の仕事を選んだわけにも書いているように私は学生時代は決して優等生ではありませんでしたし,いわゆる受験にはことごとく失敗しています.一応東大卒ではありますが,浪人してやっと入れてもらった(^^;と思っているので,どこか一歩下がっていわゆる東大生や東大卒を見ているような変なところが今でもあります.大学に入る前も入った後も「勉強ができる」という点に関しては,自分より優れた人はいくらでもいました.でもまあ「勉強ができる」というのは,能力というよりは,「勉強する」かどうかなので,単に「やる気」の問題かもしれませんね.

 しかし,そういう状況は大学4年の時,研究室に入って「研究」というものに直接接したとき一変することになります.私は大学の先生になりたいとずっと子供の頃から思っていて,でもそれにはとても勉強ができないといけない,と思っていたので正直ちょっと自信がありませんでした.東大に入ったくらいで大学の先生になれるほど最先端の学問は甘いものではありません.実際,官僚になることも考えていて,国家公務員上級職(今の国家I種)の情報を集めたりして,勉強や受験申し込みもしていました.しかし,研究室に入って研究がどういうものかがおぼろげながらわかると勉強と研究は全然違うことがわかり,勉強ができなくても研究者にはなれる(もちろんある程度はできないと話にならないですが(^^;),自分も勉強は(さほど)できないが,研究者にはなれる,と思いました.なんで「自分は研究者になれる」と思ったのかは,実はよくわかりませんが,まあ一種の思いこみでしょうか?(^^;研究というものに興味をもち,どうしても研究者になりたい,と思えば,「なれる」と思いこめるような気がします.実際,今なんとか食べて行けているのでその判断は正しかったのでしょう.

 勉強と研究の違いは一言で言えば,勉強は「既にわかっていることを勉強する」ことで,一方,研究は「まだわかっていないことを研究する」ことです.なんか日本語だけ見ると全然説明になってませんが(^^;,でもまさにそういうことです.どっちが難しいかと言えば,そりゃあわかっていることを勉強することより,わかっていないことを研究することに決まってますが,人にはやはり向き不向きがあります.勉強が得意な人もいるでしょうし,研究が得意な人もいるでしょう.私は勉強はあまり得意ではなかったが,研究は(結果的に(^^;)得意だったということかもしれません.

 実際,この世界に入ってから,東大などの一流大学出身の優秀な研究者が多いのは確かにそうですが(と書いてみてまた気がついたのですが,やはりここでも自分は除外して考えてしまっています(^^;),一流大学以外の大学を卒業した優秀な研究者をたくさん見てきました.ですから,たとえ勉強ができなくても,嫌いでも(^^;,自分は研究者になるんだ,という強い意志があれば,なれる可能性は大いにあると思います

 研究で何が大変かと言えば,研究テーマを決めることだと思います.研究の善し悪しは,はっきり言って何を研究するかを決めたときにその大勢が決まっているとも言えます.そういう研究テーマを思いつけるかどうかが分かれ目だと思います.工学の場合は,社会のために役立つかどうかということも考慮しなければなりません.研究テーマを思いつけなければ商売あがったりで,そういう意味ではとてもシビアと言えますが(実際,私もこれから数年は食べていくだけの研究テーマはありますが,それから先はわかりません(^^;),大学の先生はなってしまえばなかなかクビにはならないので,それもどうかとは思います.

 でも,よく考えてみれば,「勉強ができる」ということだけで食べて行ける分野はありませんよね.例えば,「勉強ができて」東大に受かったとしても,卒業後,国家I種や司法試験に受かって,官僚や弁護士になったりしても,それから先は,「勉強ができる」だけでは何ともなりません.結局は,「研究ができる」とかなんとかいうことではなく,単に「仕事ができる」かどうか,ということかもしれません.

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15b
人生や世の中などいろんなことについて考えること

 人生や世の中などいろんなことについて考えたことを取り留めもなく日記風に,あるいは,時には割とちゃんとした形?で書いています.このコーナーは,以前,「仕事以外にやっていること」の最後に載せていたものです.「人生や世の中などいろんなことについて考えること」は,提案する震度算定法の紹介とともにホームページ開設の目的の1つだったのですが(ご要望?に反して(^^;),公開はなかなか進みませんでした.その大きな理由の1つはちゃんとした「形」にするのが大変(面倒(^^;)だったからです.そこで,雑記帳という形にして「形」にとらわれず,日記のように思いつくままに書いてみることにしました.すると文章や構成は荒削りながらどんどん書けることに気がつきました.

 そこで,この雑記帳を以前の「人生や世の中などいろんなことについて考えること」と統合し,リニューアル?オープンということにしました.ですから,その中身は玉石混淆(石だけだったりして(^^;)ですが,まあ石もぼちぼち磨いていこうと思っています.また,雑記帳に書いたものは1つのページにいろんな内容が含まれている場合があります.そこでhtmlの利点を生かしてページ別の目次の他にテーマ別リンク集というのも作って行こうと思っています.これは自分にとっても,だーーっと書いたものをテーマによって整理するという意味もあります.いずれは,ここだけ見ると私が考えていることがなんとなくわかる?ようにできればと思っています.

 また,雑記帳にだーーっと書いてしまうとやや冗長になってしまい,「長い!」という指摘も受けましたので(^^;,学会指針および解説(^^;のように,最初に要点(指針)を書いて,その後に本文(解説)という形にしていこうと思います.これも思いついたところからぼちぼちやっていこうかな,という感じです.ですから,新しいページが次々にできると同時に既設のページもどんどん修正していくことになります.「本文」だけというのもとりあえず公開しちゃうかもしれません.

 仕事,そして,仕事以外もいろんなことを結構「まじ」にやっている私ですが,この「人生や世の中などいろんなことについて考えること」をとても大事にしています.人生や世の中のいろんなことに関心をもち,1人の人間として何事に対しても自分の考えをもっていたいし,そして何より考えずにはおれないからです.仕事は定年が来ればクビになりますし,スポーツは体が動かなくなればできなくなりますが,「考える」ことは,それこそ死ぬ直前までできることですから.

 もし私が明日死ねば,私が考えていることは永久に消え去ってしまうので,たとえ不完全なものでも「形」にしておきたいということもあります.私がいろいろ苦しんで考えたことを読んで何かのヒントを得たり,元気になってもらえたりすることがひょっとしたらあるかもしれない,という期待もありますし,単なる「自己満足」ということもあります.これはホームページを作ってから気がついたのですが,自分の自己紹介のようなコーナーも設けたのでホームページができていくにつけ,自分の一種の「コピー」とか「ミラー」ができていくような感じがして,いつ死んでもとりあえずこれまで生きてきたことの証みないなものは残る?みたいな精神的な安らぎ?というか安心感のようなものを感じました(それまでは,自分が生きていた証を残したい,なんて考えたこともなかったのですが...).そういう意味ではこのホームページが私の「ミラー」のようなものなら,このコーナーは私の遺書のようなものかもしれません.

 とは言え,私はとても怠け者(^^;,かつ,飽きっぽい(^^;のでいつまで続くかわかりませんが,せめて2, 3日に1度程度は更新して行こうと思いますので,どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m.タイトルに「(仮)」とあるのは,とりあえずだーーっと書いたいわゆる「雑記帳版」という意味です.また,タイトルに「(雑)」とあるのは,内容そのもの?が「雑記帳版」ということです(^^;.ご意見ご感想などいろいろいただければ嬉しいです.メルアドはここにあります.

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5/16'05
なんかどれも中途半端...

 仕事以外にやっていることにも書いているように,私は仕事,そして,仕事以外にいろんなことをやっています.それもかなり「まじ」に,しかも,理系,文系,芸術系,運動系と畑違いのいろんなことをやってます.どれも好きですし,どれもそこそこできるので,それはやはり感謝しないといけないことだと思います.それぞれ独特の世界,人の輪,雰囲気があり,そのどれもに接しているということは,貴重な経験になっているとも思います.しかし,はっきり言ってどれも中途半端になってしまっているのは否めません

 ピアノは,アマチュア(という言葉はあまり好きではないが)の割にはかなり弾ける方だとは思いますが,プロ,例えば,妻と比べると「人前で弾いて金がとれるレベル」というのがどの位かというのを思い知らされます(その一方で,それでプロ?という人も残念ながら沢山いますが).それどころか,アマチュアの中にもそれこそプロ並みの腕前をもつ人もごろごろいるのを東大ピアノの会などで嫌というほど見てきました.スキーも先日,クラブの人達とかぐらのコブツアーに行ったのですが,みんなほんと上手くて(ほとんどが準指以上),かなり凹みました(T_T).また,これも先日,バドミントンの茨城県大会の全日本シニア予選に出たのですが,全日本ベスト8クラスの選手には全く歯が立ちませんでした(T_T).

 「器用貧乏」という言葉がありますが,仕事以外は,まさにそれを地で行っているような気もします.仕事はそれなりに頑張っているつもりですが,仕事以外のことをやれば,それも「まじ」になってやればやるほど,仕事をする絶対的な時間は減ることになります(もちろんそうならないように頑張っているつもりですが).実際,仕事以外にいろんなことができる能力があるのに,あえてそれを封印して仕事に全精力を注ぎ込んでいる人もいます.ある分野に能力がある人は,その分野に突出した能力をもっているというよりは,「できる奴はなんでもできる」という感は否めません.実際,東大卒の連中を見ていると(と,ここでも自分は除外している(^^;),勉強ができるというだけではなく,何でもできる奴が多かったような気がします(基本的にみんな負けず嫌いというのもあるでしょうが).

 社会の役割分担を考えれば,てんで大したレベルではない仕事以外のことをやるよりもその分仕事に全精力を注ぎ込んだ方がより大きな成果が上がる可能性はあるでしょうし,そうすべきなのかもしれません.しかし,「仕事だけ」ではどーしても嫌だ,という気持ちも一方ではあります.それは,仕事は定年になればクビというのも目の当たりにしてから一層そう思うようになったのかもしれません.しかしそう思えば思うほどエネルギーは分散し,結果的に今のところどれも中途半端,というか,少なくともどれも自分で満足のいくレベルには程遠いものになっています(T_T).

 実際,このことを指摘してくれた人が過去に2人いました.1人は中学(福岡にある西南学院中学)時代の1年生の時の担任だった数学の今西先生で,私の成績がいわゆる「オール5」の状態に近かったことで,コメント覧に「将来何をやるのかちゃんと考えないときびしいことになる」みたいな,今の私を予言するかのようなことを書いてくださりました.もう1人は,東大バドミントン部時代の先輩の炭谷さんで,彼は,私が1年のときの4年で,しかもキャプテンで,しかも成績抜群で,しかもめちゃめちゃ格好良くて(^^;,憧れのような存在だったのですが,卒部するときに卒業生一人一人にコメントをくださり,その中で私に対するコメントは,「境はなんでもできるんだけど,バドミントンに関してはそれがあだになったようなところがあるねー.そうでなかったらバドミントンももっと強くなれたんじゃないかな.でも大学からバドミントンを始めて対外試合に出られるようになったのは境だけだし,よく頑張ったと思う.」というような,こんな私のこともちゃんと見ていてくれていた先輩もいたんだ,ということで涙が出るほど嬉しかったのですが,あまりに嬉しくて肝心な前半部分の貴重な忠告?を忘れてしまった?感があります.

 いろんなことをやることは,時間的に厳しいですが,相乗効果も確かにあります.例えば,バドミントンをした後,シャワーを浴びているときにふっと研究テーマを思いつくこともありますし,どういうわけか体はぼろぼろに疲れていても頭は冴えていて,練習の後は,結構仕事が進みます(でもそういう日の次の日にどっとしわ寄せがくるものですが(T_T)).ピアノを弾く合理的な手の形から,バドミントンやスキーの理想的なフォームを考え出すこともありますし,その逆もあります.ですが,肉体的にもそうですが,前述のように結果があまりについてこないと精神的にかなりしんどいです.やる気3要素的には,内的熟達と人とのつながりでやって行けそうなものですが,あまりに報酬がないのも辛いところです.でもまあ,「全ては150億年前に決まっている」的な勘?によれば,懲りずに今の状態でやって行くのでしょう.他にもおもしろそうなことが見つかれば,「種目」が増えてしまうことさえありえます(^^;.

 ということで,単なる愚痴?のようなものになってしまって,読んでる人には何の足しにもならないようなことを書いてしまったな,と少し自己嫌悪気味ですが(T_T),こういうストレスを発散するのもこのコーナーの目的の1つ(^^;ですから,お許しくださいm(_ _)m.このコーナーはまあ日記のようなところもありますが,日記と違うのは「人に読まれる」ことを前提に書いていることです.そういう意味ではブログに近いかもしれません.実際にどのくらいの人に読んでいただいているかは何とも言えないところもあるのですが,「目に止まって誰かが読んでくれるかもしれない」と思えるだけで「話をきいてもらえる」ような感じで精神的には随分違うものです.ですから,かなり本音に近いものを書いています.でも,さすがにオフレコ的発言まではできません.やはり「飲みながら話す」のが一番ですかね(^^;.

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5/5'05
5/19'05加筆
バドミントンというスポーツ

 なんとなく始めたバドミントンですが,社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとしてとても優れていることがわかりました.ということで,なかなか結果が出ずにしんどいところも確かにあるのですが,もうしばらくは頑張って続けていこうと思っています.

 ここでは,なぜ私がバドミントンというスポーツを選んだか,なぜバドミントンというスポーツをまだ続けているかについて,「まだバドミントンやってます」とは違った側面,即ち,「バドミントンというスポーツ」と他のスポーツとの比較し,社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとしてのバドミントンについて書いてみたいと思います.

 私がバドミントンを始めたのは大学に入ってからですが,別に大学に入ったらバドミントンをやろう!と思っていたわけではありません(^^;.ただ,中高と部活はいわゆる文化系(ブラスバンド)でしたが,スポーツは大好きで運動部に入りたいとはずっと思っていました.ほんと勉強とか余計なもん?がなく,許されるのなら文化系と運動系と両方やっていたと思います(今は両方やってると言えるか(^^;).そういう意味でも大学に入ったら運動部に入ろうとは心に決めていました.ただ何をやるかははっきりは決めていませんでした.

 大学入試が無事終わり,どこに入ろうかとぼちぼち考え始めます.まず最初の選択は団体競技にするか個人競技にするかです.それまで体育の時間とか放課後,あるいは授業が始まる前とかに野球,サッカー,バスケ,バレー,陸上,水泳,柔道,卓球などいろんなスポーツをしてきましたが,どれもそこそこできてどれも楽しかったですが,突出してこれがやりたい!というものはありませんでした.陸上,水泳を除いては部活以外だとできるものが団体競技に限られるということもあったと思います.私が好きでかつ得意なものは球技だったので,個人の球技というのにとても興味がありました.

 個人の球技というと大分絞られます.私が最初やろうと思っていたのは硬式テニスでした.テニスならメジャーな競技であるにも関わらず,野球やサッカーのように小さい頃からやっている人がほとんどということもなく,大学から始めても何とかなるんじゃないかとも思いました.

 それでテニス部の門を叩こうと思い,入学を待ちわびることになります.無事予定通り?合格し,入学手続きのとき運動会(東大では体育会ではなく運動会と言います)の各部紹介の本をもらってテニス部のところを早速開いて連絡先などを見たと思います.そこで,思わぬ事実に遭遇します.東大はキャンパスが大まかにいって1,2年を過ごす駒場と3,4年を過ごす本郷の2つに分かれているのですが,テニス部の練習コートは本郷にあることがわかりました(いわゆる農グラのテニスコートですが,奇しくも?9年後大学院を卒業してそのすぐ横の地震研に就職することになります(^^;).つまり,テニス部の1,2年生は駒場での授業の後,わざわざ本郷まで出かけていく必要があったのです.

 しかもその時既に駒場キャンパスのすぐ近くの下宿を決めてしまっていました.というのは,たまたま試験がよく出来て(まあ浪人してますから(^^;),合格発表の後だといいところがなくなると思って,合格発表前に住むところを決めてしまっていたのでした.そうするとテニス部に入ると,駒場で授業に出て本郷まで練習に行ってその後また駒場に戻って来ないといけません.これじゃあ何のために駒場キャンパスの近くに住むことにしたのかわかりません(もう既に授業はほっぽりだして部活中心の生活を前提としている?).

 それで仕方なく?他の部を探すことにしました.別にテニスでなくてはだめだ,と思っていたわけでもないですから(^^;.後から運動会ではなくサークルという選択肢もあったことに気づいたのですが(テニスサークルは駒場で練習していた),どういうわけかその時はサークルというのは考えもしませんでした.そして,個人の球技として次の候補に上がったのがバドミントンでした.バドミントンは自宅の裏の空き地で妹と羽根突き(^^;程度のことはよくしていましたが,競技としては全くやったことはありませんでした.ですから逆に競技としてのバドミントンに何となく憧れのようなものはありました.実際の競技も中高と学校にバドミントン部がなかったので生で見たことはありませんでしたが,大学に入る前の年(1981年)にユーバー杯(女子の国別団体世界選手権)が日本で行われて,日本が優勝した(全くバドミントンは素人でしたが,確か近藤さんが最初のシングルを取ったのを憶えています)のをテレビで見ていました.

 それでとりあえず,バドミントン部の部室をたずねてみることにしました.そこに当時の駒場キャプテン(3,4年生は本郷の授業が終わってから来るので前半の16〜18時は1,2年生で練習していた)だった河野さんがいて,とても親切に応対してくれました.初心者だと言ったらラケットも貸してくれました.そして一番驚いた?のは,河野さんがあまりに美形で格好良かったことで,なんか「これって青春?」みたいな感じがしてしまいました(^^;.

 そして,当時練習していた駒場第4体育館(今と同じ練習場所.ただし今は駒場第2体育館と名称が変わった)に連れていってもらいました.そして,そこで初めてちゃんとネットが張られた6面のバドミントンコートを見ました.なんかバレーコートを縮小コピーしたみたいなとても不思議な感じがして,かつ,とても興味をもったのを覚えています.そういう感じで物理学者になるという夢敗れた(^^;私のバドミントンライフがスタートすることになります.

 練習は,月,水,金の16時〜20時で,土日は試合があるときは試合,という感じでした.ただ1年生は夏休み前までは別メニューで,前半の16〜18時はひたすらトレーニングでした.アニマルと言って,うさぎ飛び,蛙飛び,アヒル歩きなどを延々とやらされました.次の日は筋肉痛でまともに歩けないという状態が1ヶ月くらい続きました.最初の頃は筋肉痛が取れない状態でまたトレーニングになるのでめちゃめちゃ辛かったです.なんか「柔道部物語」(小林まこと)みたいですね(^^;.ちなみに「柔道部物語」は「ドラゴンボール」とともに私の好きな修行系?コミックの1つです.1年生は20人近くいたと思いますが,脱落する人はいなかったと思います.まあ東大生はみんな負けず嫌いですしね(^^;.

 雰囲気としてはいわゆる体育会系にかなり近かったと思います.さすがに,4年が神様なら3年が平民,2年が貧民,1年が奴隷;とまでは行かなかったと思いますが(^^;,上級生に口答えできるような雰囲気ではありませんでした.上述のアニマルでみんなから遅れようものなら罵声が飛んできました.それでも私は,結構口答えして上級生から睨まれていたと思います(あまり真面目な部員でもなかったですし(^^;).特に当時3年生で次の年のキャプテンになった山梨さんには相当睨まれてました.私がまだバドミントンを続けていると知って一番驚くのは山梨さんに間違いありません(^^;.今,筑波大バドミントン部で練習させてもらっていますが,雰囲気は(練習メニューではなく)当時の東大バドミントン部の方が数倍厳しかった(^^;です.まあ時代の違いもあるでしょうけどね.

 激しいトレーニングの後,ぼちぼち羽を打たせてもらえるのですが,とにかく驚いたのはバドミントンの運動としての激しさでした.それまでいろんな運動をしてきましたが,あそこまでいっぱいいっぱいになることはなかったと思います(筑波大に来て筑波大バドミントン部のトレーニングをしていて久しぶりに時々このときくらいいっぱいいっぱいになってますが(^^;).100mダッシュを延々と繰り返しているような感じでした.またバドミントンコートのあまりにも広さにも愕然としました.明らかに人間工学に反してると思いました(^^;.広さ自体はもちろんテニスコートよりも狭いのですが,シャトルの特性上,コートの隅々までシャトルが一瞬で飛んでくるので,前へ後ろへ右へ左へと素速くかつ延々と動いてはシャトルをひっぱたくわけで,こりゃあとんでもないスポーツを始めてしまったと正直思いました.

 世の中いろんなスポーツがありますが,バドミントンは,羽根突き程度ならすぐできますが,競技となると一通りできるようになるのにとても時間がかかってしまう競技の1つだと思います.何をもって一通りとするかはありますが,まあバドミントンなら一応四隅に動けてクリアが奥から奥までしっかり打てることでしょう.クリアが奥まで届かなければスマッシュを打ち込まれ,そうすると人間の反応時間の限界より遥かに速い時間でシャトルが床に叩きつけられてしまうのでラリーは即座に終了してしまいます.ですから,素人と経験者の差もはっきり出てしまいます(もちろん素人を相手にするときはつないであげるものですが).競技者同士でも力に差があると全く試合にすらなりません.番狂わせが非常に少ない競技とも言われています.そういう意味ではとてもシビアなスポーツです.

 最近はほとんどないですが,昔はいわゆる素人の人と遊びでプレーすることも時々ありましたが,もちろん全くゲームになりません(もちろんこちらは球をつないであげるのですが).もちろん1点も取られたことはありません,と言いたいところなのですが,実は,1点だけ取られたことがあります.それは,今東大の生産研にいる目黒先生で,彼は私が地震研に就職したとき1年半ほどいっしょにいて,いろんなことして遊びましたが(^^;,その卓越した運動神経には驚かされました.少なくとも四隅に動けてクリアが奥から奥までしっかり飛ばせる「素人」は彼以外に今まで見たことがありません.スキーも私(一応1級所持者)なんかより全然うまかったです.かっぷくのいい今の姿からは想像もできない(^^;?話を元に戻します.

 大学でバドミントン部に入部しバドミントンを始めたとき,当然私は初心者だったので,上級生や同級生でも中高とやってきた経験者(ていうか大半は経験者だった)とのとの差も絶望的とも言えるものでした.そして,恐怖の?夏合宿へと突入します(ほんと「柔道部物語」みたいですね(^^;).夏合宿は千葉の検見川というところで1週間くらいあるのですが,これもほんと辛かったです.一番辛かったのは朝起きてすぐのランニングと1時間続く移動クリアでした.当時キャプテンの炭谷さんの顔がほんと鬼に見えました(^^;.初めてゲームをさせてもらったのも夏合宿でしたが,経験者の打つドロップが全く取れずに負けてしまったのを憶えています.

 なんか「バドミントンというスポーツ」について書こうと思ったのに,思い出話になってきましたね(^^;.ちょっと端折ります(また別の機会に書こうと思います).まあこんな感じでなんとなく?始めたバドミントンでしたが,その激しさに正直驚きました.卒業後もスポーツはずっと続けていこうと思っていましたが,バドミントンはあまりに激しいので,正直もちっと楽しめる(^^;スポーツに鞍替えしようと思っていました.それでなんで今でもバドミントンをしているかについては,「まだバドミントンやってます」ここに書いているので省略します.ここでは,社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとしてのバドミントンについて書いてみます.

 対象をある程度絞るために,Yahooのスポーツというカテゴリの中にあるスポーツで登録ページの多い順に,ページ数が50までを並べたスポーツメジャー度ランキング?(2005.5.5現在(^^;)を以下に示します.あまりマイナーなものは競技人口が少なく,どこでもやっているわけではないので続けていくことが難しいという意味で初めから除外する,ということです.分類が不自然なもの(例えば,ホッケーの中にフィールドホッケーとアイスホッケーをまとめてしまってるとか)をいくつか分類し直しています.

サッカー (1923) 野球 (1666) スキー (451) ゴルフ (434) テニス (413) プロレス (393) バスケットボール (358) アメリカンフットボール (311) バレーボール (340) ラグビー (298) 自転車 (266) 水泳、飛込み (262) マラソン、ジョギング (246) 陸上競技 (230) 空手 (178) オートバイレース (ロードレース)(177) スノーボード (160) バドミントン (151) ソフトボール (145) 剣道 (140) 卓球 (139) 相撲 (137) アイスホッケー (135) ボクシング (130) F1 (125) 弓道 (120) スケート (116) 射撃 (114) 柔道 (111) ソフトテニス (107) ボウリング (107) 乗馬 (97) アーチェリー (94) トライアスロン (94) 体操 (85) サーフィン (84) ボート競技 (84) ヨット競技 (83) カンフー、拳法 (79) ハンドボール (77) 合気道 (67) ウインドサーフィン (66) ラクロス (57)

 ちょっと本筋からはずれますが,ランキング?を見ると,やはり,サッカーと野球が圧倒的2大メジャースポーツというのがよくわかりますね.サッカーが野球より(今や)メジャーというのも興味深いです.その次のグループ(スキー,ゴルフ,テニス,バスケ,バレー,ラグビー,陸上,水泳あたり)もなるほどという感じです.そして,その次くらいのグループにバドミントンが来ています.登録ページ数が50以下のマイナー?競技が無数にあることも考えると,バドミントンって意外と?メジャー?なことがわかります(まあこのランキングが妥当かどうかはともかく(^^;).実際,私は今つくば市の大会に時々出ていますが,春と秋と1年に2回行われる団体戦ともなると,1部5チームくらいで1チーム3ダブルスで10何部くらいまであって,体育館に入ると(もちろんいくつかの体育館に分けて行われる)どわーって人がいて,その競技人口の多さに驚かされます.

 話を戻します.まず,上記の大学に入るときどのスポーツにするか,ということと同じ観点から団体競技と個人競技に分けられます.個人競技を選んだわけは自分の努力がそのまま成果となって現れる,ということもありますが,実業団のような半分プロではない一般社会人にとっては団体競技を「競技として」続けていくのは難しいような気がします.草野球や草サッカーなどは盛んですが,「競技として」地方大会を勝ち上がって全国に行くというのはメンバー全員の都合が揃わないといけないわけでかなり難しいのでは,と勝手に思いました.また,プロレス,F1のようにやるスポーツではなく,観るスポーツ(もちろん一握りの人はやっていますが(^^;)も除外します.格闘技系ははっきり言ってとても興味があるのですが,「痛い」のは嫌なので(^^;除外します.ウィンタースポーツ,マリンスポーツ(含むボート)は季節,場所,施設が限定される(週末のみになってしまう)ので日常の中でやっていくスポーツとしてはこれらも除外します(でも私はスキーをやっていますが(^^;).確かにバドミントンは激しすぎてどうかと思いますが(^^;,弓道,射撃,乗馬,アーチェリーは「運動」と言えるのか?ということでこれもはずします.すると次のようになります.

ゴルフ (434) テニス (413) 自転車 (266) 水泳、飛込み (262) マラソン、ジョギング (246) 陸上競技 (230) バドミントン (151) 卓球 (139) ソフトテニス (107) ボウリング (107) トライアスロン (94) 体操 (85)

 驚いたことに種目は非常に限定されることがわかります.大まかに言って,球技は,ゴルフ,テニス,バドミントン,卓球,ボウリングのわずかに5つ,その他は陸上,水泳系(含む自転車)と体操です.自転車も競技としてやるのなら設備的に非常にきびしいでしょうし,今更体操というわけにも行かないので,実質選択肢は,上記の球技5つと陸上,水泳系となります.そしてこれらはシニアが活躍している種目とぴたり重なることがわかります.

 もうここまで来れば後は好みで選んでもいいのですが(^^;,もう少しバドミントンの特質?を追求してみます.ほんとはもっと早い段階で振り分けしてもよかったのですが,団体,個人とは別の分け方として,屋内,屋外ということがあります.社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとしては,日常生活のペースメーカーとしての役割も重要で,ということは,雨が降ったらできない屋外スポーツは問題です.梅雨の時期なんか2週間くらいプレーできないなんてこともあるでしょう.競技としてやっていくにはそれは問題です.とすると,残されるのは,球技はゴルフ(雨が降っても練習場で練習できるので残しました),バドミントン,卓球,ボウリング,陸上(雨が降っても走るだけなら走れるので残しました(^^;),水泳となります.テニスは確かに屋内コートもありますが,いろいろ話をきくと屋内コートで普段プレーするのは現実にはかなり厳しいようです.

 もうほんとここまで来るとこの中から選べばいいのですが(^^;,もう1つシニアの競技としてのレベルの高低があります.つまり,ゴルフ,ボウリングは運動量的にはさほどでもないので,シニアがプレーするスポーツとしては適しているとも言えますが,逆に言えば,競技としてはシニアが現役バリバリなわけで,実際,ゴルフやボウリングは50代が日本チャンピオンなんてこともあるわけです(ゴルフなら尾崎将司,ボウリングなら酒井武雄とか西城正明とか).そんなとこでしのぎを削るのはさすがにきびしい,逆に言えば,バドミントンほど激しいスポーツならシニアは逆に層が薄くなっている(それでも相当のもんですが(^^;)とも言えます.

 そうすると残るは,バドミントン,卓球,陸上,水泳となりますが,いくら個人競技とはいえ,1人でやるスポーツよりも集まってできるスポーツの方が楽しいですから,バドミントンか卓球,卓球もバドミントンほど激しくはないので相対的にシニアのレベルは高いことが予想されますし(ちゃんと調べてないが),正直運動量としては少しもの足りない,それに私の世代(^^;は「卓球は暗いスポーツ」というイメージがあるので(多分犯人はタモリ.でも最近は福原愛の出現でそのイメージもすっかり払拭された感があります.それにしても福原愛は小さい頃から注目されて実際に世界のトップレベルの選手になった希有な例でほんとすごいですよね.)最終的に「社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとして」最適?なのはバドミントンということになります(半ば無理矢理ですが(^^;).でも確かに少し強引なところはありますが,上記のように何となく始めたバドミントンですが,少なくとも「社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとして」とても優れていることがわかります.そういう意味では,とてもラッキーだったと言えますし,だからこそこれまで続けて来られたのだし,これからも続けていこうと思います.めでたしめでたし(^^;.

 ただ,シニアのレベルが高すぎるということで除外してしまったゴルフは実はとても興味があります(^^).いい年したおじさん達(^^;があれだけ夢中になっているのですから,おもしろいに違いありません.私は冬はスキーをかなりやるので,夏場のそれに代わる?スポーツが欲しいと思うこともあります.ただ,仕事が超多忙な上にスポーツだけで2種目(バドミントンとスキー)やっていて,その他にもいろんなことやってること考えると(ゴルフも始めればはまるのは目に見えてますから)ちょっと怖くて始められません(^^;.

 ボウリングも結構好きで時々やってましたが最近は全然やってません(ちなみにハイスコアは236,アベレージも160くらいはあったか).でも,ピアノを弾くので指を痛める可能性があり(実際,ボウリングをした次の日は指が痛くてピアノが弾けない),ちょっと競技としてやるのは厳しいですね.ゴルフもそうですが,ボウリングも(テニスも?)レジャー?としての色合いが強いので競技としてやって強くなりすぎてしまうと,一般の人と遊びとしてできなくなってしまうという問題もあります.温泉卓球(^^;もそうでしょうか.そういう意味ではスキーもそうで,やはり上手くなりたいのでどうしてもレジャー?として行くよりもスキークラブの人などと行く機会が多くなってしまいますし,準指なんか受けていれば講習講習の連続になっちゃいますね(^^;(それもほんとどうかと思うが).

 実は,こういうこと(バドミントンが「社会人が仕事をしながら生活の一部として健康のためにではなく競技として続けていくスポーツとして」どうなのか?)を検討した(^^;理由は,最近(つくばに来て)全く結果が出ておらず精神的にかなりしんどい,ということがあります.バドミントンは今までやってきた様々なスポーツの中で一番「よくわからない」ものです(まあ他のスポーツが大したレベルまでやっていない,というのもあるでしょうが).だからこそ続けているというところもありますが,あまりに結果がでないのは精神的にきびしく,自分はバドミントンに向いていないのではないか?他のスポーツに転向した方がいいのではないか?と考えたりもするわけです.しかし,今回の検討結果(^^;から,もうしばらくは頑張って続けていこうという気になりました.第一,また0から始めて今のレベルにもってくる(というほど大したもんでもないが)のも大変ですしね(^^;.

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哲学系?のリンク集

 とりあえず哲学系?のリンク集を作ってみました.簡単なコメントもつけました.コメントは短くするため,「考えています」や「思います」などの表現はあえて使っていませんが,これらは私の個人的な考えであるのは言うまでもありません.中にはまだ本体には書いていないのに先走って書いている部分もあります(^^;.

人生所詮退屈しのぎ: 人生所詮退屈しのぎです.このことは哲学の世界では,もはやほとんど議論の余地のない定説です.人間の最大の敵である「退屈」を人類はこれまで主として労働をすることによってしのいできましたが,最近,それがどんどんおかしくなってきてます.しかし,幸不幸は相対的なもので,「人生所詮退屈しのぎ」というある意味人生の最悪の解釈に比べれば,人生も捨てたもんじゃないとも思え,同じ退屈しのぎなら,楽しく気分よく退屈しのぎしていきたいと思えるようにもなってきます.
 
ライブドアvsフジテレビ 人生所詮退屈しのぎ(仮)

全ては150億年前に決まっている:  全ては150億年前のビッグバンの時点で決まっています.ですから,何か悪いことがあったり,しまったー,と後悔するようなことがあっても,それは決まっていたことで仕方ないので,受け入れて次に進み,また,人生の岐路に立たされるようなことがあっても,どっちに進むかは既に決まっているので,流れに身を任せて,気楽にやっていましょう(^^;.
 全ては150億年前に決まっている

幸不幸は状況に依存しない: 幸不幸は「お金持ちになる」とか「好きな人と相思相愛になる」などの状況そのものに依存するものではありません.どんな逆境でも幸せでいられる人もいれば,どんな順境でも幸福を感じられない人もいます.ですから「幸せになるのが目標」というのは意味がありません.今の状況に満足できればすぐにでも幸せになれます.しかし,満足することによっては得られるものはありませんし,それではまたすぐ不幸になってしまいます.従って,幸せは目指すものではないし,目指すべきものでもありません.
 
ライブドアvsフジテレビ 今の仕事を選んだわけ 幸福論?(仮)その1 幸福論?(仮)その4

幸不幸は空間的,時間的変化率: 幸不幸は空間的,時間的変化率であり,表裏一体のものです.禍福は糾える縄のごとしとはまさにこのことです.しかし,幸せならすぐそこに不幸が迫っていると言えますが,不幸ならすぐそこに幸せが迫っているとは限りません.不幸ならその状況をしっかり受け止めて何らかの行動を起こせば,幸せが近いでしょうし,幸せでもそれに安住しなければより幸せになれるかもしれません.つまり,幸せになるには,「幸不幸は空間的,時間的変化率」という性質を利用すればよく,それには状況を相対的に変化させる「やる気」が必要です.
 
幸福論?(仮)その2 幸福論?(仮)その3 幸福論?(仮)その4

幸せは人それぞれ: 幸せは人それぞれです.他人の幸せを欲しがっても全く意味がありません.実際,「自分は幸せだ」と言う人がいたとしてもその人になりたいとは思いませんよね.要は自分にとって幸せとは何か,自分がどうしたいのか,どうありたいのかをしっかり考えることが大事です.それがわかれば,たとえ今はそれに届かなくても,それに向かって頑張っているという状況だけで実は人は幸せになれますし,そういう状況(の変化率)こそが幸せです.しかし,厄介なことになかなかこれがよくわかりません.それを考えることが「自分探し」でしょうし,それ自体が「退屈しのぎ」にもなります.
 
幸福論?(仮)その1

やる気3要素: やる気3要素とは,1.内的熟達,2.人とのつながり,3.報酬,の3つで,この3つは,1>2>3の順にやる気につながるとされ,3はむしろ逆効果のことがあるので注意が必要です.やる気3要素を考えると,やる気と幸不幸の相関性も何となく見えてきます.
 やる気3要素と無気力(仮) バドミントン 研究者に対する評価

やる気3要素と幸不幸の相関性: 「幸っせはー,歩いてこない.だーから歩いて行くんだね♪」という歌がありますが(^^;,確かにじっとしていては何も変わりませんし,何らかの行動(体を動かすだけではなく頭で考えることも含めて)を起こさなければ幸せになれるはずもありません.何らかの行動を起こすには「やる気」が不可欠です.そして,やる気を起こすための「やる気3要素」を考えればやる気3要素と幸不幸の相関性が見えてきます.
 
やる気3要素と無気力(仮)

幸せになるには考えないこと: 既に幸せである人は,幸せとは何か?などと考えないでしょうし,このコーナーも読まない方がいいでしょう(^^;.事実,あまり深く考えないことは幸せになる非常に有効な手段の1つです.それで最後まで行ければ超ラッキー?ですが,途中でふと「気がついた」て考え始めたときに右往左往することになります.そして,気がつくのが遅ければ遅いほど取り返しのつかないことになるかもしれません.不幸にも?気がついてしまった人は,考えないようにする(例えば,忙しく仕事をして,とか)のも1つの方法ですが,考えずにはおれない人は仕方がないので考えましょう(^^;.そしてそれ自体が生きていく活力,「退屈しのぎ」にもなりえます(^^;.
 ライブドアvsフジテレビ 人生所詮退屈しのぎ(仮) 幸福論?(仮)その4 頑張る

幸せになるには結局セロトニンを出すこと: なんだかんだ言っても幸せになるには要は脳内物質セロトニンを出すことです.セロトニンさえ出ていれば,どんな逆境でも前向きに考えられ,従って状況自体も好転する可能性が高いです.幸不幸は状況に依存しない,というのもそういうことです.物事を前向きに捉えられるというのも別に尊敬に値するものではなく,単に先天的にセロトニンが他の人より多く分泌される,というだけの話でしょう.どうやったらセロトニンが多く分泌されるかですが,トリプトファンなどのセロトニンの前段階物質を摂取する,ということが推奨されていますが,効果のほどはわかりません.ただし,セロトニンはリラックスさせて幸せを感じさせるもので,やる気を削ぐ可能性もあるので注意が必要です.要はON, OFF(交感神経,副交感神経)の切り換えが大事ということでしょう.ということで,このことからも昼間はしっかり仕事などをして,夜はゆっくり休むという規則正しい生活をして体調を整えることが重要ということになります(が,なかなかそれができないんですよね(^^;).
 
幸福論?(仮)その4

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5/24'05
カウンタが2年弱で10万

 アクセスカウンタが10万に到達しました.ホームページ設置の当初の目的は,提案する震度算定法の提案自分なりにいろんなことについて考えることを文章にしたものの公開だったのですが,カウンタを設置したのは,それから1年近く経過してからでした.具体的な日付はカウンタの下にあるように,2年前の2003年6月3日なので,2年足らずで10万ということになり,カウンタ設置当初からは予想もできない,かなりのハイペースです.これもひとえにホームページをご覧いただいている方々のお陰ということで感謝しておりますm(_ _)m.ホームページは見てもらうために作り,更新するものなので,日々増えていくカウンタがホームページ更新意欲を駆り立ててくれたのは言うまでもありません.

 カウンタを設置したのは,当然のことながらいったいどの位の方に見ていただいているのだろうかという素朴な疑問からです.設置した2003年6月3日というのは,2003年5月26日に発生した三陸南地震(宮城県沖の地震)の被害調査の速報をホームページに公開してしばらくしてでした.被害調査速報のホームページでの公開を始めたのもこのときからで,その後,2003年7月の宮城県北部地震,9月の十勝沖地震,2004年10月の新潟県中越地震,2005年3月の福岡県西方沖地震と立て続けに大きな地震が起こって,そのたびに被害調査に出かけて速報を公開してきました.

 最初の三陸南地震は,大学に戻ってから公開しましたが,その後,どんどんエスカレート?し,2003年7月の宮城県北部地震からは現地から携帯電話で繋いでアップロードするようになりました.地震が起こるたびにアクセス数は増えていって,新潟県中越地震のときは1週間で2万アクセスにも達しました.最近は,地震が起こると直後から顕著にアクセスが増えるのがわかり,早く被害調査に行ってこい,とせき立てられているような気もするのですが(^^;,生来の怠け者である私にとっては,そういう形でエネルギーをもらうような感じでとても感謝しています.

 地震が発生したら,強震観測点周りの被害調査を定量的に行って,地震動の性質と建物被害の関係を検討する,というやり方は,(おそらく)私が最初に始めた,ということもありますが,誰かがやらないと貴重なデータが永遠に失われてしまう,という使命感のようなものもあります.しかしながら,そういう調査と検討を可能にしたのは,1995年兵庫県南部地震以降の強震観測網の整備の賜であるのは言うまでもなく,防災科学技術研究所,気象庁,自治体の関係各位には感謝の念にたえません.

 10万という一応の区切りなので,アクセス数の推移というのもグラフにしてみました.やはり大地震が起こって被害調査速報を公開したときに大きなピークが来ていることがわかります.特に2004年新潟県中越地震のピークは巨大?ですが,2005年福岡県西方沖地震と2003年の3地震を比較しても,福岡県西方沖の方がはるかに山が高いので,やはり,地震が起こるごとにより多くの方にご覧いただけるようになってきたのだろうと思っています.

 このように全体の半分くらい?は,地震被害調査関連のページだと思いますが,地震が起こっていない「平時」のアクセス数も徐々に増えてきているように思います.最近は1日でだいたい100〜200程度のアクセスはあるようです.被害調査速報をご覧になったのをきっかけにその他のページにも関心をもっていただいて見ていただいているとしたら,望外の喜びです.今後も,見てよかったと期待を裏切らないように更新を続けて行けたらと考えております.

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4/24'05
5/27'05 加筆
定年(停年)

 日本が高齢化社会になって,老後をどうするかとか年金問題とかいろいろ制度上のことが言われてますけど,私は単純に,働ける人は働いてもらうのが一番いいと思っています.年金も一律65歳になったらみんなにあげるのではなく,介護保険のようにもう働けないという「認定」をちゃんと受けた人から順番に支給すればいいのです.事情は人それぞれなのに年齢という実は一番個人差が大きい指標で一律にぶった切るのは,もういい加減辞めて欲しいです.なんで高齢化社会になっているかというとみんな元気で長生きしているからであって,元気なら働いてもらえばいいということです.そうすると上が詰まって若い人が割を食うということなりますが,それは若い人が頑張って年長者以上の仕事をすればいいだけの話です.ですから,当然,年功序列というだけではなく,成果主義ということにする必要があります.ということは,年長者でも若い人に仕事で負ければ,給料は安いし,リストラの憂き目にあうこともあるでしょう.それはそれで仕方ないことです.ですが,ある年齢に達したからクビ(私は定年退職は一種のリストラだと思っています)というのとは違います.

 実は,「頑張る」でも書いていますが,私が就職後,やる気を失って無気力になっていった大きな引き金の1つが,私が尊敬していた先生方が停年(東大は定年ではなく,停年と言います.多分京大もそうです.)を迎えられ,次々と辞めて行かれたことでした.当時東大は停年が60で,はっきり言ってまだまだ現役のバリバリでまさに建築構造界のリーダー的役割を果たしておられました.それが,年齢が60になったというだけで東大を「クビ」になるわけです.その時私は,「何とか研究者としての職にありつけたことの喜びを噛みしめるような日々を送」っていましたが,「大学の先生とは言え,どんなに能力があっても停年になればクビになるのか...ひょっとしてつまんない職業を選んでしまったのかな...」と感じてしまいました.

 定年のない職業はいろいろあります.例えば,医者,弁護士,芸術家,作家,自営業などなど...これらは,病気や怪我をすればサラリーマンのように有給があるわけでもないので,自己管理はしっかりしないといけません.お客が来なければ商売あがったり,ということもあるでしょう.しかし,自分で頑張れば頑張っただけの成果があるとも言えます(もちろん頑張り方にもよりますが).そして,しっかり自己管理して元気であればいくつになっても働くことができます.例えば,ピアニストは,指先さえ動けばピアノを弾けるので(超一流のピアニストになるほど,指先だけ,それも第一関節だけで弾いていると言われています),80,90になっても現役バリバリということも多いです(弓を引く手の関係で60を過ぎると急速に衰えるヴァイオリニストとは対照的ですね).実際,バックハウスは,亡くなる直前まで演奏会で弾いていて,亡くなる1週間前のラストコンサートは名演として今でも語り草になっています.

 私の妻もプロのピアニストで,そのレベルは相当なものですが,食べていくのは正直なかなか大変です.ですが,彼女のことを羨ましいと思うことは,やはり「定年がない」ことです.そして,それこそ死ぬ直前まで成長,上達し続けることができるのです.大学の先生,研究者も本来的にやっていることは,そういうことのはずなのですが,大学や勤務先の研究所などを定年になると(もちろん,別の大学や研究機関に移って何年か延長するケースもありますが)実験設備や研究費などの関係で研究活動を続けることは実際なかなか難しいです.ほんとに社会が必要としているのなら,周りがなんとかするとも思うのですが,そうしないということは,ほんとは必要とされていない,ということなのでしょうか?そう考えると頑張るのがばからしくもなってきますが,ほんとに必要とされていないのなら,まあそれはそれで仕方がないですね.

 そういう状況でどうするか,まあ年金もらえる(かどうかわかりませんけど(^^;)んだから,のんびり老後を過ごせばいいんじゃない?ってことになるのかもしれませんが,実際どうなんでしょうか?皆さん,定年退職後,楽しく年金暮らしをしてらっしゃるのでしょうか?私はもし今のまま自分が定年を迎えて仕事を取り上げられたら,楽しく生きていけるとは思えません.他のページにも書いていますが,私は仕事以外にいろんなことをかなりまじ(^^;にやっていますが,それだけで精神的にバランスを取ることは難しいと思います.それは,人間やはりほんの少しでも誰かの役に立っている,社会に貢献できている,という思いがないときびしいと思うからです(まあそんなんなくてもへっちゃらという人もいるとは思いますが(^^;).

 実際,定年退職後,突如ボランティア活動を始めたり,どんなに給料が安くてもまた違う仕事を始めたりということはよくあるとききますし,その気持ちは痛いほどわかります.確かに「人生所詮退屈しのぎ」ですが,究極の退屈しのぎは,「趣味」などではなくやはり「仕事」であり,それは「仕事」である以上,誰かの役に立っている,ということだと思います.

 まあ,70くらいまで何とか「食いつない」げば,平均年齢は80くらいなので10年くらいはまあ適当にのんびりと(^^;という考えもあるのかもしれませんが,人間,病気や事故などの突発事件がなければ理論上?は120まで生きる,というデータもあります.120まで生きるとすると65という定年はほぼ「折り返し」です.別にそんなに長生きしたいとは思いませんが,長生き「してしまう」かもしれません.なかなか自分で自分の命を絶てるものではないので,生きている以上は退屈しのぎをしていかなくてはなりません.そして,仕事こそが究極の退屈しのぎなのは「人生所詮退屈しのぎ」で述べたとおりです.つまり,長生きは一種の「リスク」であり,リスクである以上は,しっかりとリスクに対する備えをしないといけないわけです.

 私は,今の仕事はやりがいもありますし,やらなければならないこと,やっておかねばならないことが山積なので,続けていくと思いますが,これからどうするか,将来どうするかは,実はずっと考えています.これから20年修行(私は修行って言葉が大好きです.一生修行できたらほんとにいいなあと思います)して今の仕事が定年になったときにプロのピアニストとしてデビューするといろんな人に話したらみんな本気にしてくれませんでした(^^;が,唯一妻だけは「いいじゃん.応援するよ.」と言ってくれました(^^).でも,ちゃんとした「レッスン」を何回かしてもらったのですが(おそらく生まれて初めてのちゃんとした「レッスン」でした(^^;),あまりに辛すぎてだめでした(T_T).

 いずれにしても「人生所詮退屈しのぎ」なので,いかに気分よく楽しく,即ち,自分が誰かの,社会の役に立っているというという気持ちを持ち続けられるかですね.仕事があるうちは何とか大丈夫でしょうが,問題はやはり定年後だと思います.20年後そういう制度がなくなっていれば一番いいのですが,悲しいかな世の中なかなか変わりませんから,そうでない場合を想定して,20年後の「プロデビュー」を目指して(^^;,これから20年(そして20年後も)修行できたらいいな,ていうより,その前に,そういうものを見つけられたらいいなと思います.ということで,「やりたいこと探し」は延々と続くわけです.

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世の中のこと リンク集

 世の中のことに関係するリンク集です.簡単なコメントもつけました(まだ一部のみですが(^^;).コメントは短くするため,「考えています」や「思います」などの表現はあえて使っていませんが,これらは私の個人的な考えであるのは言うまでもありません.中にはまだ本体には書いていないのに先走って書いている部分もあります(^^;.

夫婦別姓: 夫婦別姓(法案)というのは,「別姓にしたい人はしてもいいですよ」ということです.つまり,夫婦「同姓」にしたい人は今まで通りにそうできるわけです.もう,この時点で「夫婦別姓」に何の問題があるの?というのが私の意見です.むしろ極論すれば,「姓」すら要らないと考えていて,そうすれば,夫婦別姓に関わる様々諸問題も一気に?解決します(^^;.

女性解放の前に(女性解放のためにも)男性解放を: 私は,男だ女だという前に1人の同じ人間なのだから,基本的にあらゆることで両者は「公平」であるべきだ,と考えています.もちろん男と女は違いますが,人間であるという点では同じだ,ということです.男が人間として嫌だと思うことは,女も同様に嫌なのです(例えば,夫婦別姓).ただ,女性解放だけを一方的に進めようとしても男性は既得権にしがみつくため,同時に男性解放も進める必要があります.既得権は男性のものと考えられがちですが,女性の既得権も驚くほど多いです.一部の(しかし多くの)女性が既得権にしがみついているため,男性解放が進まず,従って,女性解放も進みません.女性解放の最大の敵は女性自身という皮肉なことにもなっています.まだ数は少ないながら,思うように生きていきたいという人(例えば,ちゃんと仕事をしたい女性,家庭に入りたい男性)が多くの同性が既得権にしがみつくためにとても迷惑している,ということです.やはり,少なくとも社会的には男とか女とかそういう一律なくくりをやめるべき,ということだと思います.

なぜ日本人は英語が苦手か?ていうか英語勉強してどうするの?:

生活を便利にするのはもうそろそろいいんじゃない?:
 ライブドアvsフジテレビ

つくばという町:
 つくばに来て2年

自転車こそ21世紀の乗り物:
 つくばに来て2年

ベストセラーは読むのに値しない:
 お金で何でも買える?

お金ってそんなにかからないしいらない:
 研究者に対する評価

定年(停年)

景気を回復させてどうすんの?
 頑張る

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4/19'05
5/27'05加筆
今の仕事を選んだわけ

 ピアノバドミントン,あるいは,大学院生時代とこれまでを振り返ったので,何で今の仕事(構造動力学を用いた地震防災)をするようになったかも振り返っておきたくなりました.過去を振り返っても幸せにはなれないのですが,振り返りたくなったので振り返ります(^^;.まあ一種の「自己満足」ですね(もちろん「やりたいこと探し」で苦しんでいる人が読んでくれて参考になるところがあれば望外の喜びです).でも「満足」は幸せの重要なキーワードだと思います.要は,満足することが幸せに繋がる,しかし,満足することによっては得られるものはない,従って,「幸せは目指すものではないし,目指すべきものでもない」ということですね.ですから,振り返っても幸せには多分なれませんが,振り返りたいので振り返るという「満足感」を得ることによってささやかな幸福感は得られるかもしれません.

 そう言えば,この間イチローがこんなこと言っていました.イチローはこれまで今の自分に満足していない,と言い続けていたと思います.日本で7年連続首位打者を取って,メジャーに行って首位打者を取ってもなお「次の目標」を掲げ続けて来られたのも今の自分に満足しない,ということの繰り返しだったと思うのですが,この間は,満足しない満足しないと言っても,ある程度満足することも必要なんじゃないか,と言っていました.やはり,ある程度の満足感(満足するかどうかは本人次第)がなければ幸福感は得られないでしょう.イチローだって幸せになりたいんですね(^^;.

 さて,私が今の仕事をするようになった経緯ですが,おそらく小学校の低学年頃まで遡ると思います.小学校は普通の公立の福岡市立七隈小学校というところでした(先日,福岡県西方沖地震の被害調査でたまたま前を通りましたが,全く当時の面影がなく,少しがっかりしました).福岡市に来る前は,同じ福岡県の大牟田市というところに住んでいて(ていうかそこで生まれた),小学校に入るとき福岡教育大付属という久留米にある学校も受けさせられたのですが(今でいうお受験?でしょうか),あっさり落ちました.まあ,まだ子供ですし,試験を無理矢理受けさせられても(実際,嫌で嫌でしょうがなかった)そんなに必死になるはずもありません.でもその時,それまで見たこともなかった母親の涙を見て,とてもショックだったのを憶えています.大牟田から福岡へは小学校2年の4月に引っ越してきました.

 小学校のときの成績はまあそんなに悪くはなかったと思いますが,勉強はそんなに好きでもありませんでした(^^;.まあ母親に小学生の仕事は勉強すること,とか言われて勉強していたような感じでしょうか.少なくともクラスで1番なんてことはなかったです.ただ,学校の勉強以外にいろんなこと,例えば,昆虫採集とか,火星が大接近したときは天文学とかにのめり込むことはありました.その中で多分私が広く「科学」に興味をもったのは,「理科学習漫画」(だったかな?正確な名称は忘れた)でした.おそらく100回くらいは読んだ(見た)と思います.その頃から何となく「科学者」になりたいと思うようになったと思います.

 対照的に「理科学習漫画」と同じ?シリーズに「日本の歴史」というのも買い与えられたのですが,こちらはほとんど興味を示しませんでした.理系か文系かというと理系というのは,この時点でかなり確信をもったと思います.父親が大学教授だったこともあり,自分も科学の分野で大学の先生になりたいと思うようになったと思います.父親が大学教授で,なんで自分も大学の先生になりたいと思ったか,というと,父が仕事をしている姿がとても楽しそうだったからです.あんなに楽しい(楽しそうに見える)仕事なら私も同じ職業に就きたいと思ったわけです.ただ,実際に大学の先生になって,あの時の父と同じように楽しく仕事ができているか,と言われると,ちょっと自信がないです(T_T).父は文系(近代文学)で私は理系という違いも大きいと思います.理系,特に工学系は,社会との繋がりが強く,いろいろと大変なことが多いので(例えば,ここ),楽しいとばかり言ってられないところもあります.まあその分注目度も高いとは言えますが.

 小学生時代は,まあ周りの平均的?な生徒よりは勉強していたとは思いますが(母親が小学校の先生をしていてとても教育熱心だったので),勉強よりは,学校から帰ってきて近所の米田君,千竃君,小迫君とかと裏の空き地で野球をやってた記憶の方が大きいですね.小学校の卒業文集には,将来なりたいものに大学教授か建築家と書いたと思います(生意気な小学生ですねー).建築家と書いたのは父親にガウディーなどを見せられて大分洗脳された?からだと思いますが,後になって奇しくも大学は,建築学科に進学することになります.

 中学校は,地元の公立ではなく,西南学院中学校という私立中学に行きました(福岡教育大付属というのは学科試験は受かりましたが,抽選で落ちました(T_T)).そして,森田修学館という進学塾にも週3回くらい(だったかな?)行っていました.森田修学館というのは,当時福岡市内の各中学のトップレベルの生徒がほとんど集まっているような大変なところで,実際,ラ・サールや久留米付設(ライブドアの堀江氏やソフトバンクの孫氏の出身校として最近特に有名になりましたね(^^;)にそれぞれ30人とか50人とか大量の合格者を出していました.クラスも能力別にA, B, C, Dと分かれていてとてもシビアなところでした.

 中学時代は勉強したと思います.森田修学館のクラスも入学時にはBクラスでしたが,半年後Aクラスに上がり(確か,半年毎に成績で入れ替えが行われる.シビアですねー),その後は,卒業までずっとAクラスで一番いいときは,トップ近くまで行きました.進路志望もラ・サールでした.でもそういう雰囲気にだんだんついていけなくなってきて,最後の方はほとんど落ちこぼれて塾にも行かなくなってしまいました.成績的にもついていけなくなったというより精神的にしんどくなってしまったような感じだったと思います.

 転校してきてたまたま隣の席になったS井君というのがものすごくできた(というより,最初は私の方が成績がよかったが,どんどん伸びてあっという間に私を追い抜いていった)というのもかなりショックだったと思います.彼は人間的にもすごくいい奴で性格もとても素直で,そういう意味でも私はかなりコンプレックスを感じていたと思います.彼はその後,ラ・サールへ行って,確か,河合塾か駿台の東大模試で一度会ったと思いますが,その時の模試も全国で何番という感じで,大学も東大の理IIIにストレートであっさり受かったと思います.とても私がかなうようなレベルではなかったわけです(もちろん勉強ができるできないという範囲での話です).普通に行けば東大医学部に進学したはずですが,その後どうしているかはわかりません.

 S井君がどうだったかはわかりませんが(というか彼は違うと思いますが),前から思っているのですが,高校時代に抜群に成績がいいと,物理や数学に興味があっても,成績がいいというだけの理由で最難関の東大の理IIIに行ってしまう(理Iなんか行くのが勿体ない?),という話をよく聞きますが(もちろんそんな人ばかりではないでしょうが),なんとかならないものでしょうか?理IIIと同じ100人くらいの定員の理数系の超エリートコース,例えば理科IV類(仮称(^^;)みたいのを作るっていうのはどうかとずっと前から思っているのですが...数学オリンピックで好成績を残した人の受け皿になるかもしれないとも思うのですが...医者って特別な職業だと思っていて(これについてはまた別に書きたいと思っています),医者になりたいから勉強するというのはよくわかりますが,勉強ができるから医者になるというのはかなり問題だと思います(ここに少し書いています).

 医学部で思い出しましたが,その森田修学館というところは,福岡市内の各中学のトップレベルばかりが集まったという,とんでもないところで,ほとんどが第一志望ラ・サール,第二志望久留米付設という感じでしたが,大学となると,ほとんどが医学部志望,特に,九大医学部志望だったと思います.医者の息子が多かった,というのもあるでしょうが,東大志望なんてことは恥ずかしくて言えないようなみょーな雰囲気があり,そんな金にならないことしてどうすんの?みたいな感じでそういうところもついていけなくなったところかもしれません.

 そんな感じで中学時代はひたすら勉強して(そして,落ちこぼれて(^^;),科学に興味をもつとかそんな雰囲気では全くなかったです.科学に近い?と思われる科目である数学や理科も特におもしろいと思ったことはありませんでしたし,好きでもありませんでした(問題ですねー).対照的に興味をもったのは英語だったと思います.英語はいつもトップレベルでした.1年生のときにもう3年生の参考書で勉強とかしていて,中学の授業中に見つかってよく先生に怒られました.中学でも森田でもいっしょだった嶋津君というのといつも熾烈な?トップ争いをしていて,でもとても仲が良くてよくいっしょに勉強していました.でも私の場合って,なんか新しいことが始まると(英語は中学から勉強しますから)興味を持ってだーっと勉強して,あっという間にトップレベルになるのですが,しばらくすると飽きて(^^;みんなに追い越される,というパターンのような気がします(T_T).

 ただ,ここでは余計な話題ですが(^^;,ピアノはかなり前進しました.中学2年くらいまでは,硲先生というピアノの先生についていて,なんと家庭教師のように家まで毎週来てくれていて(でないととても続かなかったと思います),とても優しい先生で,そのおかげでどんどん上達して,音大とか行くのなら,もっと上の先生を紹介するみたいな打診が両親にあったようで,でも両親はそれをあっさり断り(私に何の相談もなくです(T_T),なんせ,私が小学3年生くらいのとき,ピアニストになりたいと父親に言ったら,「馬鹿者,モーツァルトは6才で作曲したんだ」と一喝されたような感じですから(^^;.同じような感じで上記の天文学にのめり込んだときも「天文で飯が食えるか」と却下されました(T_T)),ある日突然,硲先生はいらっしゃらなくなってしまいました.

 それは,とても残念なことだったのですが,それまで先生に与えられていた曲を練習していた状況は一変しました.自分でやるのですから,自分が弾きたい曲が弾けるわけです(^^).それで,ケンプのベートーヴェンピアノソナタ全集やルビンシュタインのショパン全集などを皮切りに,クラシックのピアノ曲を次々と開拓していきました.毎月の小遣いで買うLPを当時出たばかりのレコードの総カタログで選んで,これもできたばかりの西新のヤマハで買うのが唯一?の楽しみでした.そして,それまでレッスンでやっていたピアノ曲以外にものすごい数の素晴らしいピアノ曲が無数にあることに感動したものです.古典,ロマン,そして,必然的に近現代ものへとその触手は伸びていきます.中学時代は,学校は楽しく,前述の塾も途中まではとても楽しかったのですが,だんだんしんどくなってきて,それに学校に塾にと,とても多忙で(^^;なかなか心に余裕がなかったのですが,そんな中でも「どんなに苦しくても音楽があれば生きていける!」と心底思ったものです(当時は).

 高校受験は,ラ・サールや久留米付設は結局,受けませんでした.落ちこぼれたというのもありますが,両親がものすごく反対しました.多分,そういう進学校に対する偏見みたいなものがあったのだと思います.東大に行くなら普通の公立高校から行け,と森田みたいなところに行かせておきながら勝手なことを言っていたもんだと思います.でもそれは全くの偏見だということを東大に入って自分の目で確認することになります.まあ,私が知る範囲での話ですが,全国のいわゆる有名進学校の中で一番まともというか,人間的におもしろい奴が一番多いのはラ・サールだと私は思います.もし私の子供がラ・サールに行きたい,と言ったら喜んで行かせます.

 受験したのは,地元の公立の修猷館と父親が東京に単身赴任していたので,半分一か八かで東京の進学校も1つだけ受けました(が,あっさり落ちました(T_T)).落ちたのもショックでしたが,帰るとき新幹線の中から見た父の背中がとてもさびしそうで,子供心にとても心を痛めたのを憶えています(父はその2年後に亡くなってしまうことになります).修猷館にはなんとか合格することができました.成績的に大分余裕があったということもありますが,いわゆる滑り止めは1つも受けていなかったわけで,随分,危ないことをしたもんだなー(へたすりゃ中学浪人だった)と思います.

 前から不思議に思っているのですが,福岡市のようなとても教育熱心なところにどうして私立の進学校が育たないのでしょうか?まあ修猷館がそれなりに?優秀というのもあるでしょうが(ちなみに修猷館高校は,小林よしのりの「東大一直線」の優秀館高校(^^;のモデル?となったと言った方が有名?),前述のようにトップレベルの男の子はほとんどラ・サールか久留米付設に流出してしまいます.ですから,修猷館の上位はほとんど女の子によって占められていました(私の頃は.今でも?).

 高校時代は楽しかったですねー(途中までは).中学が男子校だったので,女の子がいるというだけでも楽しかったです(^^).特に2年の時は,結構みんな仲が良くて,ほんと楽しかったです.春の文化祭で劇をやったのですが,その時の仲間でいつもなんかして遊んでいたと思います.科学に関係した科目「物理」が始まったのも2年のときでした.最初は力学からやるんですけど,ニュートンの法則やエネルギー保存の法則など自然現象を数式で表現できる,ということに感動したと思います.そして,将来は物理学者になるんだ,と決心します.試験も全て満点だったと思います.しかし,力学が終わり,電磁気や波動などが始まると大分雲行きが怪しくなってきます.またもや,最初は興味をもってだーっと勉強するが,しばらくすると飽きるというパターンですね.でも力学に対する興味はずっともっていて,そういうことをやりたいと思っていました.

 しかし,高校2年の冬,年が明けた1月3日に父が亡くなります.具合はずっと悪くて入退院を繰り返しているような状態でしたが,どういうわけか亡くなるとは寸前まで全く考えていなかったので,ものすごいショックを受けてその後,1年くらいはやる気のようなものを失ってしまって,勉強もあまりしなくなったと思います.でも父の葬式の時クラスメートがたくさん来てくれて,とても慰められたのを憶えています.あまりにも茫然としていて,当時,仲が良かった早田や山本が家まで来てくれて,これからどうする?みたいな話をしたときに,勉強してなくて3学期の初日にある実力試験が心配みたいな,とてもとんちんかんなことを言ってしまったのを今でもよく憶えています.

 あと,とても不思議だったのは,父が亡くなるまでとても苦手だった国語が父が亡くなった直後から突如大得意になりました.父が私に乗り移った?東大には理系にも国語の試験があるので(理系なのになんと初日に国語と数学,2日目に英語と理科2科目とめちゃめちゃハードでした.今でもそうかな?),かなり大きかったです.

 そんな感じで,高校3年の時は受験なので勉強しなくては,と思いつつもどうしてもやる気にならない,みたいな感じで成績もどんどん落ちていったと思います.物理学者になるのが目標なので,志望は東大の理Iでしたが,とても合格できるような成績ではありませんでした.修猷館は確かにまあ地元では有名進学校なんですが,先生も結構みんな豪傑というか「高校時代は勉強以外にやることあるだろ.勉強なんか浪人してすりゃいいんだよ」みたいなことを言われる先生もいました(^^;.実際,「修猷学館」という専属?の予備校まであり(去年,私の研究室に来てくれた同じ高校出身の田中君によるともうなくなったそうですが),男子の8割が浪人していました.まあ公立高校にはありがちではありますが.そして,私も予定通り?浪人します.ただ,試験は意外とよくできて,もう少し?という感じだったので落ちて当然と思っていたことにとても後悔したことを憶えています.

 物理学者になりたいのに,どういうわけかノーベル賞受賞者を数多く輩出している(当時は,理系のノーベル賞受賞者は,湯川秀樹,朝永振一郎,江崎玲於奈,福井謙一という感じで4人中3人が京大出身者でした)京大理学部受験はほとんど考えませんでした.福岡という土地柄東京志向が非常に強いというのもあります.でも全く考えないことはありませんでした.当時は,共通一次(今のセンター試験)と2次試験で合否が決まるのですが,京大は共通1次の比率が高く(対照的に東大はほとんど2次試験で決まり,共通1次は実質足切のみという感じだった),現役の時はかなり弱気で,共通1次がよければ京大でもいいやみたい(失礼ですねー)なことは考えました.でも浪人して共通1次を9割5分くらいとったときは,友達に東大受けると言ったら,九大医学部なら確実に受かるのにあほな奴だ,みたいにめちゃめちゃばかにされました(^^;.

 東大を志望した大きな理由の1つは,まあ「東大」ということもあるんですけど(^^;,理Iという「大まかに理工系」という志望の仕方ができた,というのも大きかったと思います.そして,後述するように実際に入学後そのシステムに救われることになります.物理学者になりたいとは言え,どこかでなんとなくひょっとしたら違うんじゃないか,みたいなことを薄々感じていたのかもしれません.高校時代ブルーバックスのような本は沢山読んでいましたが,これだ!という感触までは得られなかったと思います.そしてその予感は入学後的中することになります.高校時代に読んだその手の本で一番印象に残っているのは「大数学者」という新潮選書で,衝撃的だったのは二十歳で決闘して死んだガロアでした.二十歳で亡くなったのに大数学者かよ!その時点で数学者になるのは完全に諦めたと思います.

 高校時代のことで一番後悔しているのは,部活のブラスバンドを途中でやめてしまったことですね.練習はかなり遅くまであって,疲れて帰ってきて寝ている私を見て父が音楽をやるのはいいが,ピアノかプラスかどっちかにしろ,と言われ,苦渋の選択を迫られて,ピアノを選んでしまいました.当時のブラスの部長の上級生にもよく反発していて,喧嘩してやめました(^^;(もちろん私がわがままだったからですが).ただ,その後文化祭などで同級生が呼び戻してくれて何回か復帰しましたが,3年の最後まで全うすることはありませんでした.でも,同級生がみんないい奴で卒業後声をかけてくれて,東京にいるメンバーで(ほとんど東京にいる?)今でも時々集まって飲んでいます.今,簡易振動実験でいっしょに仕事をしている建研の福山君は,その時からの友人です.

 浪人後,無事東大理Iに合格し,いよいよ物理学者になる,という夢を実現させる段階に入ってきます.一番最初に起こした行動は,最先端の物理学である素粒子に関するゼミを田無の宇宙線研究所まで受けに行ったことでした.そして,ものすごいショックを受けることになります.私がやりたいと思っていたニュートン力学なんてものはもう過去の遺物で(そりゃそうだ(^^;),素粒子などのばりばりの現代物理は私の予想していたものとはかけ離れたものでした.まあちょっと調べればわかることなんですが,例えば,ノーベル賞をもらわれた小柴先生の研究なんか見ても,神岡に巨大な穴掘って(^^;宇宙線を観測するとか,サイクロトロンみたいな巨大な実験装置を使ってばりばり実験するみたいな感じで,なんか理論物理という私のイメージとは程遠いものでした.ゼミが終わって帰るとき,外はもう暗くなっていて,西武線の電車に乗って駒場に帰るまで,これからどうしようと途方に暮れていたのを憶えています.

 その後,駒場時代(大学1,2年)は,大学に受かったということと,物理学者になりたい,という今までもっていた目標を一度に失ってしまって,とても苦しく暗かったと思います.ただ,運動会(いわゆる体育会のこと)のバドミントン部に入ったことと,東大ピアノの会に入ったことで,エネルギーはそちらに向かうことになります.特にバドミントン部は,高校時代ブラスを途中でやめてしまったという苦い経験から何が何でも最後まで続けようと思っていました.ピアノの方も東大ピアノの会のものすごい人達と巡り会って,ピアノに関してはとても充実した大学時代を過ごせたと思います(詳しくはこちら

 しかし,肝心の本業の方が方向性が見つからずとても苦しかったです.東大は1,2年の成績で進学先が決まる(いわゆる進振りですね)ので,遊んでばかりもいられません.当時はほとんど一発勝負のばくちでしたが,この間,東大バドミントン部の学生にきいたら,今はチャンスが2回あるそうで,いい世の中?になったもんだな,と思いました.いろんな本も読みました.その中で一番印象に残っているのは,「科学者になる人のために」という本で,バドミントン部の合宿中に検見川の2段ベッドで読んだのですが,科学の素晴らしさ,その「真理の探究」という本質についてとうとうと書いてありました.でも「真理の探究」ということにどうしても興味を持てず,自分は科学者には向いていない,科学者にはなれない,と確信して愕然としたものです.

 進振りがあるので,勉強しないといけないのですが,どこに進学したいという目標がないので,モチベーションがどうしても上がりません.それに競争相手はみな東大生,しかも半分は現役で入ってきた連中なので,めちゃめちゃシビアです.そうこうするうちに〆切がどんどん迫ってきます.最終的に進学希望先を決めたのは,提出当日の朝だったと思います.ずっといろんな資料を調べていたのですが(当時はインターネットなんていう便利なものは当然ありません),東京大学工学部なんとか(名前は忘れた(^^;)という黒い本を前日それこそ徹夜で見ていて,建築に構造という分野があることに気がつきます.そして,これだ!と思ったのを今でもよく憶えています.それまで何で気づかなかったのか,なんで直前ぎりぎりに気がついたかは,今でも謎です(^^;.

 古典力学そのものは,もう学問としては過去のものですが,工学系ではそれを使っていろんなものを作るわけです.私が電磁気よりも力学に興味をもったのは,現象が目に見えるからで,それを使って目に見える建築物が作られている,ということに感動し,これこそが私が追い求めていたものだと思いました.結果的に,入学の時点では漠然と理工系(理I)という選択をすればよく,3年に進学するときに具体的な学科を選択すればいいという東大のシステムに救われたことになります.進振りは賛否両論ありますが,高校までは大学に受かることで頭が一杯で,高校生に具体的な進路までは決めさせるのはなかなか厳しいような気もします.大学に入ればそれまでよりは格段に時間もありますし(進振りがある東大ですら),大学に入って2年くらいかけて具体的にやりたいことを探せるシステムもいいのではないか,と私は思っています.

 建築に構造という分野があることを見つけたときは,進振り希望提出の当日で,もう世が明けかけていました.お腹が空いたので,空が白み始めた中を,下宿(駒場のキャンパスのすぐ横に住んでいました)から山手通りを通って,コンビニ(三叉路のところにあるセブンイレブン)まで歩いていく中,なんとも言えない,幸せな気分でした(建築なので人気学科ですし,まだ,通るかどうかはわからないのですが).

 そして,無事建築学科に進学します.建築学科なので,ほぼ全員が建築家志望です.確か,最初の製図の授業で先生(広部先生だったかな)が,「この中でアーキテクトになりたい人,手を挙げて」と言われて,私と坂本(現,大成建設)以外全員手を挙げました(^^;.私は「アーキテクト」の意味すらわかりませんでした(^^;.私と坂本がその後,無二の親友?になったのは言うまでもありません(^^;.そして,とんでもないところに来てしまったかも,と思うと同時に「もろた!」とも思いました.なぜって,構造やりたい,なんて人は全然いないわけですから,競争相手もいないわけです(^^)v.ですが,製図はそれなりに楽しかったですが,周りはばりばりの建築家志望ばかりですから,結構大変だったです.小泉君(現,都立大,じゃなくて首都大学東京か)と等価?交換(製図の図面をもらう代わりに,構造の試験のとき私の席の隣りに座ってもらう(^^;)をしたりもしました.2年の後期,3年と製図は必修でした.3年の最後の課題を出した後,坂本と祝杯をあげました(^^).

 2年3年のときは,構造の授業はもちろんあったのですが,構造力学とかそういう感じだったので,まあそんなにおもしろいって感じでもなかったです(^^;.でもちゃんと勉強はしてました.建築学科時代の成績はほとんどAだったと思います.別に私が優秀なんじゃなくて,ほとんどの人は建築家志望なので授業などは出ずに製図室に籠もっていたからです.私もバドミントン部,ピアノの会と本業以外が忙しかったこともあり,構造系以外の授業にはほとんど出なかったと思います(卒業式の後のパーティーで建築学科の先生方の半分は顔と名前が一致しなかった(^^;).

 そして,いよいよ卒業論文の研究室配属になります.授業で一番興味をもったのは,秋山先生(現,日本大)の弾性論でした.まず,秋山先生のところに話をききに行ったと思います.秋山先生は当時,本郷キャンパスの工学部11号館にはおられなくて,浅野キャンパスの総合試験所に出向?されていました.秋山先生の話はとてもおもしろく,非常に興味をもったのですが,浅野キャンパスは本郷キャンパスから少し離れていてとても寂しく人もあまりいない感じで,ここに来るのは嫌だなあ,と思ったのを憶えています.たまたまその時,秋山先生が総合試験所におられたというだけで秋山研に行かなかった(秋山先生が11号館におられたらおそらく秋山研に行ったと思います),というのはなんか不思議な感じがします.

 ちなみに秋山先生はピアノを弾かれるのでその後もいろいろ仲良く?させていただいて,一度銀座に連れていっていただいて,女性まで紹介していただきました(^^;.秋山先生のその業績は言うまでもなく,その研究者としての姿勢はほんとに素晴らしいというか,いやー,ほんとにすごい人だと思います.

 最終的に,私が希望したのは,青山・小谷研(今の久保・塩原研)でした.坂本もいっしょでした.青山先生が構造力学の講義をなさっていて,とてもわかりやすかった(青山先生を構造力学の授業という面で捉えるというのも的外れなこと甚だしいですね(^^;)というのもありますし,研究室が賑やかでとても楽しそうでした.小谷先生は,当時4年生の授業しかされていなかったのですが,その中の研究室紹介の,研究室に来る条件として「酒が飲める」「野球ができる」「勉強ができてもよい」というのもちょっと魅力的(^^;でした.

 そして,研究室のテーマを選ぶときになって,小谷先生の「卒業論文とは言ってもどれも世界最先端のテーマだからしっかりやるように」という言葉に体が震えるほど感動したのをはっきりと憶えています.そして,めちゃめちゃやる気になったのは言うまでもありません.4年生は大学院生に付くのですが,私が付いたのは当時M2の定本さん(現,竹中工務店)で,彼が困り果てて逃げまくるほど質問攻めにしました(^^;(定本さんどうもすみませんでしたm(_ _)m).研究という勉強とは全く違った,答えがまだない未知なるものを自分で探求していく,ということもとても新鮮でわくわくするものでした.また,質問してもちゃんと答えてくれなくて(答えられない?)いつも反抗ばかりしていた小中高までの多くの教師(もちろん,そうでない先生も沢山いらっしゃいました)と大学の先生のレベルのあまりの違いに驚き,やっと先生と呼べる人に巡り会えた!とも思いました(ちょっと問題発言ですが,本音なのでお許しくださいm(_ _)m.まあ,青山先生,小谷先生という世界の中でも建築構造界の第一人者が相手なんで仕方ないですよね(^^;).

 日本は地震国であり,建物はほとんど地震に耐えることによって設計されるので,建築構造の最先端のテーマは全て地震とか耐震ということに関することでした.具体的には,地震という不規則な揺れが建物に入力して,建物がどう挙動するかを古典力学に基づいてコンピュータを使って解析したりとか(実際に,運動方程式を解く),地震に耐えられる構造部材の挙動について研究する,といったもので,まさに,「古典力学を使って目で見える自然現象を捉え,形のあるものを作る」という私のイメージとぴったりでした.地震動の波形を初めて見たときも,その不思議な形に何とも言えない幾何学的なおもしろさのようなものも感じました.難しい数式があまり得意でなかった(^^;私にとって,理論化の難しい非線形挙動を復元力特性のモデル化によって解くといった,いかにも工学的な手法にも興味をもちました.

 卒論のテーマは「地震動の破壊力に関する研究」という非常に大きなものでした.その後,いろいろんなテーマに取り組んできましたが,現在またそういうテーマに別の角度から取り組んでいるのは不思議な感じがします.実は,大学卒業後は,大学の先生になると決めていたわけではなくて(そこまでは自信がなくて),国家公務員上級試験(今の国家I種ですかね)の受験申し込みもしていて,それなりに勉強もしていたのですが(何と,エール出版の「私の国家公務員上級試験合格体験記」?を大学1年の時から毎年買って読んでいた),研究室に入ってこれだ!とまた思って(全くおめでたい奴ですね(^^;),すぐに大学院進学を決めたと思います.それも修士の入試の時面接で「博士まで行きます!」と宣言してしまいました.

 卒論はとても幸運なことに当時,筑波大から地震研に戻られたばかりの南忠夫先生に直接指導していただくことになりました.別に定本さんがクビになったわけでなく(^^;,しばらくは2人で行っていて,定本さんは1968年十勝沖地震の八戸高専の被害を再現する,というのが修論のテーマだったため,八戸港湾の記録から八戸高専の地震動を伝達マトリクス法で再現する,というのを南先生のところに勉強しに行っていて,その再現波ができた後は,私1人で毎週地震研に行くことになりました.その辺のことはここに書いてあります.大学院時代のこともここに書いてありますので,省略します(^^;.幸福論?その1にも少し書いてあります.

 概要?だけ書くと,大学院時代はほんとによく勉強,そして研究したと思います.とにかく青山先生,小谷先生に認めてもらおうと必死でした.とても幸せな6年間でした.そして,無事大学に職を得ることもできました.研究室に入ってそこまではとても順調(私の人生の中で唯一順調と言えるのが大学院時代だと思います)だったのですが,その後,どうなったかは,断片的にはもうあちこちに書いていますし,「頑張る」にまとめて書いています.

 でも,こうして振り返ってみると,節目節目でほんと綱渡りみたいな感じで,随分紆余曲折?があったもんだなー(「やりたいこと探し」ってほんとに大変だなー),と思う反面,なんかなるようになってきたような気もします.やはり,「全ては150億年前に決まっている」としか思えませんね(^^;.

 ここまでは,「今の仕事を選んだわけ」というよりは,「今の仕事を選んだ経緯」という感じなので,今の仕事を選んだ「わけ」について,もう少し詳しく書いておこうと思います.今の仕事(大学の教員)を自分の仕事として選んだきっかけ(子供の頃)は,大学の教員をしていた父親が仕事をしていてとても楽しそうだった,ということですが,最終的に今の仕事を選んだ(研究者になろうと決意した)のは,大学4年のとき研究室に入って研究というものがどういうものかがおぼろげながらわかり,その中身が「力学を使って目で見える現象を捉え,形のあるものを作る」という自分がやりたいことだったからです.

 私にとって何より重要だったのは,仕事そのものに興味がもてるもの,ということです(まあ当たり前の話だと思いますが).人間,なんだかんだいっても起きている時間の大半を仕事をして過ごすわけですから,やっていて楽しいに越したことはありません.そして,私が重要視したのは,それに加えて仕事をすることによって仕事のレベル,熟練度が上がり,仕事を通して自分自身が成長できる,ということでした.要は,仕事を通して一生「修行」ができるような仕事を選んだ,ということです.

 また,大学の教員は時間が比較的自由になる,ということもありました.もちろん大学の教員はサラリーマンであり,2年前までは国立大学の教員は公務員ですらあったわけですから,昼間の勤務時間は働くのが当然です.しかし,それ以外の時間をどう過ごすかはほとんど本人の自由です.ですから,本人がその気になれば朝9時から夕方5時まで以外は全く仕事をしない,ということも可能です.しかし,最先端の研究をしていれば,そんなことでやって行けるわけがありません.従って,夜も休日も仕事をすることになりますが,それをどう配分するかは本人の自由ということです.

 私の場合は,仕事以外にもいろんなことをそれもかなりまじにやっているので,それはとても重要でした.例えば,バドミントンの練習がある日は自由に練習に行けますし(その代わり,練習が終わってまた仕事をしますが),その日に講義や学内外の会議がなければ誰に気兼ねすることもなく平日に休みをとってスキーに行くこともできます.もちろんそういう週は休日に仕事をすることになりますが,スキー場は平日が休日より格段に空いているので,そうした方が効率がいいのは言うまでもありません.でも問題は,平日だといっしょに行ける人がほとんどいない(T_T)ってことですね(^^;.研究室の学生にも成果を出しさえすれば,いつ仕事をするかは自由ということにしています.

 もちろん,研究は仕事の「時間」ではなく「質や量」が決まっているものなので,より高い「質や量」を目指すのであれば,勤務時間以外遊んでばかりいたら,自分で自分の首を絞めることになります.ですから,しっかりとしたマネージメントが必要です.普通はそういうマネージメントは会社や上司が行うのでしょうが,それを自分自身で行うことができる,ということです.まあ,これは実際にやってみると,人間やはり怠け者なので(特に私は(^^;),〆切前に大変辛い目に会うことになってしまい,こんなことなら普通の会社の方がよかった?(T_T),と思うこともないではないです.

 ちなみに大学の教員に残業代は全くつきません.もしついたらおそらく給料は倍くらいになるでしょう(^^;.ですから,勤務時間以外にいくら仕事をしようとそれは研究成果となって現れるだけで,給料という形では全く反映されません.これは研究者が非常に冷遇されている,といえないこともないですが,じゃあ,成果を給料というお金で評価すればいいのか,というとそうは思いません.この辺のことについては,研究者に対する評価に書いています.

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5/31'05
地震予知

 今日は,東京で委員会で仕事だったのですが,仕事が終わるとそそくさとつくばに帰ってきてしまいました(帰りの高速バスの中でこの文章を書いています).いつもだいたいそう(^^;ですが,今回は,南関東で5月27日±4日にM7.2±0.5の地震が発生するという情報もちょっと気になっていました.東京にいるときに地震が起こると何が困るかというと,つくばに帰る交通がストップしてしまう可能性があることです.でも私もそうですが,首都圏直下で地震が起こったときに自分が死ぬかもしれない,と思っている人はどのくらいいるのでしょうか?

  阪神・淡路大震災から10年 地震災害の3つの特質と問題点や建築技術の5月号に書いているように,首都圏直下地震で1万人の方が亡くなったとしてもその確率は1/1000以下です(もちろん1万人ですめばの話ですが).しかしながら,経済損失は莫大で,日本の1年の国家予算以上が一瞬で吹っ飛ぶほどです.運良く構造物の倒壊に巻き込まれて命を落とすことは免れたとしても,建物やライフラインなどが甚大な被害を受ければ,その後の生活はできません.実際,昨年の新潟県中越地震で亡くなった方の多くは,地震後,不自由な生活の中で命を落とされてしまいました.つまり,完璧に地震予知ができても,倒壊する構造物は倒壊するわけですから,地震災害を抜本的に解決することにはならないことを肝に銘じておくべきでしょう.

 そうは言っても,何より重要な人命が地震によって失われる主な原因は,現在の耐震規定を満たしていない,いわゆる既存不適格建物の倒壊です.地震は自然災害というより人災というのも ここや建築技術の5月号に書いている通りです(地震の揺れそのもので人が死ぬことはありません.地震の揺れによって壊れるような耐震性の低い構造物が人命を奪うのです).そして残念ながら耐震性の低い既存不適格建物の耐震補強は遅々として進んでいないのが現状です.

 地震予知がもし1時間以下というオーダーで可能なら,事前に避難しておくなどすれば,建物など構造物の倒壊によって亡くなる人の数は圧倒的に減るでしょうが,現実には1時間以下というオーダーは厳しいでしょう.数日というオーダーでは避難しておく,などという行動を実際にとることは困難です.

 地震予知は構造物が倒壊して人命を奪うことを回避するのが目的ですから,構造物が倒壊するようなM8クラス,あるいは,直下のM7クラスを予知できなければあまり意味はありません.M6クラスの地震を予知できてもあまり意味はないし,それで予知できたと言えるのか?ということです.しかし, ここや建築技術の5月号に書いている通り,構造物が倒壊するような規模の地震は滅多に起きませんから,なかなか研究も進まないということになってしまいます.

 ですが,地震予知は社会的影響がとても大きいので,国が実際に警戒宣言を出すのは非常に難しいところがあります.警戒宣言を出して,例えば,新幹線を止めて何事も起こらなければ,莫大な経済損失が生じてしまい,責任問題,損害賠償問題にもなりかねません.

 そういう意味では,地震予知は民間の機関で,ある意味「無責任」にやってもらうのが現実的なように思います.頭の片隅に気にかけているかいないかで被害の大きさはかなり違ってくるでしょうし,例えば,今日の私のように(^^;,東京で仕事が終わったらそそくさと帰ってくる,というように,行動に移せる範囲で行動に移せるものもあります(無事,つくばに帰ってきました(^^).5月27日±4日なので,「期限」は明日までですね).M6クラスでも交通は一時的にでも止まる可能性があります.東京からつくばまで歩いて帰るのは大変です.そういう意味で,民間の地震予知研究の中で事前にちゃんと情報を公開しているものには,私は実はちょっと興味をもって着目しています.ただし,地震が起こった後,こういう予兆があったとか何とかいうのは問題外です.地震予知の最大の問題は,予知して地震が起きないという「空振り」であり,地震が起こった後になってこういう現象があった,という後付では使いものになりません.

 ですが,たとえ1時間以下というオーダーで地震予知できたとしても,倒壊する構造物は倒壊して,その後の生活はできなくなるわけですし,やはり,構造物,都市全体をしっかり地震に強いものにするのが最も有効な方策だと思います.我々は,起これば被害甚大でも確率は非常に低いリスクに対してとても鈍感なところがありますので,意識して心がける必要があります.

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ポピュラーなショパンのピアノ曲 その1: エチュード

 長らく(^^;連載?が止まっていた「クラシック音楽入門?」の続きです.「曲の呼び方」は飛ばして(後で書きますし,ぼちぼちこの中でも紹介していきます.),いきなり実戦?というか具体的なところに入っていきます.「クラシック音楽入門?」は,「どこかで聴いたことがある曲」をとっかかりとして,幅広く真の名曲,自分のお気に入りを探しながらクラシック音楽を聴いていく,というのが主旨なので,とりあえずどこかで聴いたことがあるという点では数が一番多いと思われるショパンを取り上げます.

 「ショパンのピアノ曲」とは言ってもショパンの作品は,ほとんどピアノ独奏曲です.ピアノ独奏曲以外の有名なところでは,2つのピアノ協奏曲とチェロソナタくらいでしょうか.

 まずはエチュード(練習曲)ですかね.エチュード(練習曲)というのは文字通り練習のための曲ですが,無味乾燥になりがちな(チェルニーのように(^^;.でも膨大なチェルニーの練習曲も丹念に見ていくと,中にはおっ!というようなものも結構ありますよ.)練習曲に芸術性を与えたのはショパンが最初と言われています.実際,私は数あるショパンの作品の中でなんだかんだ言ってエチュードを最もよく弾きますし,存在価値も高いと思います.ショパンの後は,リスト,アルカン,ドビュッシー,スクリアビン,ラフマニノフなど,最近ではリゲティ,カプースチンが素晴らしいエチュードを書いています.

 ショパンのエチュードには,Op.10とOp.25の2シリーズと遺作の3曲があります.Op.というのは,Opusの略で作品番号のことで,出版順に番号がついています.ショパンの最後の作品番号はOp.74(Op.74は何と歌曲)なので,大まかに言って74曲の作品を残した,ということになりますが,作品番号がついていないものや遺作と言って,死後出版されたものもあります.ショパンの作品番号がついた作品の中でも生前に出版されたのは,Op.63のマズルカまでです.

 ここではOp.10とOp.25の2シリーズの中のポピュラーなものを紹介します.それぞれ12曲ずつ,従って全部で24曲ありますが,その中でどこかできいたことのあるようなポピュラーなものは,

・Op.10の3(別れの曲)
・Op.10の4
・Op.10の5(黒鍵のエチュード)
・Op.10の12(革命)
・Op.25の11(木枯らし)

ですかね.でもこうしてピックアップしてみると,そんなに多くないですね(^^;.特に有名なのは,Op.10の12(革命)とOp.10の3(別れの曲)でしょうか.Op.10の4は最後の部分がその昔CMに使われていました.しかし,この「クラシック音楽入門?」の主旨は,「どこかで聴いたことがある曲をとっかかりとして,クラシック音楽を聴いていく」なので,残りの曲も聴いてみて下さい.え?これが練習曲?と驚かれると思います.そして,「あなたのお気に入りの曲」を是非見つけてください.上であげた曲以外には,Op.10の1, 8, 10, Op.25の1(エオリアンハープ), 12(大洋のエチュード)あたりもよく弾かれます.Op.10の2は,地味な曲ですが,右のスケールのほとんど3, 4, 5(中指,薬指,小指)で弾くという難曲です.Op.25の6の3度のエチュードも超難曲です.

midiでしたらここにいくつかあります.midiで曲を確認したら是非CDで超一流のピアニストが弾く演奏を聴いて下さい.機会があれば是非生の演奏会でも.midiを聴いた後,生の人間の弾く演奏を聴くとピアニストの存在意義がよりわかるでしょう.演奏は,やはりポリーニをあげておきます.ポリーニは1960年のショパンコンクールに優勝したにもかかわらず,その後表舞台から姿を消し,12年後の1972年にこのショパンエチュードでまさにセンセーショナルなデビューを果たしました.私も当時LPを買って聴いたときは,あまりに楽々と完璧に弾いていて,粒が揃った綺羅星のような音の並びに衝撃を受けました.当時はあまりに上手すぎるので,機械が弾いているようだ,とか,冷たい,などという批判も受けたほど話題になった演奏でした.

 有名どころではアシュケナージのものもあります.これには,3つの遺作も入っているのでこちらは完全版です.アシュケナージはポリーニが優勝した前回の1955年のショパンコンクールで2位になりました.優勝したのは地元のポーランドのハラシェヴィッチですが,その後はアシュケナージとは対照的に全くぱっとしません.政治的要因が働いたと言われていますが,かのミケランジェリがその結果に不満を持ち,サインをしなかったというのは有名な話です.もし1955年にアシュケナージが実力通り優勝していれば,アシュケナージ(1955),ポリーニ(1960),アルゲリッチ(1965),オールソン(1970),ツィマーマン(1975)とまさにショパンコンクールは世界的なピアニストを立て続けに輩出したことになります.もちろんショパンコンクールとはいえコンクールは単なる登竜門に過ぎず,ショパンコンクールで優勝したからといって世界的なピアニストにはまだまだ程遠いのが実状です.彼らが世界的なピアニストになったのは,その後の研鑽の賜であるのは言うまでもありません.逆に大したコンクールの入賞歴がないにもかかわらず一流にピアニストになった人もごろごろいます.

 日本人でショパンコンクールに入賞して,その後一流のピアニストとして活躍している人には,内田光子(1970年2位),小山実稚恵(1985年4位),横山幸雄(1990年3位)などがいます.横山幸雄さんは,写真だけ見ると私によく似ています(と妻に指摘されました(^^;.でも実物は結構違うらしいです.私は直接は見たことはないです.).ジャケットによってはほんと瓜2つ?というものもあってちょっと恥ずかしいです(^^;.日本のピアノのレベルは本当に高く(ヴァイオリンはもっと高い),もし「団体戦」があれば日本が優勝でしょう.でもまだ残念ながらショパンコンクールの優勝者は出ていませんし,世界的なピアニストもまだ誕生していないと言わざるを得ません.他の分野では,作曲家で武満徹,指揮者で小沢征爾が世界的な音楽家と言えるでしょう.2人に共通するのは,いわゆる正規のルートからはずれている,ということで(武満は正規の教育を受けていない,小沢は桐朋だが,日本で認められず海外に飛び出した),日本の音楽界のシステムは再考の必要があるかもしれませんね.分野にもよりますが,音楽に関してはやはり一流100人より超一流1人を輩出する方が重要だと思います.

 話を戻します.黒鍵のエチュードにはホロヴィッツの名演もあります.「ホロヴィッツ・プレイズ・ショパン」というオムニバスものに入っています.まさに黒鍵のエチュードの意図を見事に再現した弾けんばかりの演奏です.これに比べればポリーニの演奏はのたのたした感じに聞こえます.ホロヴィッツはかなりショパンの演奏を残していて,いわゆるオムニバスものが多いですが,その多くが名演に値するものです.ショパン以外のものも,他のピアニストの演奏とは一線を画すものが多いです.ぱっと思いつくだけでも,ショパンのピアノソナタ第2番,シューマンのクライスレリアーナ,シューマンのピアノソナタ第3番とスクリアビンのピアノソナタ第5番,ラフマニノフのピアノソナタ第2番,プロコフィエフのピアノソナタ第7番,バーバーのピアノソナタなどがあります.「ホロヴィッツ・プレイズ・ショパン」には黒鍵のエチュード以外には,英雄ポロネーズ,幻想ポロネーズなどが入っています.特にライブ録音の幻想ポロネーズは,まさに鬼気迫る名演で,演奏が終わると同時に鳴り響く拍手喝采が演奏のすごさと臨場感を体現しています.

 ホロヴィッツの演奏は,幸い生で一度だけ聴くことができました.1983年に初来日したときです.東大ピアノの会のメンバーで徹夜で並んでチケットを入手したのを思い出します(S席でなんと5万円!でした).しかしながら,演奏は...もう全盛期を過ぎてしまっていて,吉田秀和氏の表現を借りると「ひび割れた骨董品」でした.でも,なんかお祭りみたいなもんで,まあいい思い出という感じです.

 ついでに上級編?として,ショパンのエチュードをゴドフスキが編曲した「ショパンのエチュードにによる53のエチュード」というものがあります.革命のエチュードを左手だけで弾いたりとか,右手の分散和音の練習であるOp.10の1を両手で弾いたりとか,カデンツ(いわゆるコードのこと)が同じ黒鍵のエチュードとOp.25の9を同時に弾いたりとか,それこそ超絶技巧,曲芸?のオンパレードです.私はマッジのCDを持っていますが,あまりお勧めできません.アムランが弾いているので(実は聴いたことはないが(^^;),興味がある人はそれがいいんじゃないかと思います(聴いてないのに無責任).しかし,ゴドフスキによるショパンエチュードは難しい割りに演奏効果はさほどでもなく(^^;,聴いて楽しいものではないかもしれません(^^;.

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ポピュラーなショパンのピアノ曲 その2: プレリュード

 エチュードの次は,プレリュード(前奏曲)です.プレリュードにはOp.28のプレリュード集(全24曲)と単独のOp.45,遺作の全26曲あります.Op.28のプレリュードは,ショパンが敬愛してやまなかったバッハのプレリュードとフーガからなる平均律クラヴィア曲集の影響を受けたとされています.平均律は24の全ての調で書かれていますが,ショパンのプレリュード集Op.28も24の全ての調で書かれており,つまり,全部で24曲からなります.その中でどこかできいたことのあるようなポピュラーなものは,

・第4番ホ短調
・第6番ロ短調
・第7番イ長調
・第15番変ニ長調(雨だれ)
・第16番変ロ短調
・第20番ハ短調

でしょうか.特に第7番は,テレビを見たことがある人(テレビを見たことがない人もひょっとしたら(^^;いるかもしれないので)で聴いたことがない人はまずいないでしょう.太田胃散のCMの音楽としておそらくもう30年以上使われていると思います.イ長と胃腸が掛けられてるという噂があります(へぇー(^^;).第15番は「雨だれ」という愛称?で呼ばれています.第4番,第6番は,そんなに有名ではないかもしれませんが,お葬式などで時々聴きます.ショパンの葬儀にもこの曲が演奏されました.そういう感じの重々しい曲です.第20番もそんなに有名ではないですが,ラフマニノフ,ブゾーニなどがこの曲を主題としたバリエーション(変奏曲)を書いています.第7番もモンポウがバリエーションを書いています.第16番変ロ短調は,ピアノが上手い人が「自分はピアノが上手いんだ」ということをひけらかすためにてっとり早く弾かれる曲(^^;とよく言われています.ということは非常に演奏効果の高い曲です.

 このOp.28のプレリュードですが,私が思うに実験的な要素がかなり濃く,中にはショパンとは思えないほど前衛的な響きがするものもあります.そういう意味では数あるショパンの作品の中でも最先端?と言えるかもしれません.不協和音もふんだんに使われていて,様式的にもプレリュードという性格からかなり自由に書かれています.全ての調で書かれていますし,バラエティにも富んでいますので,是非この中からも「あなたのお気に入りの曲」を見つけてください.中にはとても弾きやすい曲もあります.小さい頃ピアノを習っていたがバイエルくらいで挫折した,という人にも弾けそうなものもありますよ.ここで紹介しているものも16番以外はとても弾きやすいです(ただ弾くだけなら,ですが(^^;).でも曲がりなりにも?ショパンが弾けたらちょっと格好良くないですか(^^;?

 譜面は,いろんな出版社から出ていて,版もいろいろです.有名なところではコルトー版,パデレフスキ版,原典版,ヘンレ版,最近注目されているものでは,ショパンコンクールで公認?となった,エキエル版などがありますが,そこそこ信頼が置けてなおかつお安くお手軽なのは,Dover社から出ているパデレフスキ版でしょう.エチュードとプレリュードが入っている巻は,全部でなんと$8.95です(私がもってるものは).もっとお手軽なものは,フリーのpdfファイルがネット上にあります.買ったとしてもショパンの主たる曲のほとんどをCD1枚に収録してわずかに$19.95です.

 演奏は,これもmidiでしたらここにいくつかあります(midiだけでなく,ピアニストの演奏を聴く必要があるのは,エチュードで書いたとおりです).演奏は,エチュードでポリーニをあげたので,ここではアルゲリッチをあげておきますか(特にお勧めというわけでもないが,他にぱっと思いつかないので(^^;).ポリーニのものもありますので,エチュードでポリーニの演奏が気に入った人はこれもポリーニでもいいでしょう.ただし,アルゲリッチのCD(私のはLP(^^;)には,Op.45と遺作も入っている完全版なので,そういう意味でもお勧めです.アルゲリッチはポリーニが優勝した次の1965年のショパンコンクールで優勝し,当時「女流ピアニスト」という枠を越えた初めての超一流の女性ピアニストと言われていました.でも,スペインものに関してはラローチャがいますし,考えてみればニコライエワもいて,彼女達の方が年上です.当時は,リリー・クラウスなどの女流ピアニストの多くは主としてモーツァルトを女性らしく(^^;?弾いていて,アルゲリッチがセンセーショナルなデビューをしたときには,そういう言われ方がよくされていました.

 確かにアルゲリッチの演奏は,パワフルかつ情熱的でほんとに男とか女とかそういう枠を全く感じさせないものです.ていうかむしろ男性的?私は当時は誰の演奏が好きかときかれたら,アルゲリッチとケンプと答えていたと思います.性格もその美貌(若い頃は(^^;ほんとにかわいくて綺麗で,私はアルゲリッチのポスターを随分長い間自室に貼っていました)とは対照的に竹を割ったような男らしい?性格と言われています.楽屋には脱ぎっぱなしのストッキングとかが無造作に放り出してあるらしい(^^;.ポリーニとアルゲリッチで思い出しましたが,ちょどそのころ吉田秀和氏の「世界のピアニスト」という本が世に出て,ポリーニとアルゲリッチの2人が別枠で大きく取り上げられていました.その本を中学の授業中に夢中になって読んでいたのを思い出します.吉田秀和氏の書く文章は,評論家という枠を越えて文学とも言えるもので,文学者だった父も一目置いていて全集が出るたびに1冊ずつ買ってもらっていました.今でも10巻くらいまで持っています.彼が紹介する演奏はどれも素晴らしいものなので,その中から興味があるものを聴いていく,という方法もありそうですね.エチュードで紹介したポリーニの演奏も取り上げられていたと思います.

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