4/8'05
雑記帳

 このホームページを立ち上げたのは,つくばに来る前の年の2002年の秋頃ですから,2年半くらい前ということになります.ホームページ立ち上げの主たる目的は,提案する震度算定法の紹介とこの「人生や世の中などいろんなことについて考えること」というコーナーだったのですが,震度算定法はそれなりに認知されて?いろんなところで取り上げられるようになり,また,その後,地震が立て続けに起こり(つくばに来て2年でなんと5回!),被害調査の速報を現地からアップロードしたりして非常に多くのアクセスがあって(もう10万近く)ホームページを作った甲斐があったかなー,とは思っています.

 ですが,肝心?のこのコーナーはぼちぼち公開していますが,一向に進んでいませんm(_ _)m.その一方で「人生や世の中などいろんなことについて考えること」はますます増えてきています.まあ,地震が起こりすぎて忙しすぎるのもありますが,やはり上のページでも書いていますが,「形」にするのが大変(面倒)ということがあります.当初,このコーナーの「核」になると思っていた「幸福論」,「人生所詮退屈しのぎ?」,「やるき3要素と無気力」などもテーマが大きすぎて「形」にできない状態です.ですが,なぐり書き?のような膨大な箇条書きは増える一方です.

 そこで,この「雑記帳」というコーナーを設けて今はやり?のブログとか日記みたいな感じでその日思ったことをとにかく書いていこうと思います.「幸福論」,「人生所詮退屈しのぎ?」,「やるき3要素と無気力」も少しずつその中で書いて行こうと思います(既に,断片的には書いていますが).日記のように思いつくままに書いていくのでまとまりがなく,完成度が低いものになると思いますし,考えがまだ定まらない段階,矛盾があるものもそのまま書いてしまいます.話の流れによっては,同じことを何回も書いてしまうこともあるでしょうし,構成を考えずにどんどん書いていくので話があっちゃこっちゃ行くと思います(なんか言い訳ばっかしですね(^^;.でも実際いくつか書いてみたのですが,「話が少しそれますが」「話を元に戻すと」の連発(^^;になってしまいました.でもそういう風に書けば,いろんなことをどんどん書けるということにも気がつきました).

 もし私が明日死ねば,私が考えていることは永久に消え去ってしまうので,たとえ不完全なものでも「形」にしておきたいということもあります.私がいろいろ苦しんで考えたことを読んで何かのヒントを得たり,元気になってもらえたりすることがひょっとしたらあるかもしれない,という期待もありますし,単なる「自己満足」ということもあります.これはホームページを作ってから気がついたのですが,自分の自己紹介のようなコーナーも設けたのでホームページができていくにつけ,自分の一種の「コピー」とか「ミラー」ができていくような感じがして,いつ死んでもとりあえずこれまで生きてきたことの証みないなものは残る?みたいな精神的な安らぎ?というか安心感のようなものを感じました(実はそれまでは,自分が生きていた証を残したい,なんて考えたこともなかったのですが...).そういう意味ではこのホームページが私の「ミラー」のようなものなら,この雑記帳は遺書のようなものかもしれません.

 日記なので「公開」というのはちと恥ずかしいので(^^;,この「雑記帳」というコーナーは,あえてホームページの階層的に非常に奥の方にしました.ですから,例えば地震被害調査速報などでホームページにアクセスした人はここに辿り着くことは少ないと思います(もちろんこのホームページに関心をもっていただいて,辿り着いてもらえたら望外の喜びですが).ですが,このコーナーに興味をもっていただいて時々アクセスしてくださってる方には気づいていただけるのでは?と期待しています.もしこのコーナーの「新設」(^^;に気がついて,その中身を読んでいただいてブログみたいにいろいろご意見をいただければ幸いです.「気づいたよ」とか「読んでるよ」とかだけメールくださってもうれしいです(^^).

 内容については,ブログというか日記ですので(^^;「人生や世の中などいろんなこと」というよりは,その日思ったとりとめのないことをつらつら書く中でぼちぼち触れられたらと思います.階層も下の方ですので,上の方のページでは書けない?本音に近いものになると思いますし,実名もばんばん出てくるかもしれませんm(_ _)m(もし不都合があればご連絡くださればもちろん削除します).

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お金で何でも買える?

 今日,ニュースで野中ともよさんが三洋電機のCEOに就任というニュースが流れていました.本人が一番びっくりと言っていましたが,私もほんとびっくりです(^^;.CEOというのはいわばその会社のトップなわけで社外取締役のようなものならともかく,経営のプロがなるものだと思っていたので(例えば,日産のゴーン氏のような)ほんとびっくりしました.まあ野中さんのことをとやかく言うのは置いとくとして,彼女が言っていたことが少し気になりました.確か「お金があれば何でも解決するみたいな風潮」?を批判していて,人の心がどうだこうだ,というようなことを言っていたと思います.明らかに,ライブドアの堀江氏を批判しているように思いました.SBIの北尾氏も同じようなことを言って堀江氏を批判しています.

 私もお金で何でも買える,という考え方にはもちろん反対です.ていうかお金で何でも買えるわけがないのは明らかです.そもそもそういう考えなら,絶対大学の先生なんかになるわけがありません(^^;.バブルの頃,「ボーナスが立った」とか「男の価値は年収で決まる」などと言っているような人もいましたが,あーそうなの,という感じで別に気にも留めませんでした.

 しかし,堀江氏が言っているのはそういうことではないのではないか,という気がしています.まあ彼の書いた本を読んだわけでもないですし,読む気もないですから想像上の話ですが.

 話は少しそれますが,私は話題になった本とかベストセラーは基本的に読まないことにしています.その理由は,これは文学者だった父の教え?なのですが,ベストセラーということは多くの人に受け入れられたということで,ということは,誰にでもわかる,ということで,ということは,大したものではないから読むに値しない,というものです.つまり,ほんとに価値があるものは,読み手にも高いレベルを求めるのは当然のことで,実際,「売れた本」は,「売れた」というだけで文学賞などの対象からはずされる,と父は言っていました.

 よく考えれば当たり前のことです.アインシュタインの相対性理論をちゃんと理解している人がどの位いるでしょうか?何百年という時間を経てもまだ演奏されるほどきびしい状況を生き抜いてきたそれこそ選りすぐりの傑作の集まりであるクラシック音楽の愛好者は非常に少ないのが実状です.傑作は万人が見てそのすごさがわかるというのは全くの嘘です.ほんとに優れたもののほんとのすごさがわかるには,そのための勉強,努力,場合よっては才能すら必要です.

 話を元に戻します.私が思うに,堀江氏の言いたいことは,今の世の中が資本主義というルールで動いている以上は,その尺度はお金であり,そのルールに乗っ取って「お金儲け」をすることは何ら恥ずべきことではなく,むしろスポーツとか受験のように努力さえすれば,誰にでも全く公平に均等な機会が与えられている,むしろ清々しいものですらあるということではないでしょうか?これも誤解を与えやすい言葉ですが,「お金は嘘をつかない」ということだと思います.彼は全く0から自分の努力と創意工夫によって現在の資本主義社会のルールにのっとって資産を築いたわけで,彼にしてみれば,「資本主義社会のお金儲け」ほど公正かつ公平なものはないのにどうしてみんな頑張らないの?ということだと思います.

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4/9'05
つくばに来て2年

 つくばに来て2年が経ちました.もう2年かまだ2年かびみょーなところですね(^^;.ですが,どっちかというとまだ2年?という感じの方が強いかもしれません.研究室の立ち上げとかこの2年で大きな地震が5回も起こって超多忙になってしまったこととかいろんなことがあったからかもしれません.職場の筑波大というところは非常に自由なところで自分のやりたいことを好きにやらせてもらっていますしほんとに来てよかったと思っています.

 その一方で,つくばという町はまだ慣れないというかどうもしっくり来ません.というか,ほぼ毎日大学へ行くこと,週に何回かのバドミントンの練習,とーきどきホームセンターやマツキヨとかで買い物をする以外につくばの町に「用がない」というのが実状です.東京からつくばに来るときに「都会が好きだからつくばに住むことが一番心配」といろんな人に話したのですが,その心配が今のところ的中?してるような気もします.

 ただ,じゃあ東京に住んでいたときに東京という町にどれだけ「用があった」かというと別に用はなかったと思います(本郷に住んでいたので,自転車で上野や秋葉原や神田や御茶ノ水に行けるのは確かに便利でしたが).実際,今でも週に1,2回くらいは仕事で東京に行くので,用があるのならその時に済ませればいいのですが,別に用はないので(^^;,仕事が終わるとそそくさとつくばに帰ってきてしまいます.

 少し話はそれますが,仕事で東京に行ったとき気になるのは仕事柄?やはり地震です.もし仕事で東京に行っているとき大地震が起こって交通がストップするとつくばまで60kmの道のりを歩いて帰るのは至難の業です.東京に住んでいたときは,そういう「不安感」はありませんでした(自分が地震で死ぬとは考えていない(^^;).まあそうなったらどこかに転がり込むしかないですね.どこかにこっそり自転車を置いておければいいのですが...いざとなったら60kmくらい歩ける体力をつけておくことも必要だと思います.もし郊外から東京の会社に勤めていて,そこに自転車を置いておけるのならそうしておくことをお勧めします.1995年兵庫県南部地震のときも公共の交通機関は全く麻痺していて,車は大渋滞で全く動かず,自転車は必需品でした.私も被害調査には新幹線に自転車をかつぎ込んで出かけました.

 自転車って誰が発明したのかよく知らないのですが(^^;,ほんとに大発明だと思います.転がり摩擦係数が小さいという物理的な性質だけで全く燃料なしに,人がただ歩くだけの時速5〜6kmを3〜4倍の時速15〜20kmにまでしてくれます.自転車こそまさに21世紀の乗り物だと思うのは私だけでしょうか?一番の問題は自転車を取り巻く環境です.駅前放置自転車が社会問題としてよく取り上げられますが,自転車ほど社会的に虐げられている乗り物はありません.第一,歩行者には歩道,自動車には車道があるのに,自転車が走るための道路すら準備されていません.

 話を元に戻します.じゃあつくばに住んでいて何がしっくり来ないのかというと,「町の生活感」のようなものでしょうか?同じ田舎でもつくばのような人工的に作られたところではなく,自然にできた町は歩いていても何となくほっとすることができます.でもつくばの町はそういうところがないですし,第一,移動は全て車なので,歩くということがほとんどありません.例えば,東京では本郷界隈に住んでいたのですが,別に特に用はなくても,それこそ自宅から大学までのわずか2〜3分の自転車の移動の間にも「生活感」があるので,今と比べると大分違っていたと思います.

 仕事していて煮詰まったりとかしてもぶらぶら散歩して気分転換をするようなところもありません.少し車を走らせれば筑波山が見えるとてもいいところは確かにあるのですが,なかなか車に乗ってまで出かける気にはなりません.屋上にでも行ければいいのですが,飛び降り自殺防止のために屋上には行けなくなっています.そういう自殺を防ぐ状況が逆に人を自殺に追い込みやすい状況を作ってしまっているのは皮肉な感じがします.

 車で東大通りとか西大通りを走っていて,どこかにこんなところあったなー,と思って考えてみたのですが,それは今から10年前に1年ほどいたバークレーでした.確かに外国人がつくばに住むとそれほど違和感は感じないという話はきいたことがあります.要は,日本人は狭い国土に肩寄せあって住むことに慣れているということでしょうか.

 つくばエキスプレスが8月にようやく開通して,東京に行くのは格段に便利になると思います(秋葉原まで快速で45分)が,つくばの町はそんなに変わらないような気がします.東京からもつくば駅(つくばセンター)まではすぐ来られるのですが,問題はつくば市内の交通です.つくば駅から筑波大まで徒歩10分になりますが,筑波大の南端に到達してから例えば私の研究室まで歩けば40〜50分はかかると思います(^^;.

 つくばに来て,気がついたことがもう1つあります.それは「つくば」と「筑波」の違いです.基本的には「つくば市」ができる以前にできたものは「筑波」で以降のものは「つくば」ということらしいです.ですから筑波大学は筑波大学であって,断じて「つくば大学」ではありません.ですが,学外のそれもつくば以外に住んでいる人はそんなことわかりませんよね.要は,なんでそんな紛らわしいネーミングをするのか,ということです.なんかひらがなとかカタカナの命名が流行ってますけど,ほんと正直やめて欲しいです.

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まだバドミントンやってます

 上のページでも書いていますが,私は齢40を過ぎましたが(^^;,まだバドミントンをやってます.それも楽しく健康のためというよりは,競技として,一言で言えば「勝つために」やっています.そもそもスポーツは体に悪いので健康のためにスポーツをやるわけがありません(^^;.

 じゃあ,何のためにやっているのかというと,もちろんバドミントンを通じていろんな人達と繋がりができることも大きいですが,流行の言い方で言うと「自己実現」のようなものでしょうか?(^^;つまり,バドミントンが強くなりたい,強くなるためにいろいろ考えてトレーニングしたり,練習したりするのを重要と考えているということです.全体の練習量に比べれば試合の時間はごくごくわずかです.スポーツである以上試合で結果を残すことで評価されるのは仕方ないところはありますが,私にとってのバドミントンは,強くなるための創意工夫の場なのです.

 でも一流の選手にとってもそれはそうなのではないでしょうか?よくマスコミが目標はオリンピックですか?みたいなことをきくとあからさまに嫌な顔をする選手は多いですし,それはよくわかります.だって,オリンピックなんて4年に一度で,しかも試合なんか一瞬ですし,日々の練習が全てオリンピックのため,などということはないと思います.生活のためだけにプレーしているプロスポーツ選手もいないでしょう.もしそんなことがあるとしたら,とても苦しいでしょうし,そういう非常に高いレベルでプレーできる幸運,才能,機会を与えられているのに勿体ないと思います.

 そういう意味ではドーピング問題は,単に選手の健康を害するとかフェアでないとかそういうことだけではなく,「自己実現」にもつながるスポーツの素晴らしさをとてもないがしろにしているようで残念です.創意工夫をして強くなることに意味があるし,それが効力感にもつながるものですが,報酬のために手段を選ばず,ということになってしまってとても不幸なことだと思います(詳しくは「やる気3要素と無気力」参照).

 話を戻すと,私はバドミントンが強くなるために練習しているわけですが,試合に勝つことが目的ではなく,自分で創意工夫して強くなる,という「過程」,そして,それを楽しむことが大事だと思っています.試合は,そういう創意工夫の結果を試す場ということになります.いい結果,即ち,試合に勝つことができれば成果が現れたもわけでもちろん嬉しいですが,それが目的というわけではないということです.週2,3回2時間程度という私くらいの練習量でも試合の時間なんか,練習時間に比べたらわずかなものです.ですから,もしいい結果が得られなくても,即ち,試合に負けてもそれを練習にフィードバックすればいいわけですし,過去の練習も決して無駄なものではなく,最悪でも「人生を退屈しのぎ」できたことになります.

 先日こんなことがありました.私が普段練習している筑波大バドミントン部で,練習の後,レギュラーの山浦が「先生,脳みそ交換してもらえませんか?」と言ってきて,まあそういう風に言ってくれることは私としても悪い気分はしませんし,一瞬それも悪くないかな,とか考えたりして(^^;,でもさすがに職業柄脳みそ勝負なので食べて行けなくなるのは困るので1秒くらい考えて(^^;お断りしたのですが,山浦の獣のような(^^;身体能力とスマッシュのスピードを手に入れれば,私の年代では全日本はおろか世界すら楽勝で取れるでしょうから,お礼?というか切り返し?として「脳みそはだめだけど,体なら交換してもいいよ」と言いました.でも後から考えると,体を交換してバドミントンが強くなっても意味がないですし,そんな安易な方法で強くなってもつまんないですよね.私のこの老いぼれた?体で創意工夫して強くなってこそ意味があるのです.

 しかしながら,実際にはなかなかうまく行かないものです.上の方で格好良く?「健康のためというよりは,競技として,一言で言えば「勝つために」やっています」,なんて書きましたが,大した実績はありません.まあ,大学に入って始めたバドミントンですし,大学時代もそんなに真面目な部員でもありませんでした(^^;.実際,去年東大バドミントン部の同期と1つ下で久しぶりに集まって飲んだとき,筑波大バドミントン部で練習してると話したら,「それじゃあ現役時代より今の方が全然練習してるじゃん!」と異口同音に言われたのにはちょっと閉口しましたが,さすがにそんなことはありません(^^;.実績的にも卒業間近で当時関東リーグ3部の東大バドミントン部で,一番本数が多い京大戦や一橋戦などの対外試合に辛うじて一番端っこに滑り込んで出られたくらいですから,ほんと大したことありません.

 なお,ここで東大バドミントン部の名誉のために少し補足をしておくと,関東リーグ3部というのは相当強いです.当時は関東リーグ全体でだいたい6部か7部くらいまであったのですが(今はもっと多いか?),1,2部が6校ずつ,3部が12校,4部以下は24校という感じで百校以上の十何番目ということですから,推薦も何もなくて(東大ですから(^^;)3部というのは今考えても相当なもんだと思います.しかし,当時はオーダーが3複4単だったので,それなりに層が厚い?東大のような大学には有利だったとは思います(当時,1学年3000人以上いてそのほとんどが男子学生).実際,よくS4勝負,D3勝負になって勝ちを拾うことも多かったと思います.今は,2複3単になっているので1人強いのが入ると全く別のチームになってしまい,東大のようなチームには不利になってしまい,何と現在は5部に落ちています(T_T).今は,運動会(東大では体育会と言わずに運動会と言います)に入るのは流行らなくて強くてもサークルに入るような風潮も影響してると思います.

 しかし,先日東大バドミントン部のレギュラーのプレーを久しぶりに見る機会があったのですが,思ったより(^^;みんなちゃんとプレーしていて,実力的には4部にいてもおかしくないと思いました.しかし,一旦落ちると上がるのは大変なようです.上述のように1人強いのが入ってくると全く別のチームになってしまうので,そういうチームが同じリーグに出現してしまうと,優勝するのはなかなか難しいのです.

 話を元に戻します.大学時代はてんで大したことなかったのですが,それから20年近く曲がりなりにもバドミントンを続けてこれたのは自分でも正直驚いています.上述の東大バドミントン部の同期の中でもまだバドミントンを続けているのは私だけだと思います.まあみんな偉くなって(そりゃあ東大卒ですから(^^;)仕事が忙しくてバドミントンなんかやってる暇はないでしょうから(半分くらいは官僚になった),未だにバドミントン続けられるのは偉くなってない私くらいのもん?ということでしょうか?(^^;(まあ私も仕事はめちゃめちゃ忙しいですが,比較的時間は自由になるというのはあります).なんでそんなことになったかはここに少し書いてありますが,やはり松井さんを見たことが大きかったですねー.つくばに来ても時々東京に行って練習に出るつもりだったので,ろくに挨拶もしないでこっちに来ちゃいましたけど,松井さんどうしてるかな?でも,つくばエキスプレスが来れば,ほんとに時々練習に行けると思いますが.

 選手時代てんで大したことなくても20年も続ければ同年代の中では相対的に上の方に来るものです.実際,30のときに今のまま40まで頑張れば全日本に出られると言われたのが何となく目標になっていたと思います.全日本...いい響きですよね(^^;.大学時代には雲の上のとても想像もつかないレベルでした.ですが,実際40になったとき全日本教職員というのに出て何回か勝ってベスト16まで行くことができました.しかし,それ以降は初戦負けが続いています.やはり年齢別とは言っても全日本ですから勝つのは大変です.

 私の目標は全日本教職員でベスト8に残ること(残るとバドミントンマガジンに名前が載ります(^^;),そして,教職員という制限のないいわば無制限の全日本シニアに出て勝つことです.全日本シニアは,いわば全日本総合のシニア版のようなもので,県予選を勝ち抜かないと出られません.そして,驚いたことに日本バドミントン協会のホームページを何となく見ていたら「世界シニア」というのがあるのに気がつきました.全日本に出られるだけで夢のような話ですが,世界大会というと「日本代表」です(^^;.全日本シニアでベスト8に入ると出場資格が与えられるようです.ですが,全日本シニアでベスト8はめちゃめちゃきびしいです(T_T).まあ遠い目標にしときます(^^;.

 まあそんな感じでバドミントンに関しては割と効力感を維持しながら続けて来られたと思います(ということはそれ以外は仕事も含めて厳しかったということですが,それはまた改めて書きたいと思います).そして,バドミントンを続けて来られた大きな理由の1つは皮肉にも「なかなかうまく行かなかった」ということです.まあ,夢は実現してはいけない,ということもありますし,見果てぬ夢こそ夢と言えるのかもしれません.自分は人並みよりはかなり運動ができると思いますが(多分),人並みはずれたというところまではちと自信がないです(^^;.

 バドミントンというのはかなり不思議なスポーツで運動神経(という医学用語はないらしいですが(^^;)抜群なら強いかというとそうでもありません.独特の向き不向きがあるように思います.そして,私はバドミントンに向いているかというとそうは思いません.自分では他のスポーツの方が向いていると正直思います(^^;.でもそれでもバドミントンを続けているのはいろいろ理由があるのですが,それはまた別の機会に書きたいと思います(ここに書きました(^^;).今,筑波大バドミントン部で練習しているのですが,そこの選手というか学生達を見ていても,運動神経抜群なのに準レギュラーに甘んじていたり,ランニングとか私より遅い(^^;のにバドミントンやらせるとセンス抜群でほんとにどうしようもなく強いのとかいてほんと不思議です.

 バドミントンに関しては割と効力感を維持しながら続けてこられた,と書きましたが,全くやめようと思わなかったかというとそうでもありません.1つはスポーツが体に悪いとわかったときでした.これに関しては,「スポーツは体に悪い」でも書いていますが,それを補ってあまりあるスポーツの奥深さに気がついたので続けています.そういう意味では,松井さんを見たことと同じくらい,あるいは,それ以上にバドミントンを続けていこうとの思いを強くしたのは,やはり筑波大におられた阿部先生の影響は大きかったです.

 阿部先生とは幸いというか残念というか退官される最後の1年だけごいっしょすることができて,いろんな話をさせていただきましたし,今でも練習に顔を出されたときいろいろお話をさせていただいています.練習の合間に時々学生を集めていろんな話,それこそ哲学的なことからバドミントンの科学的なことまで話をされるのですが,その全てが目から鱗が落ちるような思いでした.話はかなり難しく,学生達はもちろんノートを取りながら一生懸命きいているのですが,彼らのどの位が阿部先生の真意がわかっているのかと思うと,とても勿体ないような気すらしたものです.

 なおここで,筑波大バドミントン部の名誉のために少し補足をしておくと,筑波大バドミントン部の学生はとても優秀です.一般の学生はもちろんですが,大半を占める体専(体育専門学群)の学生もとてもしっかりしています.推薦で体専に入るのは全国大会で上位入賞が必要なので超難関ですが,一般入試で入る場合も,国立大学ですから当然センター試験を受けなければならず,しかもその合格ラインは非常に高く,難関です.科学的根拠に基づいて非常によく考えられた練習メニューの意義やポイントなどをちゃんと理解するのに優秀な頭脳は不可欠です.実際,いろいろ話をしてもとてもしっかりとした考えをもった学生が多いです.筑波大の体専はスポーツ科学の日本最高の頭脳集団で,日本のスポーツ界の将来を担っていると言っても過言ではありません.そのようなとても優秀な学生をもってしても理解が難しい(と思われる)ほど阿部先生のお話は奥行きがあるということです.

 阿部先生のお話をきいているとそのバドミントンに対する愛情とともに,スポーツは文化だ,ということを身を以て感じることができます.あのようなすばらしい人材を日本のバドミントンを強くするために充分活用できないのはとても残念で勿体ないと思います.私は練習時間がとても限られてしまうので,トレーニング方法をいろいろ工夫してやっていますが,阿部先生がおっしゃったことを考え,自分なりに解釈して(かなり奥深いのでそのままではなく「解釈」が必要ということです)やっているようなものです.

 阿部先生の「バドミントンを愛したがバドミントンから愛されることはなかった」という言葉も衝撃的でした.私は自分の仕事を「愛している」とまで言えるのだろうか?と自問してみましたが,とてもそこまでは言えないということに気がついて愕然としたものです.阿部先生とは,哲学的な話がいろいろできるので話していてもとても楽しかったです.阿部先生のことについてはいろいろ書いておきたいことがあるのですが,またの機会にして,ここでは話を元に戻します.

 バドミントンを年を取っても続けてることに疑問を感じたもう1つの理由はやはり肉体的な衰えです.スポーツはなんだかんだ言っても肉体的に若い方が強いに決まっています.ですが,私自身は大学時代と比べて肉体的に正直そんなに衰えているとは思いません.体重はほとんど変わらないですし,筑波大バドミントン部のトレーニングにも何とかついて行くことができます(でもこの間,久しぶりにいっしょにダッシュやって,レギュラーのメンツ(西浦,宮崎,朝田だったかな?)といっしょにノックに入ったらほんと久しぶりに足が痙攣しちゃいました(^^;).100mとか1500mのタイムも20年前とそんなに変わらないんじゃないかと思います(測ってないのでわからないが(^^;).

 ですが,筑波大バドミントン部の学生と打つとどうしようもないスピードの差は感じざるを得ません.レギュラークラスは言うまでもなく,準レギュラークラスもゲームとなると全く歯が立ちません.でもまあよく考えてみると,それは私が大学時代もそうだったでしょうから自分の中では衰えたということにはならないか?

 にもかかわらず,年を取って肉体的に衰え,と書いたのは,やはり全日本とはいえ「年齢別」という限定つきだから,ということだと思います.全日本シニアのチャンピオンと言っても,その年代の1番ということであって,例えば年齢無制限の全日本総合に比べればその差は歴然です.

 ですが,この点に関してもまあいいやと思えるようになりました.これも自分でそう思えるようになったのではなく,人に言われたからなのですが(^^;,まだ東大にいたころ研究室の学生で京大から大学院で地震研に来た中山君が高校時代の友人の吉野君というのが慶應から東大の大学院に来たんだけど,強い人がいなくて練習相手に困っているというので私に話が来ていっしょに練習することになりました.

 彼はほんとに強くてシングルの試合は大分やりましたけど1ゲーム取ることはできても勝つことは結局一度もできなかったと思います(そういう意味では松井さんと同じですね).でもこんな私でも何とか練習相手にはなったと思います(^^;.というか私にとって彼は最高の練習相手でした.彼は結局修士の2年間で卒業してしまって,いっしょに練習できたのは2年だけでしたが(博士に行くように大分引き留めたのですが(^^;),話していてもおもしろくいろんな意味で影響されました.その中の一番大きなことが次のようなやりとりです.

 私:「全日本出るって言ってもシニアだからねー」.吉野君:「そんなこと言ったらインハイだって高校生だけだし,インカレだってそうでしょ.しかもインハイなんかたった3学年ですよ.シニアなんか上下10年くらいいるんでしょ」.私:「.....」

 まあ当たり前っちゃあ当たり前なのですが(^^;,なんかとても胸のすくような思いがしたのを憶えています.そうなんですよね.スポーツに階級無制限などというのは実際にはほとんどないわけです.格闘技系なんか体重別にすごく細かく分かれていますし,もちろん1番強いのは無差別級の王者でしょうけど,軽量級の世界チャンピオン,金メダリストの価値が重量級より低いかというとそんなことはないわけです.もっと極端な話だと,男女の差というのもあります.もちろん男女無差別でやれば女性が1番になることは非常に難しいでしょうが,女性の1番は,男性の1番と全く同格と言えます.

 吉野君もその後もバドミントンを続けていていろんな大会に出てかなり活躍しているようです.全日本社会人とかでも名前を見たように思います.もう大分前ですけど,筑波大バドミントン部の練習に大学院生大会のつてでやってきて,ばったり会って,久しぶりに会えてうれしかったです.その後,1回来ましたが,その後は来てませんねー(私が会ってないだけ?).やはりつくばは遠いか.つくばエキスプレスが来れば大分来やすくなるとは思うが.その時,吉野君は準レギュラーの朝田君と試合をしてたと思いますが,かなりいい試合をしていたように思います.つーことは吉野君が強くなった?やっぱり私が弱くなった?

 まあ少なくとも年を取って肉体的に衰える?というのが理由でスポーツをやらないとしたら一言「勿体ない」ということだと思います.確かにスポーツは体には悪いですが(^^;,それを補って余りあるものがあると思います.練習やトレーニングを創意工夫してそれをすることによって強くなって,自分の思い描くようなプレーができるようになって,達成感が得られ,結果的に試合に勝てる,というおまけまでついてきます.年齢別のシニアの大会があるというのは,年を取ってもそういう機会を与えてもらっているわけでとても感謝すべきことだと思います.

 シニアというと「お年寄りの集まり?」というイメージがありますが(^^;,全日本ともなればそのレベルの高さは想像を絶します.初めて松井さんを見たときの衝撃は今でも忘れられませんし,私がバドミントンを続けている心の支えにすらなっています.バドミントンだとイメージが掴みにくい方は陸上のマスターの日本記録を見ていただけるとそのレベルの高さに驚かれると思います.40代, 50代男子100mは11秒台(40代は10秒台)ですし,10000m男子も40代,50代は30分を僅かに越えるくらいです.人間の肉体はトレーニングを続ければ驚くほど衰えないものなのです.

 ということで,私も体が動く間は限られた練習,トレーニング時間の中で創意工夫をして「強くなるために」バドミントンを続けていきたいと思っています.実際には,なかなかうまく行かないものですし,「続ける」のがやっとでそんなに練習時間をとれるわけでもありませんが,うまく行かないからこそじゃあどうしようかといろいろ考えたり,工夫したりするわけですし,やめられないということになるわけです.ということで,まだバドミントンをやっています(^^;.

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4/10'05
ジャパンオープン2005

 バドミントンのジャパンオープンをテレビ(NHK教育)でやっていたので見ました.ていうか,油断していて見逃すところでした(^^;.小椋・潮田が3位に入ったんですねー.すごいですねー.ジャパンオープンで日本人が上位に入ったというのはあんまり記憶にないです.佐藤翔治は初戦負けなんですねー.彼は国内では最近ほとんど負けてないと思うんですけど,世界に出るとなかなか勝てませんねー.でも普段いっしょに練習してる筑波大バドミントン部の中からこういう国際試合とかオリンピックとか出てくれたらうれしいでしょーねー.村松惜しかったねー.あと1点?

 さて試合ですが,男子ダブルスはデンマークペアがあっさり勝ちました.あれだけ体が大きくてあれだけバドミントン的に普通?の俊敏な動きをされるときびしいですねー.インドネシアペアはどうしたらいいかわからずミスを連発して自滅したような感じです.女子シングルスは,何とトーナメント6連覇中の謝が,張にストレートでこれも割とあっさり負けました.でも謝は何か最初から体が重そうで,なんかかったるそーにちんたらやってましたねー.

 でもバドミントンのテレビ中継を見ていつも思うんですけど,ジャパンオープンの決勝ですからもしコートサイドにいたらものすごい打球音とスピードと迫力だと思うんですけど,テレビで見てるとそれがほとんど伝わってきません.あれじゃあ,バドミントンをよく知らない人がテレビでバドミントンを見たらバドミントンって大したことないなー,って思ってしまうでしょう.

 なんとかならないもんですかねー.なんでそうなってしまうかというと,1つは上から撮影しているからだと思います.実際,自分の試合で出かけて,待機するときは上の観客席にいるんで,上から見ているとてんで大したスピードに見えません.しかし,フロアに降りると全然スピードが違います.なんとかフロアレベルで中継するようなアングルは考えられないですかねー.

 私が大学に入って,バドミントン部に入ってバドミントンを始めて半年位したときに,授業の体育実技というのでバドミントンを選択したときに,ただクリアを打ってただけなのですが,横で打っていた学生が「怖いよー」と言って逃げていったくらいです(^^;(確か同じクラスの伊藤君だったと思います.この間,駒場時代のS1の同窓会があって行ったのですがほんと20年ぶりに会えてうれしかったです.).バドミントンを始めて半年の大学生でそんな感じですから,世界のトッププレーヤーだと怖くて固まってしまうくらいの迫力だと思います.トッププレーヤーのスマッシュのスピードは時速350kmを越えますから,あらゆるスポーツの中で人間が生身で出せる最高のスピードだと思います.

 もう1つは,これはまあバドミントンに限ったことではないのですが,テレビだとやはり生の迫力はどうしても伝わりません.野球なんかでもそうですね.私は大学,大学院と研究室のチームで草野球をやっていましたが(多いときは年間10試合くらいやっていた),最初は時速100kmくらいの球が全く打てませんでした.半年くらいで草野球レベル(時速120kmくらいまでか)の球は打てるようになりましたが,高校野球経験者の投げる130kmくらいの球は当てるのが精一杯だったと思います.プロ野球選手だと140kmとか150kmとかの球を投げるのですから,打席に立っているだけで怖くて固まってしまうでしょう(^^;.

 私は30年以上ライオンズファンをやっていて,よくスタジアムに見に行きましたが(最近はほとんど行ってませんが(^^;),生で見るとそのスピードと迫力に唖然としたものです.一番驚いたのは,もう大分前になりますが,1988年くらいだったか,ライオンズが阪急(今のオリックス)と熾烈な優勝争いをしていて,建築学会が神戸であったとき,これに勝てばパリーグの優勝という試合が藤井寺であって見に行ったとき(要は学会を1日さぼって見に行った(^^;.でももちろんまだ学生でした.),先発の渡辺久信がブライアントにホームラン打たれて,リリーフで何と東尾が出てきて,その投球練習を見たとき,あまりに速い球を投げるのでびっくりしたことです(^^;.東尾というと球速はせいぜい130kmですけど,内野席から見ていてもあのスピード感です.

 ただバドミントンに関しては,フロアと同じ高さでないとスピード感がないのは上述した通りですが,フロアと同じ高さで何千人という大観衆に観戦させるのは難しいでしょうから,やはり見せるスポーツとしてはきびしい,ということになるかもしれません.むしろ,フロアと同じレベルで中継できるアングルがあればテレビ中継の方が可能性があるような気もします.でも去年のトマス杯・ユーバー杯のビデオを筑波大監督の吹田先生に見せてもらったのですが,その盛り上がりはすごかったです.まああそこまで行けばプレーを観戦というよりはお祭り?でもバドミントンであそこまで盛り上がれるのはインドネシアとマレーシアくらいですかね(^^;.

 私はプレーを見る立場ではなくプレーヤーですから,ジャパンオープンなどの世界トップレベルの試合だとフロアの上の方から見ることになるので,お金を出して見に行こうとは正直思いません.見に行くとしたら,大学の関東リーグ1部の試合ですね.関東リーグ1部なら日本のトップレベルの選手もたくさんいます.これならフロアレベルで見られます.なぜなら筑波大バドミントン部の学生が出ているからです(^^;.でも去年一度見に行きましたが,人ごとじゃないので見ていても正直気が気じゃなかったです(^^;.

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久しぶりの福岡

 先日,福岡県西方沖地震の被害調査で久しぶりに福岡に行きました.でも,まさか地域係数0.8の福岡で大きな地震が起こるとは正直思いませんでしたねー.福岡は私が小中高と過ごしたところで,いわば生まれ育ったところです.正確には生まれてから小学校2年の4月まで福岡県大牟田市,小学校2年から高校を卒業して浪人して(^^;,大学にはいるまでを福岡市城南区(当時はまだ西区と言っていたか)で過ごしました.当時思い返しても地震の記憶はありません.やはり,日本国中いつどこで大地震が起こってもおかしくないと考えるべきということですね.

 父は高校2年の時亡くなりましたし,母も10年以上前にこっちに出てきて実家のようなものはないので福岡に行く機会もほとんどなくなっていて,行くのはほんとに久しぶりでした.地震被害調査なのでさすがにほとんど時間的余裕がなく,昔自分が住んでいたところなどを見に行くことはできませんでしたが,震度計の強震記録を回収するときにたまたま昔住んでいたところ,出身小学校(七隈小学校)の近くを通ることができました.

 ちなみに,地震被害調査はとにかくハードです.日が落ちると調査にならないので,少しでも時間を節約するために夜明けと共に,いや正確には夜明け前に行動を開始します.具体的には夜明け前には宿を出発し,移動してその日の最初の調査地点に夜明けと共に到着するようにするのです.夜は,もう写真が撮れなくなる日没ぎりぎりまで調査し,移動してきてその日のうちにデータを整理し,ホームページにアップロードして調査速報を公開します(こんな感じ).

 新潟県中越地震の時は1時就寝4時起床でした(^^;.でも自分は大丈夫でもいっしょに行く学生が疲れて風呂で寝てた(^^;との指摘があったので(坂上さんありがとうございますm(_ _)m),これからはせめてもう少し普通に?調査しようと反省しています.体力勝負だし車を運転するのでやはり睡眠不足はまずいですよね.

 しかし,昔(と言っても10年前くらいの話か)と比べるとIT技術の進歩には目を見張るものがあります.10年前(1993年釧路沖地震や1995年兵庫県南部地震の頃)は,デジカメなんかまだないので,大事に大事にフィルムの山をかかえて帰って,フィルムを現像に出して,膨大な資料を整理して,報告書を作成して印刷屋に回して来たら郵便で送ってとかいう感じで事後処理に最低1ヶ月はかかったと思います.今ではその日のうちに(といってもめちゃめちゃハードですが(^^;),ウェブ公開できるのですからほんと隔世の感があります.

 さて話を福岡に戻すと,昔懐かしい(はずの)場所を通ったのですが,実はほとんど懐かしさを感じることができませんでした(T_T).なぜかというと,あまりにも変貌していたからです.道幅が狭くて普通の長さのバスが曲がれないので短いちんちくりん(^^;のバスしか走っていなかった七隈四つ角は,道幅もひろーくなってなんと地下鉄の駅が開業していました.七隈小学校も校舎は建て替えられていました.私が住んでいた近くの城南郵便局はそのまま残っていましたが(できたときは郵便番号が814から814-01になるというのでなんか田舎になるようですごく悲しかったです(T_T)),それ以外はどこがどうなってるのかわからないほどでした(夜だったというのもあるでしょうが).片江→七隈→野介→今宿→荒江と戻ってきたのですが,荒江四つ角を通過しても全く気がつきませんでした.たった10年くらいでこんなに変わるもんでしょうか?

 高速道路がばんばんできていて,久留米とか前原まで15分くらいで行けるのにも驚きました.高校時代,糸島とか長住から来てるっていうとすごい遠いとこから来てるんだなー,って思ってましたけど,車で走ってみると全然近くて,福岡って小さな町だったんだなー,って思って少しがっかり?してしまいました.今度行く機会があったら(いつになるかわかりませんが),もっとちゃんとゆっくり見てこようと思います.でもやっぱ何が悲しいって福岡はみんなライオンズファンだったのにみんなホークスファンになっちゃったことですかねー.ちなみに私はまだライオンズファンです.

 ちなみに7年前に建築学会で福岡に行ったときも西新に行って同じような思いをしました.西新は私が中(西南学院中学校),高(修猷館高校)と過ごした町でいわば福岡の西の副都心のようなところです.その時,高校時代のクラブ(ブラスバンド)の友人達にそういう主旨のメールを送ったのを思い出したので,それも以下に付けておきます.タイトルは「1998年日本建築学会大会報告」です(^^;.実は「しばらく」の味がとても心配なのですが(^^;(詳しくはこちら(^^;),当時からその兆候?があったようですね...

 <引用ここから>

 9/11〜13と日本建築学会大会が福岡の九州産業大学でありましたので,久しぶりに福岡に行って来ました(福さん今年は会えんかったね).親はもう東京の方に出てきているので,福岡には実家もなく特に用事がない限り行くこともなくなり,本当に久しぶりでした.

 学会3日目の日曜日に,合間を縫って,しばらくのラーメンを食べに西新の方に出向きました(福岡に行くと必ずしばらくのラーメンは食べに行きます).暑い日でした.何かこの辺も変わったなー,あんまり懐かしい感じもしないなー,と思いながら,街中を歩いていました.すると突然,何やら雄叫びのような,「走るー,走るー,俺達ー」とかわけのわからないことを大勢で叫んでいるのが聞こえてきました.こんな街中まで響くような大声出して何事かと思いました.でも何やら聞き覚えがあるような感じもしました.気になってそっちの方に歩いて行きました.ん?今日何月何日だっけ?もしかしたら...そうです.たまたま修猷館の運動会をやっていたのです.めちゃくちゃ懐かしくなって,見に行ってしまいました.ちょうど応援コンテストをやっていました.考えてみると自分が修猷にいたときから20年位経ったことになります.運動会は20年前と全くといっていいほど変わっておらず,何だか嬉しくなってしまいました.高校の中もぐるっと見てきました.教室のある校舎の取り壊しを行っていましたが,福岡の街の変貌ぶりとは対照的に修猷の中はブラスの部室があったあたりとか,ほとんど変わっていませんでした.

 運動会は20年前と全くといっていいほど変わっていない,と言いましたが,叫び声は20年前よりかなり「高音」になっているように思いました.つまり女の子が増えたんだと思います.何か羨ましいような,ほほえましいようないい感じでした(意味不明?).

 ということで,修猷の運動会を20年ぶりに見れたこと,が今回の日本建築学会大会の一番の収穫?でした.ちなみにしばらくのラーメンは,代替わりして味が薄くなったような感じがしました.

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幸福論?(仮)その1

 雑記帳というコーナー?を設けた目的は,「人生や世の中などいろんなことについて考えること」の中で形にするのが大変だけどを核になるようなテーマを不完全ながらも形にしておくことなので,早速一応幸福論?なるものもぼちぼち書いておこうと思います.その1としたのは日記?としてはとても1回では書ききれないだろうと思うからです.

 「あなたは幸せになりたいですか?」ときかれたら,ほとんどの人が「はい」と答えるでしょう.幸せになりたくない人はほとんどいないと思います.そこで幸せとは何か,幸せになるにはどうしたらいいか,について考えて行こうと思います.ただし,最初にいきなり結論?というわけではないですが,私の今のところの考えは「幸せは目指すに値するものではないし,目指すべきものでもない」です.いやーな予感がする人(^^;,今自分は幸せだと思う人はここで読むのをやめた方がいいかもしれません(^^;.

 まず,幸せの定義としてはまあいろんな意見があるでしょうが,とりあえず「自分が幸せと思ったら幸せ」ということだと思います.つまり,他人が見てどんなに不幸そうでも本人が幸せと思うのなら,幸せということです.逆に,周りから見てどんなに幸せそうでも本人が不幸だといえば不幸です.まあ,これは「幸不幸は他人が決めるもの」という,幸不幸のかなり本質をついた金久保先生の名言もありますが,ここでは一応「幸福になる」=「自分は幸せだと思う」ための方法論が目的なので,とりあえず幸せをこう定義します.

 昔よく言われた言葉に「乞食と坊主は3日やったらやめられない」という言葉がありました(これをもじって「乞食と大学教授は3日やったらやめられない」と言った人もいましたね(^^;.).昨今は不景気とかリストラとかで浮浪者が増えてしまってしゃれになってないようなところもありますが,路上生活をしていても本人がそれで幸せだと思えば本人は幸せなわけです.でも乞食になれば幸せになれるからといって乞食になろうとする人はいないでしょう.

 つまり幸せは人それぞれということです.ですから他人の幸せを欲しがっても全く意味がありません.要は自分にとって幸せとは何か,自分がどうしたいのか,どうありたいのかをしっかり考えることが大事だと思います.ですが,厄介なことにこれがよくわかりません.私も今の自分はどうだったらいいのか,どうなれば幸せなのかがよくわからないのです.

 自分にとって幸せが何かがわかる人,つまり,こうありたい,というような目標のようなものがある人は,(とりあえず今は)問題ないと思います.ですから,そういう人は余計なことを考えず(この文章も読まずに(^^;)こうありたい自分を目指して頑張って生きていけば必ず幸せになれると思います.「(とりあえず今は)」と書きましたが,運が良ければそれで最後まで行けるかもしれません.たとえ今は目標に届かなくても,それに向かって頑張っているという状況だけで実は人は幸せになれます.というか,そういう状況こそが幸せだと私は思います.ですが,間違って(^^;それを実現させたりするとその瞬間は幸せになれますが,その後はむしろ不幸になってしまいます.まあいつまで経っても目標を達成できないのはいくらなんでもしんどいでしょうし,普通はある程度現実的な目標を自分で作り,それを達成するとまた次の目標を立てて,というようにするのでしょうが,だんだんそうは行かなくなってきます.

 私の場合も振り返ってみると一番幸せなのは大学院生時代でした.その時の私の目標は大学の先生になってその道で食べていくことでしたから,大学院生時代は,とにかくいい論文を書くことに必死でした.私の師匠だった,青山先生と小谷先生,特に,青山先生が外の仕事で多忙を極めておられたために,研究室の学生の面倒の多くを見ておられた小谷先生は非常に厳しく,とにかく小谷先生に認めてもらえるような論文を書くのに必死でした.しかも大学院生というのは,普通ならばりばり仕事をしている20代後半になってもまだ学生なわけですし,卒業してもちゃんと就職できるかどうかもわからない非常に不安定なものです.実際,立派な博士論文が書けるかどうかもわからず,書けたとしても大学に職を得るのは至難の業でした.それでも夜遅くまで研究室で仕事して正門が閉まってしまって,そのすぐ横の塀を乗り越えるのですが(^^;,その時何とも言えない幸福感を感じていたのをよく憶えています(変?(^^;).その頃の様子を書いた原稿もここに載せときます.

 結果的に,立派かどうかはともかく(^^;博士論文を何とか書き上げ,大学に職を得ることができたときもとてもうれしかったです.おそらく,私の40数年の人生の中で一番幸せだった瞬間だと思います.D3の11月の終わり頃,地震研の南先生から「境,おめー,まだ就職決まってねーんだってなー.うち来るか?」って電話がかかってきた時はほんとにうれしかったです.その日,八重垣(地震研を根津の方に降りていって不忍通りにあっためし屋かつ飲み屋.残念ながらなくなってしまった)で南先生と飲んだのですが,うれしくて飲み過ぎて不忍通りを汚してしまった(^^;のを憶えています.地震研時代の様子も南先生が亡くなったときの原稿を見つけたので,これもここにこっそり載せときます(^^;.

 しかし「大学に職を得てその道で食べていく」という目標?を達成した後は,なかなか効力感(やる気)というか動機付けが難しく,随分苦しんで来ました.私のホームページを見てくださって,私が仕事や仕事以外にもいろんなことに精力的に取り組んでいてとても楽しく充実した幸せな人生を送っているように思われた方もいらっしゃるとは思うのですが,実際はそういうことでは全然ないです.上の「幸せの定義」によると,周りからどんなに幸せそうに見えても本人が幸せだと思っていないのですから幸せでない,ということになります.

 こういう「幸せでない者」が幸福論を語るのも変な話ですが(^^;,自分なりに考えてきたことをぼちぼち書いていこうと思います.そしていろんなご意見をいただければ幸いです.なんか初回?は思い出話?で終わっちゃいました.でも実はこれも幸せになる方法論の1つで,それは「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」ということです.次回は,それについて書こうと思います.

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私の学生時代の師匠である小谷俊介先生が東大を退官されて千葉大に行かれるということで原稿を書いたのですが,2年経ってもまだ形にならないので,忘れないうちにこっそりここに載せておきます(^^;.


あの頃 −New RC 高強度コンクリート柱の実験−
境 有紀

 小谷先生に高強度コンクリート柱の実験をやるように,そしてそのテーマで博士論文を纏めるように言われたのは,当時建設省総プロのいわゆるNew RCが始まって間もなくの1989年で,私がD1の終わり頃のことでした.New RCは青山先生が委員長で当時非常に注目度も高く,その一端を任せていただけるのは,とても光栄なことでした.

 実験は,曲げせん断試験が,当時浅野キャンパスの総合試験所にあった2000t試験機の内側に鉄骨のフレームを組んで,2000t試験機で軸力をかけつつ,鉛直ジャッキ2本で曲げ戻しをしてスタブの平行を保ちながら水平ジャッキで加力するというもの,中心圧縮試験が同じく2000t試験機の加力ヘッドの四隅にジャッキを4本配し,高強度コンクリートの軸応力度−軸歪度関係の最大耐力以降の下り勾配が取れるように4本のジャッキで2000t試験機のヘッドを支え,コントロールしながら行う,というかなり大がかりなものでした.

 ご存じのように高強度コンクリートは,破壊時にものすごい音をたてて非常に脆性的な壊れ方をするので,特に中心圧縮試験のとき,近所から苦情が来ないかどうかはらはらしながら(当時は東大総長に直接苦情の電話をかける住民の方の「白亜の御殿」が総合試験所のすぐ近くにありました)行ったものです.

 それまで私は主として地震動や応答解析,設計法といった研究テーマに取り組んできていて,自分が主体になって実験をするのはD2にして初めてのことでしたので,たくさんの方々に助けていただきました.青山,小谷両先生を始め,当時助手をしておられた細川先生,田才先生には,加力治具の設計から作成,実験の実施まで,試験体の作成は,型枠とコンクリート打ちを大林組の技研でお願いしたこともあり,武田先生,勝俣さんを始めとする大林組の技研の方々にお世話になりました.大林組の技研の皆さんにはこの実験以外にもいろいろとお世話になり,その後私が大学院を卒業する時に,私がピッチャーをしていた「青研ドリンカーズ」の引退試合までしていただきました.

 当時卒論生だった日比純一君は,実験の共同担当者としていっしょに頑張ってくれました.大林組の技研でのコンクリート打ちの前の日は,実験棟のコンクリートの床の上でいっしょに寝ました.彼はとても有能な学生で,段取りが悪い私を随分助けてくれました.私はこの実験を通して「段取り8分」が身にしみてわかり,その後,様々な状況でそれを教訓として生かすことができるようになったと思います. 卒論生や大学院生の皆さんにもたくさん手伝っていただきました.当時私は本当に「いっぱいいっぱい」で,卒論生や大学院生の皆さんに随分無理を言ってしまったなあ,と反省することしきりでした.実験の方は,こんな感じで皆さんに助けられて何とかやり遂げることができた,というのが正直なところです.

 D2の1年間は,そういう意味でも結構大変な1年間でしたが,この年は,私が子供の頃から(今でも)応援しているライオンズが129試合目(当時は130試合制)で近鉄のブライアントに4連発でホームランを打たれて(正確には128, 129試合目の近鉄とのダブルヘッダーでどちらか勝てば優勝のところ,ブライアントの4連発に沈んだ)優勝を逃した年で,そういう意味でも忘れられない年です.ちなみに当時はライオンズの全盛期で私が大学1年(1982年)からD3(1990年)までの9年間に優勝できなかったのはこの年と私が大学3年(1984年)のときの2回だけです.日本シリーズもほとんど勝っていて,特にジャイアンツには3回やって3回とも勝っています.唯一負けたのが,私が大学4年のとき(1985年)の阪神タイガースです.今年(2003年)は,それ以来阪神タイガースが優勝しそう(まだ「阪神」ファンは「半信」半疑らしい)なので,ちょっと感慨深いものがあります.

 青山先生は私がライオンズファンだというのをご存じで,先生のお宅にお邪魔したときにジャイアンツとの日本シリーズの写真集をくださったりしました.辻がクロマティーの緩慢なプレーをついてシングルヒットで1塁からホームインした様子などが載っていました.ちなみに辻をホームに突っ込ませた当時の3塁コーチがライオンズの現監督伊原です(今でも3塁コーチボックスに立っていますが).伊原は芝浦工大出身です. 話が大分横道にそれてしまいました.すみません.元に戻します.実験の計画,結果の解析,論文の作成などで青山,小谷両先生にいろいろご指導いただきましたが,そのうち特に印象に残っていることをここで紹介させていただきたいと思います. 小谷先生はこの実験に限らず,研究全般に渡ってとにかく厳しかった,という印象があります.卒論の発表練習でいきなり「何が何だかさっぱりわからないよ.」とおっしゃったことは今でも鮮明に憶えています.論文,特に英語のものは先生に見てもらうと真っ赤になって返ってきました.何回も手直しをしてくださり,それを通して論文の書き方を教えてくださいました.私も学生の論文を手直しする立場になると小谷先生に負けないくらい?真っ赤にしようと頑張ったものです.

 しかし小谷先生は,おもしろい結果を出したり,自分でも納得が行く論文が書けたりすると必ず反応がありました.直接言葉をかけてくださったことも何回かありましたが,大抵の場合は,当時助手をしておられた田才先生にそういうことを話されて,田才先生が「境君,この間の論文,小谷先生がおもしろいっておっしゃってたよ.」と教えてくださるという感じでした.私はそれが単純にとても嬉しくて,よしまた頑張ろう,という気になったものでした.今思い返してみると,小谷先生に評価してもらうために頑張った,青山・小谷研の6年間だったような気すらします.そして頑張り甲斐のあるとても幸せな充実した6年間でした.夜遅くまで仕事をしていて,研究室の戸締まりをし,電気を消して,螺旋階段を降り,正門の脇の塀を乗り越えるとき何とも言えない充足感,幸福感を感じていた(変?)のを今でもよく憶えています.

 青山先生に相談に乗っていただいたことで特に印象に残っているのは,D3のもう7月のことでした.上記の曲げせん断試験と中心圧縮試験をD2の間に何とか終え,実験データを解析した結果,曲げせん断実験で柱の軸歪の水平累積変位に対する増加率が急激に上がると同時に水平耐力の低下が起こる限界点があって,それが幾何学的に圧縮コンクリートの応力度−歪度関係を積分した面積が最大となる点と対応することがわかりました.そうすると高強度拘束コンクリートの応力度−歪度関係がわかれば,限界点を求める設計式が作れることになります.高強度拘束コンクリートの応力度−歪度関係は,当時六車先生のモデルなどがありましたが,New RCモデル(いわゆる崎野モデル)は当然まだなく,中子つきや様々な強度の横補強筋に適応できるものはありませんでしたので,自分で実験して作るしかありませんでした.

 でももうD3の7月です.どう考えても時間がありません.当時,建研におられた塩原先生に,New RCの中間報告会がつくばであったときに相談すると「今から実験?それも計画から?いくら何でも無理だからD2の時の実験でまとめることを考えた方がいいよ.」と,私の暴走?を諭すように答えてくださいました.冷静に考えれば塩原先生の判断はとてももっともなものです.そりゃそうだよなー,やっぱやめた方がいいのかなー.

 しかしどうしても諦めきれず,青山先生に時間を作っていただいて,相談してみました.上記の限界点の存在の説明をし,あとは高強度拘束コンクリートの応力度−歪度モデルがあれば設計式が作れる,でもそれには拘束コンクリートの実験をこれからやる必要がある,というような順序で説明したと思います.先生は,うんうん,なるほどなるほど,という感じで聞いていらっしゃいました.そして説明の後,先生が何と言われるかお顔を拝見すると...何の逡巡もなくあっさり「おもしろそうですね.是非やってみてください.」と言われました.ひえー,やっぱこりゃやるしかないか.今にして思えば,誰かに背中を押して欲しかったのだと思います.しかもそれが青山先生ならもうやるしかありません.

 しかしそれから博士論文の提出まで5ヶ月くらいしかありませんでした.大急ぎで試験体を計画し(40体くらいあったと思います),モールドに入れる鋼線とスパイラル加工の発注をし(高強度スパイラルの加工ができるところがなかなか見つからず,細川先生が「境君!やっと見つかったよ.」とおっしゃりながら小走りでソファーのあるところに来られたときのことを今でも思い出します),当時の友沢研の助手をしておられた野口先生にお願いして高強度コンクリートを打ってもらい,フジタの技研の田中さんにお願いして,高強度コンクリートの最大耐力以降の下り勾配も取れる鉄の塊をくり抜いて作った高剛性試験機を使わせていただいて,実験が全て終了した時はもう10月下旬になっていました.もう12月中旬の論文の〆切まで2ヶ月もありませんでした. 今から思えば随分無謀なことをしたものだと思いますが(今でも懲りずに無謀なことを繰り返している気もしますが),確かに大変な思いはしましたが,とても充実した時間を過ごせ,何とか〆切に間に合ったときは大きな達成感と自信を得ることができました.と同時に青山,小谷両先生を始め,たくさんの方々に対する感謝の気持ちでいっぱいになったことは言うまでもありません.

 あれからもう10年以上が経ち,その間,色々思い悩むことも多く,これといったこともできないまま10年余りが過ぎてしまったような気すらします.最近になってようやくほんの少しですが自分のやるべきことが見えてきたこともあり,せめてこれからは青山,小谷両先生に受けたご恩をお返しできるくらいは頑張らなくては,と思っている今日この頃です.

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 これも昔書いた文章ですが,当時を振り返る意味で(何で振り返るかは幸福論参照?)載せておきます.

南先生との思い出
境有紀

 私が南先生に初めてお会いしたのは、私が大学4年生のときですから、もう15年以上前のことになります。卒論生として工学部建築学科の青山・小谷研究室(今の小谷・塩原研究室)にはいり、卒業論文を「地震動の破壊力に関する研究」というテーマで(今またこのテーマに違った角度から取り組んでいるのがちょっと不思議な感じがします)書くことになり、週に1回程度、工学部11号館の青山・小谷研究室から地震研の先生の部屋まで、伺わせていただくことになりました。最初は、私が当時面倒を見てもらっていた修士2年の定本照正さん(現竹中工務店)といっしょに彼の修論に必要な八戸高専の再現地震波作成のために2人で伺っていましたが、再現地震動ができた夏以降は、私1人で行くようになりました。それからは、それこそマンツーマンの個人授業状態で、南先生は「塑性率ってのはなあ...」などとおっしゃりながら、何も知らない、ばかな学生相手にそれこそ手取り足取り教えてくださいました。課題をもらっては1週間でそれをこなし、また新たな課題をもらうということを毎週繰り返し、とても充実した日々を過ごすことができました。

 「個人授業」のあとは、毎回当然のように「じゃあ1杯やるか。」となり、先生の部屋で1,2時間日本酒(当時は高清水でした)を飲んだ後、長田さんや大堀さんを誘って根津の方に繰り出す、というパターンでした。その時は、「境は、かかあはどんなのがいいんだ?」とか「境はカラオケはやるのか?俺はあんなのをやる奴の気が知れねえ!」(当時は先生はまだカラオケを全く嗜んでおられず、というか非常に毛嫌いされていて、5年後私が南研究室に助手として赴任させていただいたときには無類のカラオケ好きになられていたのは、目黒さん(現東大生研)達の献身的な努力の賜?です)といった取り留めのない?話が多かったように思います。私の方はと言えば、根津に行く前に先生の部屋で空きっ腹状態で日本酒を大分飲んでいるので、皆さんと別れてから随分不忍通りを「汚した」ものでした。でも今思えば自分にとって一番幸せな時期だったような気がします。

 私が卒業論文を書いて学部を卒業し、青山・小谷研究室で大学院に進学してから博士課程を修了するまでは、修論の副査になっていただいて説明に行ったり、年2回青山・小谷研究室で行われる閉室パーティー(南先生も青山・小谷研究室の前身の梅村・青山研究室の出身)で先生が来られて、話をしたりする程度でしたが、私がD3の博士論文の提出を1ヶ月後に控えた11月の下旬、まだ就職先が決まってなくて暗澹たる日々を過ごしていたとき、南先生から「境、お前まだ就職決まってねえんだってなー。ちょっと1杯やるか。」と電話がかかってきて、八重垣(残念ながら昨年(2001年)の夏なくなってしまいましたが)で、助手としてうちに来ないか、と言われ、本当に嬉しかったのを覚えています。私は、大学に職を得て、研究者として食べていくのが夢だったので、その日は私にとっても間違いなく人生最高の日となりました。あのような心の底から喜べるような日はもう来ないような気がします。本当に南先生には感謝しています。

 翌年(1991年)の4月から地震研の南研究室の助手として働かせていただくことになり、予想されたとおり?夜は学生の部屋で飲んでは高岡(根津のカラオケのあるスナック)に繰り出す、という日々が待っていました。私にとっても、地震研は同じ東大なのにそれまでいた工学部の青山・小谷研とは、雰囲気やいろんな面で全く異なり、地震研独特の「しきたり」に戸惑いつつも、南先生といっしょに仕事をさせていただきながら、何とか研究者としての職にありつけたことの喜びを噛みしめるような日々を送らせていただいていました。

 しかし、その次の年(1992年)の夏前頃、突然「虎ノ門病院の者ですが、悪性の細胞が見つかったので連絡いただくようにお伝え願えますか?」という電話が先生の部屋にかかってきます。最初は、何が起こったのかわからず、しばし茫然としてしまい、悪性の細胞って癌だよなー、とか、そのまま伝えていいものかどうか、でも先生の部屋に直接かかってきたんだから、本人に伝えるつもりだったんだろうなー、などと考えたりもし、意を決して、伝えると先生はただ「わかった。」とだけお答えになりました。そして夏に手術をされることになりました。

 1度目の手術はうまく行き、「手術して切り出したら癌細胞が小さすぎて見つからねえんだよなー。癌じゃねえと保険が下りねえからこれじゃあ困るんだよなー。」などとおっしゃっていました。それから3年ほどは再発することもなく、お酒も飲まれ、カラオケもリハビリと称して?精力的にこなされていました。さすがに煙草は完全に止められましたが、「煙草を止めるって約束しねえと医者が手術しねえって言うんだもんなー。」とは、いかにも南先生らしいセリフですね。

 しかし、私がバークレーにいた1995年の夏前頃、南先生の肺癌が再発してしまったというFAXが工藤先生からはいります。1995年はご存じのように1月に兵庫県南部地震が起こり、南先生が慕われていた梅村先生が亡くなり、また5月にはサハリンで地震が起こって南先生が無理をされて調査に行かれたときいていたので、お体の心配をしていた矢先のことでした。非常にショックだったのですが、翌年(1996年)帰国したときは思った以上にお元気な様子だったので少し安心したのを覚えています。

 しかし、それ以降は度々入院されるような日々を過ごされることになりました。そして、亡くなられた年(1999年)の春頃にはボンベを手放せなくなってしまわれました。それでも先生は亡くなる直前まで辛そうな顔は全く見せられず、本当にすごい人だと思いました。それだけに亡くなられたときは、突然のように逝ってしまわれ、私の方はといえば、覚悟はしていたつもりでも全く覚悟ができていないのに愕然とさせられ、南先生が亡くなられたショックは計り知れないものでした。

 南先生は、お酒を飲むといろんな話をされましたが、やはり一番多い、というか私の記憶に多く残っているのは、いわゆる「人の道」に関することです。学生が「人の道」をはずれるような自分勝手な行動をとったときなどは、怒りを露わにされて叱りとばすようなことも多々ありましたが、これらは学生に対する愛情、あるいはちゃんとした人間として社会送り出す責任感のようなものに基づかれていたことは言うまでもありません。

 また先生ならではの、半ば逆説的とも取れ、また半ば本質をついている?ような、例えば、「こいつは仕事ができる、って思われたらそいつの人生は終わりだね。」といった、ユニークな発言も数多く私の記憶に残っています。

 また、南先生はよく梅村先生の話をされました。「俺は梅村先生に受けた恩は小谷に返す。」とよくおっしゃっていました。梅村先生は私も何度もいっしょにお酒を飲ませていただいたことがありますが、本当に心の温かい、いわゆる親分肌の先生で、南先生はそのような気質を引き継がれた数少ない先生の1人だと思います。しかし南先生が亡くなってしまわれ、もうそういう時代は終わってしまったのかなあ、という感もします。私個人としても「親分」を突然のように失ってしまい、これからは1人で頑張って行かなくてはいけないなー、と思う半面、もうそういう時代なんだろうなあ、とも思います。

 南先生は、晩年は病気に苦しんでおられたと思うのですが、そういう姿は周りには全く見せられず、それでも人生を楽しんでおられたように思います。それは逆境に打ち勝つという感じではなく、その中で楽しむ、というように見えました。南先生といっしょにお酒を飲んで話していると、よく感じたのは、物事が見えているというか、達観されているようなところがあって、それがそのような一種の精神的強さに結びついていたのでは、と思います。  南先生、どうか安らかにお休みください。私も先生のように、逆境の中でも人生を楽しむことができるように、これから生きていきたいと思っています。

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4/13'05
やる気3要素と無気力(仮)

 やる気3要素とは,1.内的熟達,2.人とのつながり,3.報酬,の3つで,この3つは,1>2>3の順にやる気につながるとされ,3はむしろ逆効果のことがあるので注意が必要です.やる気3要素を考えると,やる気と幸不幸の相関性も何となく見えてきます.

 「人生や世の中などいろんなことについて考えること」は,主として私個人がいろんな人との議論やメールのやりとりなどを通して独自?に考えたことがほとんどですが,この「やる気3要素と無気力」は,

波多野誼余夫, 稲垣佳世子著「無気力の心理学―やりがいの条件」(中公新書)

にほぼ基づいています.ですから「やる気を出したい」人は,是非この本も買って読んでいただければと思います.どんな分野でもそうですが,その道の専門家が考えることは,やはりそうでない「素人」とは全然レベルが違います(^^;. 

 私がこの本を手にとった理由は,とにかく「無気力な自分を何とかしたい」と思ったからです.幸不幸は人それぞれと書きましたが,私にとっての幸福感は,「やる気がある状態」で何か(仕事でも遊びでも何でも)をする,ということと相関がありました.実際,何もする気にならず無気力に過ごしてしまった後は,何とも言えない嫌な気分になるものです.いや私は違う,という人も多いでしょうが,具体的にやる気3要素が何かを知ると,幸福感との相関性がわかっていただけるかもしれません.

 ちなみに方法論的には,やる気にならないときは,とにかく手をつけることだ(側座核が刺激されて徐々にやる気が出てくる)ということはわかっているのですが,どうしようもない無気力状態のときは,とにかく手をつけることすらできません.この辺の方法論的なことは,やる気3要素も含めてまた別途書きたいと思います.

 さて,本題のやる気3要素ですが,詳細は本を読んでいただくとして,ここでは簡単にその「やる気3要素」を私なりの解釈も含めて紹介します.やる気3要素とは,バドミントンなどいろんなところで断片的に既に書いていますが,

1.内的熟達
2.人とのつながり
3.報酬


の3つです.この3つは,1>2>3の順にやる気につながるとされ,3はむしろ逆効果のこともあります.3.報酬が一番なんじゃないの?と考える人も多いかもしれませんが,報酬は3つのうち一番下で,逆効果になることも多いです.つまり,「ご褒美」ばかりを目当てに頑張ろうとしても頑張れない,ということです.心当たりはありませんか(^^;?

1.内的熟達は少し説明が必要かもしれません.これはまあ簡単に言うと,やることそのものにおもしろさを見出す,ということです.どんなつまらなそうな退屈そうな仕事にもそれなりのおもしろさは見いだせるものですし,そういう姿勢が大事ということでしょう.実際,どんな仕事にも必ず奥行きがあり,おもしろさを見いだせるものです.給料が高い(報酬)なんてことより,自分が興味がもてる仕事をしたい,というのもそういうことです.

2.人とのつながりはとても重要です.どんなにつまらない(つまらなそうな)仕事でも誰かといっしょにやれば楽しくなることは大いにあります.実際,ある単純作業を1人ずつ個室でやらせた場合と,3人いっしょに1つのテーブルでやらせた場合は,作業効率が格段に違ったそうです.友達といっしょに勉強すると嫌いな勉強も何とかできた,という経験をおもちの方も多いと思います.「何を仕事にするか,ではなくて,誰と仕事をするかが重要」と言った人もいます.

3.報酬に説明は要らないでしょう.お金とか,出世するとか,ノーベル賞をもらうとか,オリンピックで金メダルを取るとか「ご褒美」は全て報酬です.そして,それはやる気をそぐことが多いので注意が必要です.

 この3つは例えばスポーツ選手で考えるとこうなります.スポーツ選手は報酬(例えば,試合に勝つ,オリンピックで金メダルを取る,プロ野球選手になって大金を稼ぐ)のために練習し,プレーしているとは考えられません.中にはそういう選手もいるかもしれませんが,それでは(やる気3要素的にはやる気が出ないので)一流にはなるのは難しいでしょうし(それでも飛び抜けた才能があればなれる?),ましてや人の心を惹きつけるようなプレーはできないでしょう.どうやったら打てるようになるか,どういうトレーニングをしたら速い球が投げられるようになるかなどを考えて考えて練習するのは,まさに内的熟達です.実際,イチローなどの一流の選手ほどそういう技術的なことを極めていこうとする姿勢がはっきり見て取れます.

 練習はとても辛いですが,1人ではとても耐えられないトレーニングも誰かといっしょに,例えば,部活やサークルの中でやれば何とか乗り越えることができます.練習の後,いっしょにご飯を食べたり飲みに行ったりするのも楽しみです.そして,試合で勝ったときの喜びを分かち合うのは何ものにも代え難い喜びでしょう.プロ選手なら大観衆の前でプレーできる喜びもあります.これらは全て人とのつながりと言えます.

 やる気3要素は,自分自身にあてはめて考えてもまさにそうだったような気がします.大学院時代にあれほどやる気になれたのは,いい論文を書いて何とかこの道で飯が食っていけるように(報酬)ということもあったとは思いますが,先生に認めてもらいたい(人との繋がり),研究という,未知のものを探求していくという今まで経験したことのなかったこと(内的熟達)にのめり込んだからでしょう.

 対照的に,もう10年以上経ちますが運良くこの道で職を得てからは,やる気を維持するのにとても苦しみました.「内的熟達」というのはその道を極める,ということなのですが,興味を維持し続けるのは至難の業であるのは事実です.やる気3要素的には「人とのつながり」で何とかやって来られた,と言えなくもありません.実際,私は研究者ですが,1人で研究室に籠もって研究しているようなことは1つもありません.研究室の学生(私は彼らを学生ではなく,いっしょに頑張って仕事をして行く研究員だと思っています)は言うまでもなく,学外のいろんな人といっしょに仕事をさせてもらっています.仕事も運良く地震防災という社会的な要素が強いものなので,微力かつ僭越ながらも世の中の役に少しはたてるのではないか,というのも心の支えになっています.いまだにバドミントンをやっているのも,バドミントンが強くなりたいという内的熟達やバドミントンを通していろんな人との繋がりができるからで,健康とかただ単に全日本で勝つとかいう「ご褒美」のためではありません.それはピアノでもスキーでもそうです.

 やる気3要素を考えると,やる気と幸不幸の相関性も何となく見えてきます.やる気が出せるようなやりたいことがあれば,それはもうそれだけで幸せなことです.人生やりたいこと探しかもしれません.最愛の人に巡り会えること,心の底から安らげる家族の存在,何でも話せて自分のことをわかってくれる友人,恋人がいること,自分が少しは社会の役に立っていると思えること(人との繋がり)は,何事にも代え難い幸福です.これらに比べれば,大金持ちになる,出世して偉くなる,ノーベル賞をもらう,オリンピックで金メダルを取る(報酬),なんてことは,ほんと色褪せた取るに足らないことに思えてきます.

 ここでまた(^^;ライブドアの堀江氏の登場ですが(というか彼だけでなく楽天の三木谷氏もソフトバンクの孫氏も),彼らも別にお金儲けして大金持ちになりたい,というだけではなく,そんなことより,いろんな人といっしょに手を組んで仕事をして社会を良くしていく(人とのつながり)ということが楽しいのではないのでしょうか?

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4/14'05
人生所詮退屈しのぎ(仮)

 人生所詮退屈しのぎです.このことは哲学の世界では,もはやほとんど議論の余地のない定説です.人間の最大の敵である「退屈」を人類はこれまで主として労働をすることによってしのいできましたが,最近,それがどんどんおかしくなってきてます.しかし,幸不幸は相対的なもので,「人生所詮退屈しのぎ」というある意味人生の最悪の解釈に比べれば,人生も捨てたもんじゃないとも思え,同じ退屈しのぎなら,楽しく気分よく退屈しのぎしていきたいと思えるようにもなってきます.

 幸福論,やる気3要素と雑記帳版とはいえ,とりあえず「形」?にすることができたので(だーっと30分くらいで書いているので,正式版?になるのはまだ先のことですが),勢いに乗って?もう1つの重要なテーマ「人生所詮退屈しのぎ」についても書いておこうと思います.ただし,この「人生所詮退屈しのぎ」はとても誤解を与えやすいので慎重に書く必要があります(が雑記帳なのでとりあえずだーっと書いてみます).

 「人生所詮退屈しのぎ」ときくとまずほとんどに人が「人生はつまらないもの」と思ってしまうようで,何てネガティブな発想だ,とか,人生はすばらしいものだ!とかあからさまに反論してきたり,驚きを隠せないといったことも多いです.しかし,哲学の世界では(残念ながら?)「人生所詮退屈しのぎ」は,もはやほとんど議論の余地のない定説となりつつあります.哲学者の考えることは,やる気3要素と無気力(雑記帳版(^^;)でも書いていますが,その道の専門家が考えていることで,さすがに物事の本質をついていることが多いです(もちろん,専門家が言うことだからといって盲信してはいけないのは言うまでもありません.最終的には自分の頭で考え判断することが何より重要です).

 一般的なところでも,もう大分前になりますが,タモリが司会をするあるテレビ番組で,いろんなことを「哲学する」というのがあったのですが(名前は忘れましたが,確かボキャブラの後継番組だったような気がします),最終回のテーマが人生で,いろんな人がインタビューに答えて人生をどう考えるかについて語っているのですが,結構みんな人生は素晴らしいみたいなしょぼい(^^;こと言っていて,最後に,コメンテーターとして呼ばれていた哲学者(確か,立正大学の先生だった)が「人生所詮退屈しのぎは哲学の世界ではもはや定説です」と,がつーんと(^^;言われていたような記憶があります.確か,セガのCMにも「人生とは退屈なものだ」というショーペンハウエルの言葉を出したものがあったと思うのですが,セガの意図は退屈な人生をテレビゲームで楽しく退屈しのぎしよう,というおちゃらけ?あるいは人生の本質をついた?ものだったのですが,誤解を招きやすく苦情が来たのか,すぐに放映中止になってしまいました.

 「人生所詮退屈しのぎ」は,解説が必要というよりは,文字通り「人生所詮退屈しのぎ」ということです.つまり,人生楽しかろうが苦しかろうが生まれてから死ぬまでの束の間の時間に過ぎず,例えば,駅で電車が来るまでの時間何をして過ごそうか,何をして退屈しのぎをしようかということです.電車が来る時間はだいたい決まっていますが(平均で70〜80年くらい),時刻表通りにならず突然人生が終わることもあります.

 キーワードは「退屈」でしょう.人間の最大の敵は「退屈」です.私は仕事柄,入試の試験監督をよくやらされますが,試験監督は1日中他に何をすることもできないので非常に苦痛です.言うことをきかない社員を仕事のない退屈な職場に異動させて退職に追い込む,というのはよく使われる手です.人間は,何かをして退屈しのぎをしないと生きていけないように遺伝子にプログラムされています.人間の遺伝子は人類を繁栄させるようにプログラムされていて我々はそれに逆らうことはできません.人間は賢いので逆らおうとしますが,逆らおうとすればするほど,つまり,賢ければ賢い人ほど苦しい思いをすることになります.人間は,最大の敵「退屈」を主として労働をすることによって「しのいで」きたこと,それが最近どんどんおかしくなってきていることは,例えば,ライブドアvsフジテレビで述べている通りです.

 日本や世界の世の中のいろんな動きを見ていると,ほんとに本人達が重大と思って必死になって頑張っていること,たとえ,歴史をつくるほどの大偉業,世紀の大発見をしたとしても「所詮退屈しのぎ」という感は拭えません.そして,そういう偉大な業績を残した人ほどそのことに気づいているのではないか,という気がしています.

 私が大学院生時代,当時,研究室の助手をしておられた田才先生(現,横浜国大)とよく青山・小谷研のソファーで夜遅くまで飲んだものですが,その中で印象に残っているものに,人生の話?をしていて,偉大な業績を残したが不遇の人生を送ったと言われているような,例えば,ベートーヴェンの話になったとき,まだまだ未熟だった私は,どんなに偉大な仕事をしたとしてもベートーヴェンのような苦しい不遇な人生は嫌だ,と言ったら,田才先生は,「境君,いやそれは違うよ,不遇の人生を送っていると周りの人は思っていても,あれだけの偉大な仕事をした人には,その人にしかわからない,何とも言えない至福感が必ずあったはずだよ.」と言われてはっとしたことを憶えています.

 話はそれますが,前から思ってるんですけど,世界中の人にアンケートを取ったら一番有名な人はベートーヴェンじゃないかと思うのですがどうでしょうか?少なくとも日本ではそんな気がします.アインシュタインでもなく,キリストでもなく,音楽家で外国人のベートーヴェンが一番有名というのは不思議な感じがします.単に教育の問題でしょうか?それとも「世界共通の言語」と言われる音楽のすごさでしょうか?

 さて,「人生所詮退屈しのぎ」ですが,哲学とは,哲学者にとっては,「仕事」そのもの「人生」そのものですが,我々一般人にとっては,苦しいときの心のよりどころとすればいいのでしょう.ですから,人生は素晴らしい,人生が楽しくてしょうがない人に哲学も宗教も必要ないでしょうし,この文章も読まない方がいいでしょう(^^;.しかし何の悩みもない楽しいだけの人生は正直羨ましいとは思いますが,実はそんな人生を送っている人などいないでしょうし,いたとしたらそれこそ何の深みもないつまらない人生でしょう.

 私は現在の日本社会の閉塞感は,将来に対する漠然とした不安,例えば,年金問題,政治不信,世界情勢の不安定などではなく,「人生所詮退屈しのぎ」に多くの人が気づき始めているのではないかと思っています.最近,自殺者が急増しているのも,もちろんこのご時世で借金で首が回らなくなったりとか,リストラされて生活が苦しいとか,病気の苦痛に耐えられないなどの従来型?のものも多いでしょうが,世の中が便利になって,ただ生きて行くだけならそれほど大変でもなくなってきていろんな余計な?ことを考える時間ができて「人生がつまらない」ということに気づく人が増えてきているような気がします.

 「人生所詮退屈しのぎ」に気づくとどうなるかというと,自分で人生を終わらせるという選択肢もでてきます.ですが,人間なかなか死ねるものではありません.人間死ねないから生きていると言った人もいます.また,死んでしまうと,そこで全てが終わってしまってやり直しがきかないので,少しでも冷静になることができれば,何とか思いとどまることができます.「せっかく」与えられた命が「もったいない」し,周りに迷惑をかけられないということもあるでしょう.人間のプログラム的にも人類の繁栄のためには,自分の命は自分だけのものではないのでプログラムに逆らうことは非常に難しいです.

 死ねないならどうするか,死ねないなら,どうせ生きて行くしかないのなら,退屈しのぎをしていくしかないですよね.そして,同じ退屈しのぎなら楽しい方がいいに決まっています.私が仕事以外のいろんなことをやっているのも「退屈な人生」を少しでも楽しいものにしようと(悪あがき?)しているとも言えます.

 幸不幸は相対的なものなので,「人生所詮退屈しのぎ」というある意味人生の最悪の解釈に比べれば,人生も捨てたもんじゃない,と思えてくるということもあります.私も何度もつまらない人生に嫌気がさして死にたいと思いましたが,何とか思いとどまったのは,どんなにつまらない,苦しい人生も,時間が来れば終わりを迎えるものですし,「人生所詮退屈しのぎ」と考えると不思議と気持ちが楽になり,同じ退屈しのぎなら,楽しく気分よく退屈しのぎしていきたい,と思えるようになったということがあります.そして,実は哲学,この「人生や世の中などいろんなことについて考えること」も究極の退屈しのぎなのです(^^;.

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4/17'05
幸福論?(仮)その2

 その1の続きです.今回は,「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」という話です.相対的とは,単に相対的というだけではなく,厳密にはその「変化率」によります.まあこれも当たり前と言えば当たり前の話なのですが...当たり前と言えば,昨日,「世界一受けたい授業」で養老先生が「バカの壁」の講義をなさっていたので一応見ました(10分くらいなので).が,予想通りどれも当たり前の話ばかりでした(^^;.やはりベストセラーは読むに値しないということですね.もちろん,別に養老先生を批判しているのではなく,「バカの壁」という本が万人にわかりやすく書かれたものなので(読んでないので予想ですが(^^;)内容が浅いものになっている,というだけの話です(最初のパラグラフでいきなり矛盾?が生じましたが,雑記帳なのでとりあえずほっときます(^^;.).

 「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」というよりは,幸せに限らず,世の中に絶対的なものはないということでしょう.これは,「自分が幸せと思ったら幸せ」という幸せの定義?とも関係があります.いくら幸福は人それぞれとは言え,同じ人間なのですから,価値観があまりにも違いすぎるというのも考えにくいことです.痛い,苦しい,凍えるほど寒い,空腹などは誰でも嫌でしょう.周りから見て不幸そうに見えるのに本人が幸せ,あるいは,周りから見て幸せそうに見えるのに本人が不幸だと言い張るとしたら,それは,幸不幸が相対的なものだからだと思います.

 つまり,自分が幸せだと思っている人は何か非常に不幸な状態を想像できていてそれと比較して相対的に幸せなのでしょう.例えば,もう今の日本社会では食べるのに困るということはまずありません.しかし当たり前と思っていることが当たり前でないのは言うまでもありません.実際,世界に目を向ければ毎日食べていくだけで大変というところはいくらでもあります.ですから,そういう不幸な状況を想像できれば,つまり,現在の日本の豊かな?状況のありがたみを実感できれば幸せになれる,ということになります.想像しなくても,テレビのニュースを見ていれば世界各地の不幸な状況はいくらでも目に飛び込んできます.別に日本国外でなくても不幸な事件,事故,状況はいくらでもあります.

 ですが,そういう他人の不幸な状況を見て幸せになれるでしょうか?そんなことで幸せになれるのなら誰でも(厳密には世界で一番不幸な人以外は全員)幸せになれますよね.その昔,朝のワイドショーは不幸な事件,事故のオンパレードで,他人の不幸を見て幸せを感じさせるのが狙いだったと思うのですが,そんなもんで幸せになれるはずもなく,最近はそういうものは少なくなってきました.そんなことで幸せになれない1つの理由は,空間的変化率の問題だと思います.つまり,空間的にあまりに離れていて変化率が小さいために変化が感じられないということです.まあ所詮は他人事ということですね.

 では,空間的に近ければ幸せになれるでしょうか?あまりに近ければ,例えば,身内とか友人では半ば自分のことになるのでもちろんだめですよね.そういう風に考えていくと,空間的距離が非常に限定されてきて,他人の不幸では幸せになれるケースは非常に少ないことがわかります.いやもしかしたら,身内,友人よりやや空間的に離れたところの不幸で幸せになれる人もいるかもしれません.例えば,仲が悪くてこいつさえいなければ,みたいな人間の不幸とか,ご近所のお受験の話とか...でも私自身は幸いそういう人は思い当たりませんし,やはり他人の不幸では幸せになることはできないような気がします.

 ただし,他人の不幸で自分が幸せになることはないですが,自分と同じ不幸な状況の他人がいることで自分の不幸の度合が小さくなることはありました.例えば,自分が受験に失敗したとき(ちなみに私は自慢じゃないですけど,小中高大と,どれ1つ取っても受験にまともに成功したことがありません(T_T).ほんと自慢じゃないですね(^^;.),自分と同じくらいの成績で同じく失敗した人がいたときは,自分だけじゃないんだ,とほんの少しほっとしたような記憶があります.その場合の他人は,やはり赤の他人でもなく,身内や友人でもない微妙な距離の人でしたね.最初は距離が遠くても,同じ不幸を共有することで,距離が近くなって不幸を減らせることもあるでしょう.ですが,それで自分が幸せになる,ということまではなさそうです.

 人類みな兄弟,という,口にするのもかなり恥ずかしい言葉(^^;もありますが,人間の遺伝子は,人類が繁栄するようにプログラムされているので,そういうところ(他人の不幸では幸せになれない)もあるのかもしれませんね.しかし,実際に他人が不幸でなくても,不幸な状況(他人)を「想像」して幸せになることはできるのかもしれません(できる人はできるのかもしれません).例えば,ご飯を食べるときに「神様,今日も無事ご飯が食べられることに感謝します.」と心の底から思えれば,無病息災を心底ありがたいと思えれば幸せになれます.それは,ご飯を食べられない状況や病気や事故に会ったときを想像して,それに比べれば相対的に幸せなので幸せになっているわけです.いかに今の状況が恵まれているか,ありがたみが感じられるか,ということです.

 これはできる人はできるでしょうし,そういう人は幸せになれる人だと思います.しかし,これもなかなか難しいです(少なくとも私には).おそらく想像力が足りないのでしょうが(^^;,一番大きな原因はやはり食べるに困った経験がないからだと思います.私には病気や事故の経験もありません.よく戦争体験者が若者に向かって,「食べるにも困らないでこんな豊かな暮らしをしていていったい何が不満なんだ,戦争中なんか食料もなくて食べるだけで大変だったんだ,贅沢言うんじゃない!」というようなことを言っている光景を目にしますが,そんなこと言われても若者がぴんと来ないのは経験がないのですから仕方のない話です.今のフリーターやニートの問題にしても「人間仕事しなければ食べて行けないものなんだ.だからとにかく仕事をしなさい」と言われても,実際,(そんなに)仕事をしなくても食べて行けるのですから説得力がありません.

 食べるに困る,病気や事故といった極端な場合でなくても,自分より不幸(に見える,あるいは,勝手にそう思いこむ)人と比べて自分が幸せだ,と思うのはとても難しいです.やはり他人の不幸は他人の不幸であって,自分の幸せと比較することはできない,ということでしょうか.つまり,「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」が,「空間的に相対的なもの」であることを利用して幸せになることは難しそうです.次回は,もう1つのキーワード「時間的に相対的なもの」です.

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4/18'05
幸福論?(仮)その3

 その2の続きです.その2では,「幸せは空間的,時間的に相対的なものである」が,「空間的に相対的なもの」であることを利用して幸せになることは難しいという話でした.今回は,もう1つの要素「時間的に相対的なもの」であるということ,それを利用して幸せになる方法について考えてみます.

 「時間的に相対的なもの」であるということを利用して幸せになるとは,どういうことかというと,自分の中で「時間的」に相対的な不幸を想像する,ということです.自分の中のことですから,既に経験していることです.あるいは,想像力があれば未来のことも対象になります.未来で未経験のことでも自分のことなので他人の不幸を想像するよりは想像力は要りません.また,未経験故に薔薇色の未来が想像できれば(夢は実現してしまうと色褪せてしまいますが,実現しなければ薔薇色です(^^;),より幸せになります.

 具体的には,過去の不幸な自分を想像することです.例えば,不幸にも?夢を叶えてしまって不幸になってしまった人は,夢を叶える前の不幸な自分を想像することです.よく「初心忘るるべからず」というのはそういうことです.例をあげると,プロ野球選手が少年野球教室に行って,「プロ野球選手に憧れていた昔の自分を思いだして元気をもらった.」と言ってるのとか,怪我をしてプレーできなくなって,でも何とか復活して「野球をできる喜びを再認識した」とか,そういうことです.私が幸福論?(その1)で昔を振り返ったのはそういうことが理由です.つまり,「大学の先生になってその道で食べていく」という夢を叶える以前のことを思い出して(初心に帰って),幸せになろうとした,ということです.

 これは不幸にして不幸(^^;になったときにも使えます.つまり,幸不幸は相対的なものなので不幸になったときは,例えば,スポーツ選手が怪我をしてプレーができなくなったときは,プレーできるありがたみをわからせてもらえるチャンスだ,と思って必要以上に落ち込まずじっと我慢して例えばリハビリに頑張ることができる,ということです.そして,復活すればほんとにプレーできる喜びを実感できるでしょう.禍福はあざなえる縄のごとし,とか,ピンチはチャンスとかいうのはそういうことです.

 幸い?夢をまだ叶えてない人は,未来の夢を叶えた自分を想像して幸せになって頑張ることができます.ただし,時間の符号が過去とは反対なので想像するのも不幸とは逆の幸せになります.あるいは,時間の符号を現在から過去と同じく,未来から現在にとって,年をとった自分を想像してまだ若い自分は幸せだ,若いうちにできることを存分にやっておこう,とか,最後は死んでしまうという不幸?を想像して,生きているということだけでも幸せだ,と思える人は思えるでしょう.

 しかし,これもやはり「変化率」が問題です.あまり昔のことだと変化率が小さいので現実感が乏しくなってきます.遠い将来の遠い夢ではなかなかモチベーションも上がってきません.実際,私も夢を叶える前の昔の自分を振り返ってみましたが,幸せにはなれませんでした(T_T).ていうか,夢を叶える前の自分の方が幸せだったことを再認識してしまってがっかりしたくらいです(^^;.ただし,昔に戻りたいとは全く思いませんでした.まあ戻ろうと思っても戻れるものでもありませんし,「昔の自分」が自分は幸せだ,と言い張ったとしても,それはあなたの幸せでしょ,ということになるのは,その1で書いたとおりです.そういう意味では昔の自分は他人であり,そうすると,空間的時間的という区別はなくなります.

 昔の自分と今の自分を比べると,もちろん同じ人間なのは否定しようがないのですが,全く違うというか,赤の他人のようにすら思えることはよくあります.小学生くらいまでのあまりにも自分勝手でわがままな自分がもしそこにいたら,昔の父と同じように叱りとばすでしょうし,大学院生くらいまでの私もかなり生意気で正直あまり好きではありません(^^;.今のような人間になったのはいつ頃からでしょうか?(別に今は真っ当な人間になった,自分が好きになったという意味ではもちろんありません(^^;).割と最近,少なくとも10年は経っていないような気がします.そして,これからまたどう変わっていくかもしれません.そういう意味では,やはり昔の自分は他人だという気がするのです(そう思いたい(^^;).よく有名になって(例えば,ノーベル賞もらってとか,ニッポン放送を買収してとか(^^;),昔の小さい頃の逸話がテレビで紹介されているのなんか見ると,ほんと有名にはなりたくないものだと思ってしまいます(^^;(まあそんなのは全くの杞憂でしょうけど(^^;).ていうか世間に面が割れてしまって町中を自由に歩けなくなったら鬱陶しいこと甚だしいです.

 そうすると,自分が自分とは違う他人であるほど時間が経っていると,変化率が小さいのはもちろんのこと,他人であれば時間的というよりは空間的な変化になるので,それで幸せを感じるのはなかなか難しいということになってきます.ということで,次回は,幸せが「時間的に相対的なもの」であるということを利用してもっと「効率的に」幸せになるにはどうしたらいいか?について考えます.

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幸福論?(仮)その4

 その3の続きです.その3では,幸せが「時間的に相対的なもの」であることを利用して幸せになれる(のでは?)という話でした.ですが,あまりに時間が経ってしまっていると,あるいは遠い未来だとなかなか難しい,という話になりました.そこで,具体的にそのことを利用してもっと「効率的に」幸せになる方法について考えてみます.

 幸せが「時間的に相対的なもの」であることを利用して「効率的に」幸せになるには,時間的に「近い」過去の不幸,近い未来の幸せを想像すればいいことに気がつきます.時間的に近ければ,今の自分に限りなく近いので他人(時間的というよりは空間的な概念)とは言えません.しかしそれでも想像するには想像力が要るので(^^;,実際に自分で不幸を作ってしまう,ということがてっとり早いです.ただし,あまりに不幸になると立ち直れなくなってしまうので(^^;,少し不幸になるくらいがいいでしょう.問題は変化率なので不幸の度合が小さくても,分母の時間も小さいので変化率はかなり大きいです.

 そして,同じ不幸になるにしてもただでは起きない,というか,どうせ不幸になるなら不幸になり甲斐のある不幸がいいですよね.それって何でしょうか?いろいろありますよね.例えば,毎日の仕事が辛い人は,それでもう幸せの種をもらったようなものです(そういう意味では,私は自分が興味がもてることを仕事にしてしまったので,仕事がそれほど辛くなく?仕事ではなかなか不幸になれず,従って幸せにもなれません).仕事は食べて生きて行くには必要なものなのでやらざるを得ません(その2と矛盾しますが,雑記帳なのでとりあえずほっときます(^^;).仕事が辛ければ,仕事をしているときは一旦不幸になりますが,仕事を終えた後は,ささやかな幸せがやってくるでしょう.そして,ささやかな幸せこそが幸せではないでしょうか?実際,仕事の後の一杯を楽しみにしている人も多いでしょう(^^;.カントの「純粋な喜びの一つは勤労後の休息である」という有名な言葉もあります.幸せになるために不幸になれてしかも給料までもらえるのですから,言うこと無しです(^^).

 仕事でなくても,例えば,バドミントンが強くなりたければ,ピアノが上手くなりたければ辛い練習をして,一旦不幸になれば,練習を終えた後は幸せになれますし,練習が辛いほどバドミントンも強くなれてピアノも上手くなれて一石二鳥です(^^)(もちろん練習方法が同じならの話です).ですから,やらなければいけないがやりたくないこと,辛いことがあったらどんどんやって不幸になってその後に幸せになりましょう(^^).

 ただし,ここで注意すべきは,一旦不幸になってささやかな幸せを得て,そこで安心していると,幸不幸は相対的なものなので,またすぐに不幸になってしまう,ということです.ですから,またすぐに一旦不幸になる必要があります.また,不幸の後に必ず幸せがやってくる,ということも必要です.従って,規則正しい生活?をする,というのは幸せになれる1つの方法かもしれません.朝9時から夕方5時まできっちり仕事をすれば,その後は,幸せな「休息」が必ず来て,でも次の日はまた仕事なので幸せになるための不幸が必ずやってくる,という仕組みです.これは,人間自由になればなるほど不幸になる,というのも関係していますね.

 ただ,今の世の中,便利になりすぎて,ただ生きて行くだけなら楽に楽に生きていけますので,そういう「幸不幸の変化率」が小さくなってきています.昔に比べればある意味「幸せな状況」で安定してきているとも言えます.ですが,幸不幸は変化率ですので,安定してくれば変化率に乏しく,幸せは実感できません.全く変化がないと,幸せでも不幸でもないかというとそうではなく,自然落下的に不幸になってしまいます.ですから,そういう「幸不幸の変化率」をある程度自分で作って行かなくてはなかなか幸せになれません.厄介な世の中ですねー(^^;.私も幸か不幸か大学の教員という,時間的には比較的自由な職業を選んでしまった(というかそれがこの職業を選んだ大きな理由の1つ)ので,夕方5時に勝手に仕事をやめて帰ってしまうことはもちろんできますが,完全成果主義なので,そんなことをすれば後でひどい目に会う(〆切の嵐に襲われる)ことになります(T_T).

 人間やはり怠け者なので(私は特にそうなので(T_T)),嫌なことや辛い仕事をなかなか買ってまではやらないもんです.なかなか規則正しい生活もできません(T_T).何とか最初の一歩が踏み出せればやる気も出てくるものなのですが...(でもやはりここでもやる気が関係してきたことで,やる気と幸せの関係が見えてきましたね.).というわけで,なかなか幸せにはなれません(T_T).そういう怠け者の人は,ある程度そういう状況を強制的に?作っていくことが必要なのかもしれません.実際,振り返ってみても幸せを感じることができていたのは,こういう余計なこと(^^;を考える暇もないくらい忙しいときでした.

 ですが,幸か不幸か(二重の意味で,ここまで読んでこられた方はおわかりだと思いますが)仕事の方がどんどん忙しくなってきてしまいました(T_T).忙しくなればこういう余計なことを考えずにすめばいいのですが,逆に考えたく(考えずにはおれなく)なってしまっています(それでこの雑記帳というコーナーを作ってしまった(^^;).ですが,仕事だけになってしまうのはやはり嫌なので,今のような状況が続くとどうなるのか?果たしてここまで書いてきたように(一旦)不幸になって幸せになれるのかは,実はまだよくわかりません(^^;(多忙かつ余計なことを考える,というのはおそらく初めて?の経験なので).まあその後の経過?という形でぼちぼち書いていこうと思います.ということで,「幸福論?」はまだまだ続くことになります(^^;.あるいは,もし,この雑記帳が更新されなくなったら,忙しすぎて余計なことを考えずに済んで幸せになった,ということかもしれません(^^;.

 ただ,ここまで読んで来られた方はもうお気づきだと思いますが,「幸不幸は相対的なもの」,つまり,「変化する状況の変化率によって人間が勝手に感じるもの」なので「状況」そのものとは無関係であり,従って,「あるべき状況,こうありたい状況」(例えば,お金持ちになるとか(^^;)を目指すことによって,幸せになれることはあっても,「あるべき状況,こうありたい状況」そのものが幸せだというのは妄想であり,従って,「幸せは目指すものではないし,目指すべきものでもない」というその1の最初に書いたことにようやく辿り着きました(^^;.

 そういう意味では幸せは不幸の種であり,それがわかっていてわざわざ不幸の種を目指す人はいませんよね.実際,そういう「あるべき状況,こうありたい状況」,簡単に言えば「目標」を達成してしまうと,その時は一時的に幸せになりますが,そのまま幸せに浸っているとまもなく不幸になります.そういう風に自然落下的に不幸になってしまうと,自ら,あるいは会社が作った不幸(な状況)ではないために,不幸を解除できず幸せに戻ることができません.しかし,幸不幸のそういう特性を理解して,自ら幸せの種である不幸を作れば,幸せになれることになります.中期的には,ある目標を達成したら次の目標を設定する,というのそういう方法の1つですが,なかなか次々に目標を設定するのも難しいですし,やはり日々の労働がいいのではないかな,と思っています.そして,究極の比較する不幸はやはり「人生所詮退屈しのぎ」でしょう.

 まあ,ごたごた言っても方法論的には,要は幸せになれればいいのですから(^^;,ここまでをとりあえずまとめると,次のようになりますでしょうか.

・幸せになるには一旦不幸になればいい.一旦不幸になればその後幸せになれる
・一旦不幸になるのには,不幸になり甲斐のあること(例えば,生活のために辛い仕事をするとか,強くなるためにきつい練習をするとか)でほんの少し不幸になるのがよい
・そうするためには,そういう状況を強制的に作る,あるいは,一旦不幸になるために行動を起こす.

 こうして見ると幸せはやはり平凡な毎日の日常の中にあるということでしょうか.つまり,毎日,ご飯が食べられて幸せとか,事故にもあわず,大きな病気もせず健康に暮らせて幸せとか,結局そういうことになってくるのかもしれません.もちろん,世紀の大発見をするとか,人類の宝のような芸術作品を生み出すとか,大観衆を魅了できるプレーをするとか,世の中を変えるとかいうような違う次元の幸せもありますが,そういうことができる人は世の中の極々一部なので,一応ここでは対象からはずして考えました.これについては,「観客と選手とどっちになる?」で改めて書きたいと思います.

 ただ残された課題は,最後の「一旦不幸になるために行動を起こす」ための最初の一歩ですね.そうするとやはり「やる気」がキーワードになってきます.従って,方法論的幸福論は,いかに最初の一歩を踏み出すためのやる気を起こすか,という方法論に移っていきます.そこで,流れ的にはとりあえずまずやる気3要素と無気力に飛びます.ここで書いた幸せになる方法は,1つの「効率的」な方法に過ぎないので,それ以外に感じる幸せ,幸せになる方法?もやる気3要素と無気力に書いてあります.

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4/22'05
頑張る

 私は「頑張る」と言う言葉があまり好きではありません.いや,大嫌いと言ってもいいかと思います.いや,正確にはある時期から嫌いになりました.いつ頃かというと,「今の仕事を選んだわけ」に書いていますが,小さい頃からの「大学の先生になって自分が興味を持てることを仕事にして食べていく」という夢?を実現してからでしょうか.それまでは,と言うと,これも「今の仕事を選んだわけ」にも書いていますが,まあ「状況」によっていろいろ波はありましたが,自分なりによく頑張ってきたなあ,と思います(^^;.

 ですが,無事目標を達成し?大学に職を得てからは,しばらくは「何とか研究者としての職にありつけたことの喜びを噛みしめるような日々を送」っていましたが,だんだんやる気というか,効力感を維持するのに苦しむようになりました.もちろん,それ以前もやる気になったりならなかったりという波はかなりありましたし,やる気になったとき,だーーっと仕事してやる気にならないときはやらない(^^;,という感じで何とか乗り切ってきて,そういう風な仕事の仕方ができるというのも大学の教員という職業を選んだ理由の1つでした.大学は昼間の日常業務以外の研究は完全成果主義なので,極端な話,1ヶ月で1年分の仕事をすれば残りの11ヶ月は遊んで暮らせるわけです.まあ,実際にそうする人はいないと思いますが(^^;,1ヶ月で1年分の仕事をするなんてことはしょっちゅうですし,逆に,いい結果が出ず全く進まない状態が延々と続くこともしょっちゅうです(T_T).

 しかし,大学に就職して何年かしたとき,当時つき合っていた人と結婚寸前?(式場のホテルまで予約していた.披露宴の半年前にオークラにキャンセルに行って予約金を返してもらったときの空しさは今でも忘れられません)まで行って,諸般の事情?(要は私がふられた(T_T))で結局結婚できなかった,ということや,私が尊敬していた先生方が停年を迎えられ,次々と辞めて行かれて,「大学の先生でもどんなに能力があっても停年になればクビになるのか...ひょっとしてつまんない職業を選んでしまったのかな...」と感じてしまったことが引き金のようになって,やる気ありとやる気なしの波がずっとやる気なしのままのようになり,そして何事にも無気力になっていきました.1993年頃ですから,今からだいたい12年くらい前ですね.でも,周りから見ているとちゃんとそれなりに?仕事はしているし,バドミントン,ピアノ(はそんなに弾いていなかったか(^^;,でもそれは今もそう?),スキーとかもしていたし,そんなに変わった様子はなかったと思います.でも自分の中では,いったいどうしちゃったんだろう?という思いがずっとありました.そして,そういう状態は「状況」によらずずっと続き,最悪期は脱したとは思うのですが(そうだといいのですが),実はなんと今でも続いています.

 いったい,なんでそんなことになってしまったか,いろいろ考えましたが,1つの理由は幸福論?でも書いていますが,「大学の先生になって自分が興味を持てることを仕事にして食べていく」という夢?を実現してしまって,次の目標?がうまく見つけられなかった,ということでしょう.まあ,普通?なら出世するとか偉くなるとかを目標?にしたり,結婚して子供がいれば子供が一人前になるまでは子供のために(でもこれって実は自分のためなんですけどね(^^;)頑張んなきゃみたいなことを心の支え?にしている人もいるのかもしれません.実際,私の父は,子供(私と妹)が産まれるまでは,大学院の研究室を喧嘩して飛び出して(近代文学をやりたかったが,当時は文学と言えば全て古典だった),定時制高校の先生をしていましたが,妹が産まれたのを期に大学の先生になろうと一念発起した,と言っていました.

 でも,私は出世?とか偉くなるとかそういうことにはそれほど執着はありませんでした.というか,むしろ,そのときの私の上司に当たる先生にそのうち上にあげるというようなことを言われ,逆にそういうことで先が見えてしまったような感じがしてしまった(今考えるとしょぼい話ですが(^^;),といった方がいいかもしれません.その後,結婚はしましたが,子供はいません(結婚や子供のことについても書く必要がありそうです).

 でも研究者なわけですから,そういう世俗的?なことはともかく,自分の専門には興味をもって,その道を極める?みたいなことを目標?みたいにして(やる気3要素の内的熟達ですね),効力感を維持してもよさそうなものですが,それもうまくできませんでした.頑張らなきゃと思えば思うほど頑張れない感じでした.そして,頑張るという言葉を聞いただけで耳を塞ぎたくなるようになりました.

 今でもテレビで流れていますが,エーザイという製薬会社のコマーシャルが「元気出しましょう」みたいなものばっかりで,実際,最後に女の人の優しい(^^;声で「頑張っていきましょう.エーザイ.」(今は,「元気出して行きましょう.エーザイ.」になった.同じことですね(^^;)というフレーズが入るのですが,それが嫌で嫌で仕方なかったです.それは今でもそうで,テレビを見ていてエーザイのコマーシャルが始まると慌ててチャンネルを変えるほどです.頑張りたくても頑張れない人に頑張れというほど酷なことはありません.日本では,試験とか試合とか何かそういうことがあるとよく「頑張って!」と言いますが,それも結構嫌です.同じsituationだと英語なら,「Take it easy!」です.

 ここまで書くと気がついた人もいるかと思いますが,症状的に鬱のような気もして,いろいろ調べたりもしましたが,鬱の大きな特徴である,食欲,睡眠欲がなくなる,といった症状はありませんでした.というか,3度の食事,そして,寝ることだけが楽しみでした(^^;.性欲もありました(^^;.ただ実際,何とも言えない憂鬱な気分になることはしょっちゅうで,こんなにつまらない人生なら生きていても仕方ないと思うことも正直ありました.

 ただ,鬱(鬱病ではなく,憂鬱な気分になること)というのは,非常に厄介なものですが,理にかなっているところもあって,それは,人間頑張りすぎると,それ以上頑張ると体を壊すからそれ以上が頑張らせないように,気分を落ち込ませて鬱にして,体を無理矢理休むようにさせる,という仕組みになっている,ということです.そう考えると,「大学の先生になって自分が興味を持てることを仕事にして食べていく」という夢?を実現する前の自分というのは,そういう夢?に向かって20年以上もの長きに渡って,とても頑張ってきたんだと思います.そして,夢を達成して目標を失うと同時に,それ以上頑張るな,と脳が指令を出した,と考えることもできるわけです.20年頑張ったのだから10年くらいは休まないといけない,ということなのですかね.でもちと長すぎますよね(^^;.そうすると,定年退職まで頑張り続けてその後抜け殻になると,もう立ち直ることはできそうもないですね.実際,高年齢者の自殺者はとても多いとききます.

 そういう風に考えるようになって私がどうするようになったか,いや,どうしようと思うようになったかというと,「頑張り過ぎない」ということです.頑張り過ぎれば,必ずその反動が来て,結局,頑張らない方がよかった,なんてことも大いにあり得ます.今の日本も不景気で元気がなくて,みんなもっと元気出そうよ,とか頑張って景気を回復させよう,とか言うのも別にそんなことやめて,今の状態で幸せになることを考えた方がいいと私は思います.別に景気がいいことが幸せに繋がるとは思えません.失業者が多いのは,不景気のせいというよりは,仕事の再配分の問題です.忙しい人は死ぬほど忙しいです(T_T).ですから,仕事の再配分がちゃんとできるような規制撤廃や構造改革はもちろん必要です.

 ですが,これは私個人の場合ですが(^^;,「頑張り過ぎない」ようにすることは実際にはなかなか難しいです(T_T).仕事はめちゃくちゃ忙しいですし,頑張らないと何ともならないことも正直あります.例えば,大きな被害地震が起こると被害調査に行くのですが,これがかなり大変で(例えば,ここ),以前は,よく被害調査から帰ってくると高熱を発して2,3日寝込む(いや,正確には寝込まないといけないほど高熱を発するが,調査結果の整理をしないといけないので実際には寝込めない(T_T))こともありました.最近は,慣れてきて?そういうことは少なくなった,というよりは,一通り調査結果を整理すると別の仕事が山積で(というのは,地震は突然起こるので,地震が起こると普段の仕事をほっぽりだして調査に行くので,調査から帰ってくるとほっぽりだした仕事が山積状態になっている),寝込むに寝込めない(T_T)ということですね.ここ2年は地震が頻発して,そういうことの繰り返しです.そして,これからしばらくはそういう状態が続きそうです.

 地震被害調査は,地震防災を仕事にしている以上,「現場」そのものなのでやめるわけにはいきません.地震が頻発しているとは言え,やはり「地震は滅多に起きない」ので,被害データは今後の地震防災にとって貴重なデータで,何より,実際に自分の目で確かめて収集することが重要です.実際,出かける前に集めたいろんな情報と,実際に見た被害が全然違うということも多々ありました.ですから,残念ながら「頑張らないように」とは思っていてもやはり頑張らざるを得ないのでしょう.

 私の人生の目標?は「気分よく生きていくこと」です(幸せになることではありません).自分が気分がよくなるには,自分さえよければいいのではなく,むしろ人の役に立つとか,社会に貢献できるとか(ちょっとおこがましいですが),そういうことです.そして,それには「やる気」が不可欠です.ですが,それをコントロールすることは非常に難しく,実際,ここ10年ほどずっとそれに苦しんできました.やる気がないときは頑張らない,というのができれば一番いいと思うのですが,実際にはそうも言ってられません.むしろ,過去の経験から一度気を抜いたり,安心したり,何かを達成したりすると,それをきっかけにおかしくなることもありました.ですから,「やる気のコントロール」に細心の注意を払いながらしばらくは頑張ってみたい(あー,でもこう書くとまだ抵抗あるなー(^^;)と思っています.そして実は,このくそ忙しい(^^;のにこの雑記帳を書いたりしているのも「やる気のコントロール」が目的なのです.

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4/24'05
愛すると愛される

 あなたは「愛したい」ですか?「愛されたい」ですか?まあアンケートをとったわけではありませんが,「愛されたい」と答える人が圧倒的に多いような気がします.私ももちろん嫌われるよりは愛されたいです.ですが,あえて私は「愛したい」と答えたいと思います.それは,「愛される」ことよりも「愛する」ことによって得られることが多いと思うからです

 ちょっと卑近(^^;な例ですが,こんなことがありました.それは大学受験で浪人しているときですが,ずっとA判定と順調に推移していた成績が本番間近の12月頃,確か,河合塾の東大模試だったか,突如,C判定を食らってショックを受け,不安で勉強が手につかなくなったことがありました.もうこれ以上浪人できないし,どうしようと大分思い悩みました.この時期に浪人でC判定は,はっきり言って志望校の変更を検討するほどのことです.そしてそれは,共通1次(今のセンター試験)で9割5分も取ってしまったことで拍車がかかりました.というのは,東大は共通1次を全く重要視しておらず(共通1次は2次試験のわずか1/4)ほとんど2次試験で決まるのに対して,それ以外のほとんどの大学は共通1次を半分以上配点していて,共通1次で9割5分も取れば,2次試験でよほどへまをしない限りはだいたいの大学に合格できたからです.

 そうこうしている時,私と同じ高校(修猷館)の現役の女の子が東大理Iを志望している,ということを知りました.今の仕事を選んだわけでも書いていますが,修猷館の上位はほとんど女性で占められていて,確か彼女はダントツの1番だったと思います.女性だと東大に行ける力があるにも関わらず,親元を離れたがらないせいか(保守的な土地柄ですからねー)ほとんどは九大医学部に行ってしまっていたので(そういう理由で医学部に行くというのも問題ですね),東大の理Iを志望している女性がいるというだけで嬉しかったのを憶えています.どんな人だろう?と思っていたら,確か河合塾のパフレットか何かに顔写真付きで載っているのを偶然発見しました.とても綺麗な人でした(でも今考えるとまだ東大に受かったわけでもないのにパンフレットに載っていたというのも変な話ですね).

 浪人中ですから,浮いたような話はなにもないわけで,女性で成績がダントツの1番で東大理I志望でしかも美人というだけで好きになってしまった(^^;と思います(本人の中身も知らずに好きになってしまうというのは,今では全く考えられませんが,まあまだ子供だったと言うことですね(^^;).もちろんこっちが勝手に好きになっているだけの話であって,彼女はそんなこと知る由もありませんし,私の存在さえ知らないでしょう.ですが,私は「勝手に」彼女のことを好きになることにより,いっしょに東大に入りたい,と勝手に思いこんで,12月の本番間近に成績が急落する,というピンチを乗り越えて,何とか合格することができたのです.こうして考えると今の私(というほど大したもんじゃないが(^^;)があるのも彼女のおかげですね(^^;.まあちょっと卑近な?例ではありますが,そう言えばそんなこともありましたということで...(^^;.人を好きになることで自分が頑張れていいこと?があった例を挙げてみました.

 私は恋愛は基本的に「片思い」だと思っています.ある人を好きになったときの何とも言えない気持ちは何物にも変えがたいものがあります.気持ちが変われば当然行動も変わり,自分自身が大きく変わることもできます.私は結婚しているので当然妻がいますが,彼女のことも基本的には「片思い」です.もちろん,彼女が私のことを好きだと言ってくれるのなら,それはもちろん嬉しいですが,そんなことは二の次,というと大分語弊がありますが(^^;,でもそうなんです.彼女は東京で仕事をしているので,普段はなかなか会うことはできないですが,「片思い」なんですから,私は彼女のことが好き,という気持ちだけで何とかやって行けます.もちろん逆に言えば,夫婦なので彼女が私のことを嫌いになれば,その瞬間に関係は終わってしまいますが,それはそれで仕方のないことです.

 ですから,ある人を好きになったら,それはもうそれだけで素晴らしいことなので,その気持ちを大事にしてもらえたら,と思います.相手も自分のことを好きになってくれて相思相愛になることが恋愛だとは私は思っていません.ですから,失恋しても,たとえ告白できなくてもそれはそれで仕方ないしそれだけで充分ではないですか.実は昨年,研究室の学生ではありませんが,私がよく知るとても優秀な学生が失恋を苦に自ら命を絶ってしまいました.彼とはいろんな話をしましたし,その中でこういう話ができなかったことが悔やまれてなりません.

 「恋愛は片思い」,これは,異性同士だけではなく,同性同士でもあることでしょうし,人と人だけにも限りません.もし,自分の仕事を愛している,と言えるとしたら,それほどのものに出会うことができたのなら,それだけでどれほど素晴らしいことでしょうか.阿部先生(元筑波大バドミントン部監督)の「バドミントンを愛したがバドミントンから愛されることはなかった」という言葉は私にとってまさに衝撃でした.私は自分の仕事を「愛している」とまで言えるのだろうか?と自問してみましたが,とてもそこまでは言えないということに気がついて愕然としたものです.と,同時に阿部先生は確かにバドミントン界の中でいろんな苦労をされてきたと思うのですが,「バドミントンを愛した」と言えるということは,それだけでとても幸せと言えるのではないかと私は思うのです.

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4/26'05
助手

 これは助手のうちに書いておこうと思ったのですが,もう助手じゃなくなったので...(^^;.でも一応書いておこうと思います.助手というのは,大学の助手のことです.助手というと何か文字通り「お手伝いさん?」て感じですが(^^;,国立大学ではちゃんとれっきとした官職かつ公務員です.いや,正確には国立大学は昨年(2004年)から独立行政法人になったので,もう官職,公務員ではないですね.それは,教授も助教授もそうなので,今は教員,ていうのかな?いずれにしても教授−助教授−(講師)−助手という「並び」になっていてちゃんとした教員なのです(講師に括弧がついているのは,多くの大学では,講師はほとんどおらず,実質,教授−助教授−助手という並びになっているからで,対照的に筑波大は助手はほとんどおらず,教授−助教授−講師という並びになっています).まあ,ちゃんと常識のある人はわかっていますが,世間の認知度は悲しいほど低いです(T_T).

 実際,大学の助手になるのはかなり大変で,大学院を博士課程まで行って,博士号をとってもなかなか大学の助手のポストにはありつけることは少なく,しばらくポスドクという研究員をして食いつないで(最近は,ポスドクの研究員も学振などからかなりいい給料をもらってますが),大学の助手がどこか空くのを待つ,というのが現状です.とんねるずのバラエティーに「博士と助手」というのがあるのですが,理系では助手はほとんど博士というのが実体なのです(^^).博士を取って,すぐ助手のポストにありつければ,それはもう超ラッキーです.私は幸いにも博士を取ってすぐ大学の助手になれたのでとてもラッキーでした.幸福論?(その1)でも書いていますが,その時が今までの人生で一番幸福な瞬間でした.なぜなら,「大学の先生になってその道で食べていく」という小さい頃からの夢?を実現した瞬間だったからです(しかし,幸不幸は表裏一体のものなので...これも幸福論?参照(^^;)..

 たかが助手になったくらいで「大学の先生になってその道で食べていくという小さい頃からの夢?を実現した」と言えるのか?とお思いの方もいらっしゃると思いますが,国立大学の助手は,上で書いたようにれっきとした大学の教員であり,国立大学が独法化される以前は公務員だったわけです.ですから,はっきり言ってしまうと一旦助手になってしまえば,一生食いっぱぐれはありません(^^)(最近は任期つきの助手も増えていますが,私の頃は任期なし,即ち,食いっぱぐれなしでした,つまり当時助手になった人は今でもそうだということです).それに,教授,助教授のように講義や大学内外の様々なお仕事も少ないので(私の場合は助手の時からかなり学外の仕事はしていましたが),実は,かなりいいです(^^)(もちろん研究室によっては大変なところもあるでしょうけど).ということで,一生助手で優雅な?人生を送るような人も時々出現してしまいます(ほんと昇進するのが勿体ない?くらいですから(^^;).あえて昇進せずその分ばりばり研究するのならまだいいのですが(宇井純は有名でしたよね),ろくに仕事も研究もしない人も中にはいるのでそれはかなり問題です.独法化される前に助手になった人は公務員扱いなのでクビにはならないのです.

 そんなにいいって言うけど,じゃあ給料はどの位かというと,実は30代は教授(はそんなにいないと思うけど),助教授とほとんど変わりません.ただ40くらいで昇給が頭打ちになるので,そのくらいまでには昇進するケースが多いです.でも40くらいで頭打ちになるといっても給料が下がることはないので(ていうか少しずつは上がっていく),ということは一生助手でも40代の助教授の給料以上の額を定年(今は65)までずっともらえるわけです.

 逆に言うと,40くらいまでに助教授に昇進しても給料は助手とほとんど変わらないわけです.実際,私が助手から助教授になったときも給料はほとんど変わらず,こんだけ仕事が忙しくなって,給料は変わらなくて,まあわかってはいたのですが(^^;,あー,こんなことなら助手の方がよかった?なんてことも冗談にもならない?この間,名大の助手やってた妻の妹が助教授になって異動する,っていうんで,「質問があるんですけど...給料どのくらい上がるんですか?」ときいてきたので,「上がんないよ」って即答したら,やっぱり(^^;って感じでがっかりしてました(^^;.

 しかし,助手は名前があまりにしょぼいので,世間の風当たり?はかなり強いです.実際,私が助手をしていた頃は,「ちゃんと食べて行けてるの?」ってきかれるのはしょっちゅうでしたし,名古屋工大の市之瀬先生が助手時代に銀行で口座を作ろうとしたら窓口のお姉さんに「これってちゃんとした職業なんですかあ?」ってきかれたことは,建築構造界では有名?な話です(^^;.助手を経験された方(まあ大学の研究者をずっとされている方はほとんど経験されていると思いますが)は,こういう「逸話」の1つや2つはみんなもっていると思います.助手から助教授になっていいことって何かなあ?って考えたら,もちろん学生を取れる研究室をもてたことはとてもよかったですが,それ以外は...名前がしょぼいってことによる世間の風当たり?がなくなったことくらいかもしれません(T_T).

 助手から昇進すると助教授になるケースが多いですが,まだ年が若い場合などは一旦講師となる場合もあります.俸給表では,教授−助教授−講師−助手という「並び」になっています.この「講師」というのも助手と同様,ていうか助手より1ランク上のれっきとした大学の教員なのですが,「非常勤講師」を連想させるらしく,「世間一般」では助手ほどではないですが,「食べて行けるんですか?」みたいな風当たりがあるようです.筑波大では(珍しく)教授−助教授−講師というちゃんとした並びが確立されているのですが,その他の多くの大学では少数ですし,「世間一般」に出ればその認知度は実質「非常勤講師」です.ですから名刺に「専任講師」と書いている人も多いですが,「世間一般」には余計意味不明に見えるようです.

 実は,上で助手から助教授になっていいことって名前がしょぼいってことによる風当たりがなくなったことくらい,と書きましたが,実はまだまだ風当たり?があることがわかりました(T_T).というのは,ちゃんと教授になれるの?みたいに去年あたりからみょーに私の昇進を心配してくれる(^^;人が現れ出したからです(もうほんと余計なお世話なんですけど...(^^;).なんか助教授は教授にこき使われて大変と思われているみたいで(まあ,講座制みたいのが残っているところはそういうところもあることはあるのでしょうけど),でも実際には,筑波大は,教授,助教授,講師は完全に独立に研究室をもっていて,全くフリーにやらせてもらっているので,そういうことは全然ないのですが,なんでそういう余計な心配をしてくれる(^^;人がいるのかなー,って思っていたら,原因がわかりました.それは,「白い巨塔」でした(^^;.もう1年くらい前の話なので最近は大丈夫になりましたが,「白い巨塔」で財前五郎が大変な思いをして(金を積んで(^^;)助教授から教授に昇進するのを見て,大学ってそうなんだって世間の人は思うみたいです.もう,フジテレビも余計なものをリバイバルしてくれたものです(^^;.

 でもよく考えると,助教授の「助」って別に教授を助けるわけでもないし,講師,助手も上記のように名前がしょぼくて実体と合っていないので,大学の教員の肩書きってどれもほんとなんとかしてもらいたいもんです(同じようなものに「助役」がありますね).と思っていたら,もう何ヶ月か前ですが,文科省が名前を検討している,というのが新聞に載りました.はっきりは憶えてはいないのですが,助教授が准教授になって,助手が研究員になるとか,なんかそんな感じだったと思いますが(新情報では助手は「助教」になるらしいです.でもやっぱり意味不明(^^;?),なんだかぱっとしませんね(^^;.准教授は海外のAssociate Professorが日本の助教授よりランクが上なんだ,と言わんばかり(^^;の訳としてよく用いられているものですが,「准」なんて漢字これ以外でほとんど見たことないですし(最近,准看護師に使われたくらいですかね),助手が研究員というのもResearch Associateのこと?そういう意味では,日本の助手はれっきとしたpermanentな職業ですが,英訳はResearch Associateで,これは海外ではポスドクのことなので,外国で助手のことを説明するのにも随分骨が折れた記憶があります.

 そもそも肩書きのランク?ってなんなのでしょうか?少なくとも多くの大学の教員はみんな独立した一人前の研究者であり,肩書きのランクはあまり意味がないように思います.学長や研究科長などの組織のトップは必要でしょうが,それ以外は,みんな教授とか研究員(はさすがにまずいか(^^;)とか同じでいいような気がします.そういう意味では,企業や独立行政法人の研究所はみな研究員(主任研究員とか上席研究員とかびみょーに差はついているが(^^;)なのでそっちの方が合理的だと思います.まあ大学は研究だけではなく,教育と研究が両輪なので「研究員」というわけにはいかないでしょうが.

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