8/2'06

 体調の方ですが,O野Wかのアドバイス?に従って,とにかく腹8分目,というか満腹感を感じたら残してそれ以上は食べないようにしています.「出されたものは全部食べる」としつけられた?せいか全部食べないととても罪悪感を感じてしまうんですよねー.でもそうしてからは体調がいいとまでは行きませんが,一時期の食後のどうしようもないだるさはあまり感じなくなってきました.

 超重要な書類がどうしても見つからず(また新潟県中越地方に日帰りですかねー),1日かけて一斉に部屋の書類の整理をしたら(さがしものがあるときは整理するチャンスです)大学から配られた健康なんとか読本?みたいのが出てきたので糖尿病のところをチェック(^^;してみました.


 うーん,当てはまるのは「40歳以上」くらいですかね?あなたの危険度のところを見ると1つなので「生活習慣の改善ができるものは改善を」と書いてありますが,そんなこと言われても,40歳以上なのは改善のしようがありません(^^;.

 あとはストレスでしょうか.ストレスというストレスは特にないと思っていたのですが,最近思い当たる節としては,ほとんどの学生はちゃんとしてるんですが,8人いると1人や2人はちゃんと仕事しないの,というか,それ以前に一人前の人間としてするべきことをちゃんとできないのも出てくるので,その辺がかなりストレスになってるような気がします.ほんと頼むよ.

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8/5'06

 いきなりまた唐突?ですが,このコーナーを読んでいただいてありがとうございますm(_ _)m.このコーナーは,私が思うこと考えることをまあ好き勝手に(^^;書いているのですが,いわゆるブログや日記ではありません.もちろん自分の考えを整理したり後で読み返したりするために書いているということもありますが,「誰かに対して」書いている,話しているという感覚はとても強いです.メールを書いている感じに近いですね.そしてその「誰か」ですが,当然のことながらこのコーナーを読んでくれている(であろう)人達です.ですから「不特定多数」ではありません.

 「このコーナーを読んでくれている(であろう)人達」は,具体的に顔と名前が浮かぶ人も多数います.当然のことながらそのほとんどはいわゆる「話のできる」知人や友人です.会ったときに読んでるよ,と言ってくれる場合もありますし,メールで意見をくれたりする人もいます.

 ですが,ホームページという形でそれこそ全世界(^^;に公開しているわけですから(わざとわかりにくいところに置いてはいますが),中には全く面識はないのにこのコーナーを読んでくれてメールを送ってくれる人も結構います.「話のできる」友人からのメールももちろんとても嬉しいですが,そういう見ず知らずの人からのメールも嬉しいものです.もちろん来たメールには全て返事を書いています.中にはそれをきっかけとしてつき合いやメールのやりとりが始まるような場合もあります.

 メール送って下さる「見ず知らずの人」もこのコーナーを読んでくださってるということは,「人生や世の中などについて考えることがある」ということでしょうから,「話のできる」人が多いように思います.ですから,このコーナーを読んでいただいて何かご意見がありましたら是非遠慮なくメールをお送りいただければと思います.

 実は,このコーナーを作ったとき,「掲示板」を設けるかどうか少し迷いました.掲示板はメールよりも敷居が低いので,いろんな方からの意見がきけるし,アクセス数も全然違ってきます(自分は更新しなくても掲示板は自動的に(^^;更新されるので).でも掲示板の匿名性はかなりためらうものがありました.他のホームページを見ていても掲示板が「荒れる」ことはよくあります.匿名であることをいいことに誹謗中傷のようなこともあります.私も何度かそういう掲示板に投稿したことはあるのですが,私は向こう(管理人)を知っているのに向こうは私のことを知らない,ということが不公平に思えて,でも実名を掲示板に載せることにはやはりためらいがあるので,結局,掲示板のようなものに投稿することはなくなりました.

 ですから,「何かご意見がありましたら是非遠慮なくメールをお送りいただければ幸いです」ということにしたわけです.ということで,何かご意見がありましたら是非遠慮なくメールをお送りいただければ幸いです(^^;.

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 このコーナーに自分の「調子」のことを書くことが時々(しばしば?)あるのですが,ちゃんと調べてはいないのですが,「調子がいい」ということを書くと調子が悪くなり,「調子が悪い」ということを書くと持ち直す,ということがよくあるように思います.7月の下旬からとても体調が悪かった,ということを書いてご心配をおかけしました?が,その後,気をつけているということはありますが,ここんとこ大分持ち直してきました(と書かない方がいいか(^^;?).

 ということは,「調子が悪い」ことだけを書けばいいのか(^^;?というようにも思えますが,まあ要は「調子」なので,よかったり悪かったりを周期的に繰り返しているということなのでしょう.つまり調子が悪いと思ってもしばらくすると回復するわけですし,調子がいいと思ってもそれが永遠に続くはずもないということですね.つまり,そういうものだ,ということを認識して焦らず,その時の調子に合わせてできるだけのことをやっていけばいい,ということなのでしょう.というかそうできればいいんだけど,現実には,調子が悪いときもやらなきゃいけないことはやらなきゃいけないってことですけど(T_T).

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8/6'06
私が好きな曲
(22)メシアンの場合

 なんかぼっとしていて(^^;まだメシアンが残ってましたね.まだいろいろ補遺的なものは残っている(というかそっちの方に私が好きな曲が多い?)のですが,これで一応?古典から近現代までのシリーズ?が完結することになります.最初はどうなることかと思いましたが,何とかメシアンまで辿り着きましたねー.数えることなんと22回です.

 昔よく(今でも時々)いっしょにスキーに行っていたI田さんが,『「私が好きな曲」は私音楽やんないからつまんないよー.このシリーズが終わってからまた読むよ』とか言ってたので,ようやくこれで(一応)終了です.でもこのシリーズは音楽をやっている人というより,そうでない人を対象とした「クラシック音楽入門」のつもりで書いてるんですけどねー.

 さて,私とメシアンの最初の出会いは,高校2年くらい(1978年くらい)のトゥーランガリラ交響曲だったと思います.プレヴィン/ロンドンsoのレコードが発売されて夢中になりました.なんとLP2枚という大曲でピアノが大活躍する曲でもあり,オンド・マルトノというトロンボーンのように音程を連続的に演奏できる一種の電子楽器が使われていて,でもそんなことより,メシアンの現代曲ぽくない,でも現代曲ぽい独特の雰囲気に引き込まれました.今は確かN響アワー(だったかな?)のオープニングで使われていると思います.ていうか,メシアンがN響アワーで使われるというのも20年前から考えると隔世の感がありますねー.

 ただ,当時は,じゃあ他にメシアンのどういう曲があるのかな?ピアノ曲は?というような広がりはなかったと思います.おそらく,音源も譜面がまだなかったということはないと思うのですが,そのような開拓は大学入学後になってからになります.

 ピアノ曲は一通り開拓したと思います.主なピアノ曲は次の通りです.

前奏曲集
ファンテジー・ビュルレスク
ロンド
みどり児イエスに注ぐ20のまなざし
カンテヨジャーヤー
4つのリズムエチュード
鳥のカタログ
ニワムシクイ

 譜面もほとんどもっているのですが,格安でゲットしました.というのは,私が大学に受かって東京に行った最初の夏休みに福岡に帰省したとき,西新パレスのヤマハ(かつて,中学時代にルービンシュタインのショパンなどをこつこつ買っていたとても思い出深いお店です)が店じまいをすることになって,譜面のたたき売りをしていたからです.例えば,こんな↓感じです.


 鳥のカタログは8900円がなんと1000円!です.でも,もとが8900円というのも高いですねー.まあ輸入楽譜,それも近現代ものの場合よくあることですが.もちろんメシアン以外の近現代の楽譜もたたき売り状態でした.例えば,ジョリヴェのソナタは700円(^^;↓.まあ当時,近現代の楽譜を買うような人はほとんどいなかったでしょうからねー.


 代表作は,やはり「みどり児イエスに注ぐ20のまなざし」でしょう.メシアンはキリスト教をテーマとした曲を多く書いていますが,これもその1つです.ものすごい大曲です.私が開拓を始めた頃はイヴォンヌ・ロリオ(メシアンの奥さん)の録音しかなくそれが金科玉条的存在だったのですが,最近では,これを演奏会で全曲取り上げてしかも暗譜で演奏する,なんていう日本人ピアニストも現れていて隔世の感?がありますねー.

 その他でよく演奏されるのは,4つのリズムエチュード,前奏曲集でしょうか.鳥のカタログ,ニワムシクイは,メシアンの傑作の1つとされているのですが,よく考えてみると演奏会でとりあげられる機会はあまりないような気がします.鳥のカタログは,メシアンの音楽活動の中でキリスト教とともに重要な位置を占めた自然描写をテーマとしたものの代表作です.まあ平たく言えば,様々な鳥のさえずりをその情景とともに音楽にしたものです.

 話は脱線しますが,私は年賀状の図柄にいつも干支を使っているのですが,酉年の図柄はニワムシクイとニワムシクイの譜面でした(^^;.ちょっとインテリぽいでしょ(^^;.でもニワムシクイって茶色くてあんまり綺麗な鳥じゃないんんですよー(^^;(それで譜面を入れてごまかした)↓.


 さて私が好きな曲−メシアンの場合 ですが,上記のトゥーランガリラ交響曲と2台のピアノのための「アーメンの幻影」です.アーメンの幻影もタイトルからわかるようにキリスト教をテーマとした曲です.東大ピアノの会時代に確か駒場祭の演奏会で同期の高久先生と1,2曲とフィナーレを弾きました

 メシアンの2台ピアノの曲の多くは,プリモがロリオ,セカンドがメシアンということが想定されていて,セカンドが主旋律,プリモがひたすらそれを盛り立てる超絶技巧,つまりセカンドが「いいとこどり」となっているものが多く,この曲もそうです.それでどっちがどっちを弾くかということになって,よく憶えてないのですが,高久先生がなんか「しでかして(^^;」罰として?プリモになったような記憶があります.演奏が終わった後,Y永さんが「これすごい演奏だよ」と言ってくださってとても嬉しかったのを憶えています(まあ大半は高久先生が頑張ってくれたおかげですが(^^;).

 まあこんなとこですかね.これ以外にも多くの作品がありますが,ピアノ曲以外はまだ未開拓のものが多いです.有名なもので,私が聴いたことがあるものは,世の終わりのための四重奏曲(ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ),峡谷から星たちへ… くらいでしょうか.

 ということで,一応このシリーズ?もめでたく?完結となりました.うーん,でもまだ全然書き切れてない感はありますねー.まあぼちぼち追加的に書いていこうと思います.どういうものを書こうかと思っているかは,この上のページに書いてあります.

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 なんか途中で切れてて見られなかったのですが,去年まで筑波大バドミントン部にいた早坂が第3シングルをとってユニシスが全日本実業団で優勝したところをようやく見られました.今日,プーナに行って,帰りに飲んで,今年の春まで筑波大バドミントン部の練習に出てて,東京で就職してプーナの練習に出てるH間君と話したときも話題になりました.ちなみに今日久しぶりにH間君とシングルをやったのですが,なんか昔と同じような感じ(10点くらいは取れるが勝てる気はあまりしない)でしたねー.でも彼はまだ20代と若いのに結構老獪なプレー(^^;をするのでとてもいい試合相手になります.

 さて早坂のシングルですが,いやー圧勝でしたね.新開はランキングもトップ10に入ってますし,格上だったと思うのですが,終始圧倒していたと思います.チャンスボールが来るまでしっかり丁寧に繋いで,甘くなったところをスマッシュをたたき込むというとてもシンプルなスタイルですが,まるでトマス杯の試合を見ているような正確さとレベルの高さを感じました.こりゃー調子がいいというより一皮剥けたかもしれませんねー.

 早坂の貢献も大きかったと思うのですが,佐藤翔治に勝った,ちまたで「謎の中国人」と言われている(^^;呉雲勇って何者ですかねー.彼のプレースタイルはとても参考になります.もちろんとても真似はできないですが,振りがコンパクトで体つきとか動きが私に似ているような感じがするからです.最近は彼の全日本実業団のシングルの試合のビデオを見てイメージトレーニング?をしています.

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8/8'06

 ここんとこ大分持ち直してきました(と書かない方がいいか(^^;?)と書いたら,予想通り(T_T)?また調子を落としてきました.とにかくだるくてしんどい.おとといプーナの練習に出て飲んで帰ってきたときは,歩いて12, 3分なのにつくばセンターからタクシーに乗ろうかと思ったほどです.今日,テレビで慢性疲労症候群というのを取り上げていました.なんかいろいろあるんですねー.この手の奴?は,どれも当てはまってるような気すらします.

 でも今週末は京都で全日本教職員だし(団体戦はもう明日から始まる.今年は論文〆切があるので顔を出すのを断念した),それまでに地震工学シンポの論文を5編出さなきゃ(出させなきゃ)いけないし,なかなかしんどいところです.全日本教職員終わったらちょっと休もうかとも思うのですが,休むと言ったってどうやって休んだらいいのかわかんないんですよねー.家でごろごろしていても却って調子崩すだけだし,旅行は好きじゃないし,行っても逆に疲れるし.友人と会って飲んで話とかするととても楽しいんですけど,最近はなんか飲むとおとといみたいにとても疲れるんですよねー(T_T).

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8/12'06
2006年全日本教職員バドミントン大会(於京都)

 シリーズ化した?ような気もするので書かなきゃいけませんかね.でも今回は予想通り?この大会に参加するようになって最低の出来と手応えに終わりました(T_T).なんか毎年「最低」を更新していて,正直,書きたくないんですけど,悪いことを書くといいことがある?ような気もするので一応書いておきますか.

 まずトーナメント表が送られてきた時点で,第一シード下に入ってしまって去年同様事実上「終わって」しまいました(T_T).去年は一度勝ち上がると第一シードだったのですが,今回はいわゆる「ぶら下がり」です.えー,なんでまた?と思ったのですが,よく考えてみるとここ数年全く勝てていないので仕方ないと言えば仕方ありません.でも去年は一度勝てば第一シードと試合ができることがちょっと楽しみではあったのですが,今年は全然そんな気にはなりませんでしたねー.

 ここんとこ,このコーナーに書いているように,まあとにかく体調が悪くてバドミントンどころではない,というのが正直なところです.しかし,このままではほんとじり貧なので,とにかく1回勝って(ベスト8が目標なのに随分落ちぶれたものです)シード下に入れられる状況を脱することを最低限の目標としてとりあえず行くことにしました.

 相手は,偶然にも私が普段いっしょに練習してる和所さんが去年何とか勝った人でした.私はまだ和所さんには負けたことはないので(際どいことは多々ありましたが(^^;ていうかそのうち負けると思いますが),まあ普通にやれば勝てる相手でした.でも去年和所さんも苦戦してましたし,簡単に勝てるとはもちろん思っていませんでした.

 ただ,体調が悪くて調整は全くできませんでした.地震工学シンポの〆切があったので(全部で5編),結局前日の夜遅く京都入りとなりました.ホテルは木内先生が取ってくださったのですが,初日から行けなくなって前日夜遅く京都入りするということで,京都駅から近いところがいいということと,金曜日の泊まりが取れていなかったこと,そして,宿がT横インだったこともあり,木内先生に連絡して宿をキャンセルさせてもらって別にとったので,結局,今回は茨城県のメンバーとは顔を合わせることもできませんでした.

 試合の場所は,西山公園体育館というところで,阪急の長岡天神の駅から歩いて20分ということでしたので,地図好きの私は例によって,地図を片手に歩いていきます.途中こっちに行けば「西乙訓高校」という看板があって,あれ?これって柴村の出身校じゃなかったっけ?とか思いながら歩いていきましたが,うーん,失敗でしたかね.というのは,この日の京都は最高気温37度!という猛暑で,まあ歩くこと自体はちょっとしたアップにもなるのですが,とにかく首筋が痛いくらい直射日光が強くて体力を少し消耗したかもしれません.

 到着すると一般男子は会場が別なので茨城県は私だけだと思って1人寂しくぽつんとアップしていたら,筑波大OGの磯下(OGですからもちろん由貴子の方です)と千葉大の谷藤先生(彼女も筑波大OG,そして元インカレチャンピオン)が来てくれました.女子は会場が同じなのでした.しばらく話をしていたらすぐ試合になりました.メインのコートは空調が入っていたのですが,サブアリーナはかなり暑かったです.でも昔は同年代とのシングルなら暑いのは大歓迎だったのですが,最近は...

 試合の方は,1ヶ月前のつくば市のシングルと全く同じ状況でした.最初はまあ普通に動けるのですが,5点くらいでもう息が上がってしまいます.つくば市のシングルは自分より一回りも二回りも若い選手が相手なのですが,今回は同年代です.1ゲーム目は10点くらいで落として,2ゲーム目もあっと言う間に引き離されます.はっと我に返り,1回だけは何としても勝たないといけないと思って,それこそ死ぬような思いで必死で追い上げて12-12まで頑張りましたが,結局2ゲーム目も13点で落としてしまいました.試合が終わった後は,負けたショックもありますが,とにかく息が上がった状態で,しばらく全く動くことも顔を上げることもできませんでした.やっぱり何かおかしい...

 試合後,東京の逆井さんや静岡の松田さんに,どうでした?ときかれて,もうバドミントンやめますとか,もう引退します,とか言ってしまいました.そのくらいショックでしたねー.去年やおととしやその前は何やかんやと「言い訳」をしていましたが,今年は全く言い訳する余地がないです.

 その後の経過を知りたいとも思わなかった(もうバドミントンをやめるつもりでしたので)のですが,あまりに早く負けたので帰ってもホテルの部屋にも入れてもらえないし,磯下の試合があったので谷藤先生と彼女の応援をしていました(もちろん他の試合も見ながら).磯下は卒業したばかりで今回が初参加で,シード下に入れられていたので,初戦が1つの難関でした.私も初参加のときはシード下に入れられて,でもそこを何とか勝ち上がり,ベスト16まで行きました(が,その後所属が変わったので徒労に終わりました(T_T)

 彼女はそこをファイナルで何とか突破したのでベスト4までは行ってくれるだろうと思っていましたが,何と決勝まで行きました.つまり,「総合」の出場権を得たことになります.おめでとう!インカレだとベスト8に入らないといけないので,教職員は一番「広き門」とは言われているのですが,でもすごいことです.なんと脇田や村松や柴村より先に「総合」の出場権を得たことになります.

 彼女のバドミントンは,その無尽蔵の文字通りワールドクラス!の体力を活かしてとにかくしっかりつなぐというもので,実は私が密かに?目標としているプレーヤーです(脇田のプレーは真似しようと思ってもできないので(^^;).でも今回見た感じだと前より強くなっていて,ますます差がついたような気がします.練習してますからねー.この間も,私の出身高校の学生達が私の研究室に来てくれるということで朝10時前に第三学群のバス停まで迎えに行ったら,「おはようございます!」という声がして振り返ったらループ走ってましたからねー.

 決勝の相手は予想通り松尾さん(元インカレチャンピオン)でしたが(途中堀さんとファイナルセッティングまで行くというものすごい試合があったそうですが.堀さんって何者だ?と思って谷藤先生にきいたら筑波大OGだそうです(^^;),あのクラスだと厳しかったですねー.松尾さんも注目してる選手の1人で,実物を見たのは初めてですが,ほんとにぱっと見は小さくてきゃしゃでかわいらしい女の子という感じなのですが,すっと止まってぱっと動くとき(なんか表現が長嶋っぽい(^^;?)のスピードがすごいですねー.あれだと必死でつないでいるだけだと,どんどん動きが遅れてきて最後にはやられてしまいます.

 試合の後,谷藤先生が磯下にいろいろアドバイスをしていて,そういうこと,つまり,1つの動きの中でのスピードの変化というようなことを言っておられたと思います.もちろん磯下もただつないでいるだけではなく,いろいろ考えてプレーしているのですが,結局,相手にショットを読ませないためにはしっかり一度溜めて振り始めて振り終わるまでの時間が短いこと(ばっと(^^;振ること),その動き方にヴァリエーションがあるということですから,そういう点で松尾さんと磯下を比較すると大分差があるように思いました.でも逆に言うとそういう中で健闘したと思います.

 さて,私自身のことですが,どうしましょうかね?ほんと試合が終わった後は,もうバドミントンをやめようとも思ったのですが,磯下の試合を見ていたら,彼女が懸命にプレーしているのを見ていたら,なんかそんなこと忘れちゃいました(^^;.つまり,何というか彼女に「助けられた」ような気がします(バドミントンをやめない方がいいのなら,の話ですが(^^;).

 ただ,今のままではとにかくだめです.私なりにいろいろ考えて2年くらいで練習法を変えたりしています.つくばに来て2年間は,週2,3回ですが,筑波大バドミントン部の練習に出て学生と同じメニューに必死でついていきました.でも効果は結果を見る限り出ませんでした.筑波大バドミントン部の練習メニュー自体はとてもよく考えられていてとても練習になるのですが,やはり40過ぎともなるとただきつい練習をすればいい,というものではないのかもしれません.事実,その間怪我することも多かったと思います.

 それで,その後,和所さんにシングルの練習やりませんか?と声をかけてもらったこともあって,彼とシングル中心(のみ?)の練習をするようになりました.週1,2回くらいですがメニューは一応私が考えていて,自分ではいい練習ができてると思っているのですが,これもまだ1年ちょっとくらいですが,結果を見る限りなかなか効果が出ていません.まあ,バドミントンの場合,1年やそこらでは結果は出てこないので後1年くらいは続けてみる必要はあります.でも最近は体調のせいかそんなにきつい練習はできてなかったような気がします.

 ただ,練習量的には週2ではやっぱり厳しいでしょうねー.私の試合が終わった後,静岡の松田さんと話していたのですが,「週2ではちょっと厳しいですねー」と言われちゃいました(T_T).確かに私が16に入った4年前と比べると40代は明らかにレベルが上がってるような気がします.第一シードの江藤さんも今回は途中で負けてしまいました.決勝の田中さんと斉藤さんの試合を見ましたが,田中さんのあの軽快な動き,それを1ゲームの中で,いや,トーナメントの勝ち上がりを通してキープできるそれこそ無尽蔵の体力はものすごいです.そんな体力は相当の練習量がなければ絶対につきません.

 でも私の場合,今以上の練習量はやはりちょっと厳しいですかねー.練習方法の模索はとにかくずっと続けていきたいと思います.でも5点を過ぎると息が上がるのは練習不足なのでしょうか?最近このコーナーで書いているように,もっと根本的なところがおかしいような気がします.とにかくこのどうしようもない体調不良をなんとかすることからでしょうね.

 でもほんと京都までいったい何しにいったんだ?という気もしないでもないですが(でも本場の博多ラーメン(みよし)はしっかり食べてきました(^^)),結果はともかくこのままではだめだ,何とかしようという気になるわけですから,そういう意味では行ってよかったと思います.

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 このコーナーの幸福論の中で,幸せの定義は「自分が幸せだと思うこと」である,そして,私は「自分が幸せとは思っていない」,だから,「私は幸せではない」,でも私は幸せになることは諦めた,なぜなら「幸せは目指すに値するものではないし,目指すべきものでもない」とずっと書いてきました.ですが,ちょっと考えが変わってきました.

 私は幸せですよ.どう考えても(と,とにかく言い切る(^^;).だって,大学の先生(研究者)になって自分のやりたいことを仕事とするという小さい頃からの夢は叶えられたし,そのために第一志望の大学には受かったし,それは,両親,家族や家庭環境に恵まれたからだし,研究室に入ってから,そして,就職してからも素晴らしい先生方に出会い,自分が取り組んで行くべき研究テーマにも巡り会えたし,公募に受かって筑波大に来ることができたし,自分のやっていることが専門内外で注目されるようになったし,何より自分がやりたいことを紆余曲折の末見つけられたし,仕事や仕事以外のいろんなことを通して,いやそれ以外でもいろんな話のできる友人達に出会えたし,自分が好きになった人と結婚できたし,このコーナーで好き勝手なことを書いて読んで下さる方がいらっしゃるわけだし,ピアノやバドミントンやスキーなど仕事以外のことも続けられているし,なんか幸せなことだけを無理矢理並べてる気もしますが(^^;,そんなことよりも何よりも日本という(今のところは)平和な国に産まれて,健康で(最近ちょっとこれが怪しいが)食べて行ける仕事があって,毎日おいしいご飯が食べられてゆっくり寝るところがあるだけでも充分幸せなわけです.

 ですから,私は幸せです.でも何というか,幸せであることには違いないのですが,「だから何なの?」とは思います.幸せだからって感謝こそすれ別に運がいいだけで自慢できることは何もないですし,なにがどうということもありませんよね.つまり,「幸せとは満足することなので基本的に何も産み出さない」ことには違いないわけです.でも満足すること,感謝することは必要です.でも満足してそれ以上何もしなかったら何も産まれないし,自然落下的に不幸になるのは幸福論で書いているとおりです.でも「私は幸せだ」というところが原点で,そこから始めてみようかな,と思うようになりました.

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8/13'06

 サッカーの日本代表ですが,今のところ私の提案?通り(^^;ほぼ総とっかえ状態ですね.まあ前回のメンバーはチャンスをもらって結果を出せなかったのですから「クビ」になっても仕方ないんですが,どう思います?厳しい世界ですよねー.

 日本がブラジルに惨敗した後,どういう雰囲気になるのか観察していたのですが,もちろん応援していたサポーターはがっかりしていたのですが,割と早い段階で「次,次!次の南アフリカだ!」という感じになりました.いつまでも落ち込んでいても仕方ないし,まあいいことだと思うのですが,私は「そっか,「こっち」には次があるのか」と思いました.逆に言えば「向こう」には次がないのです.こっちとか向こうというのは,もちろん向こうとこっちのことです.やっぱ「こっち」にいた方が気楽でいいんですかねー.

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クラシック音楽入門?
チャイコフスキー

 クラシック音楽入門の私が好きな曲が一通り終わったのですが,まだまだ全然書き切れていないのは,最終回のメシアンで述べたとおりです.それで,これから新シリーズ?として時々思いついたときに「私が好きな曲」に拘らず,それこそてきとーに(^^;紹介していこうと思います.

 「クラシック音楽を聴きたいのですが,何から聴いたらいいですか?」ということをきかれると,まあポピュラーなものから,というのは1つの答えだと思うのですが(ポピュラーなショパンのピアノ曲は,そういう観点から書きました),私はだいたいチャイコフスキーの交響曲を勧めています.全部で6曲あるのですが,有名なうしろ3つ(4,5,6番)です.6番は「悲愴」というタイトルがついています.

 その理由は,一言で言えば,わかりやすくて派手で格好いい(^^;ということです.私も高校時代,マーラー,ブルックナーなどの交響曲を聴いていた時期があったのですが,きっかけはチャイコフスキーの交響曲でした.大編成のフルオーケストラの演奏はほんとすごいですよ.当時,福岡にショルティ/シカゴso.が来たので,クラブ(ブラスバンド)で大挙して聴きに行って,上野さんに「じゃあ行くよ!」と先導されて?ショルティの楽屋まで押しかけてサインや記念のバッジをもらったのを憶えています.演奏はもちろん生が一番ですが,オーディオに凝って自分の部屋に臨場感溢れる音場を作るのも1つの楽しみでしょう.

 当時私が聴いていたのは,4番がムラヴィンスキー/レニングラードpo.,5番がカラヤン/ベルリンpo.,6番がショルティ/シカゴso.のLPでした.カラヤンの5番はエンジェル盤とグラモフォン盤(だったかな?)の2種類があって,エンジェル盤の方が派手で格好いいとか本田さんと話していたような記憶があります.特にあのティンパニーが...1〜3番も一応聴いたと思いますが,4〜6番ほどの格好良さ(^^;や派手さはなかったと思います.交響曲はもう1つマンフレッド交響曲というのもあります.

 派手で格好いい(^^;ということに関しては,やはりピアノ協奏曲1番でしょう.これは第1楽章の出だしがめちゃめちゃポピュラーなので聴いたことがない人はいないでしょう(音源).ピアノの超絶技巧もかなり楽しめます.私はリヒテル(pf.),カラヤン/ベルリンpo.のLPをもっています.当時カラヤンは鉄のカーテンの向こうから大ピアニストが出現するとこの曲をやる,ということが定例行事?のようになっていました.ヴァイオリン協奏曲も有名ですね.ベートーヴェン,メンデルスゾーンのものとともに三大ヴァイオリン協奏曲に数えられることが多いようです.

 あとポピュラーなのは,三大バレエ(白鳥の湖,くるみ割り人形,眠れる森の美女)ですかね.でも眠れる森の美女ってあんまり聴かない気がします(^^;.バレエ音楽全体だと長いので組曲があったと思います.あとは,序曲1812年,スラブ行進曲くらいでしょうか.

 ピアノ曲は,一応数はあるのですが,これと言ったものはありません(と言ったら怒られるか(^^;).私がチャイコフスキーのピアノ曲を練習することがあるとすれば,フェインベルクが交響曲6番「悲愴」の第3楽章のスケルツォをピアノに編曲したものでしょう.この楽章は結構好きです.そして,何よりも編曲が秀逸です.ほんとに必要最小限の音で最大限の効果をあげています.こういうのを「編曲」って言うんですよねー.このレベルの春祭のピアノソロへの編曲を誰かしてくれませんかねー.あと,ショスタコーヴィッチの交響曲第10番のスケルツォも.

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8/14'06

 日本ランキングサーキットですが,組み合わせが確定したようですね.うーん,早坂は初戦でいきなり佐伯かー.ほんと一皮剥けたという感じで結構行けるんじゃないかと思ってたのですが,ここが一番の山になりそうですね.脇田はいいとこ入ったんじゃないですかね.相当行ける,いや,廣瀬,米倉は出てないし優勝だってあるんじゃないですかね(最近プレーを見てないので調子がわからないが).まあ,ここに照準を合わせてるわけではないと思いますが,総合の組み合わせを考えるとポイントは稼いでおいた方がいいですよね.村松と柴村は一度勝つと当たってしまいますね.とにかくみんな頑張って欲しいです.休みとってるし(先週,全日本教職員で夏季特別休暇というのを金,月,火ととってる)こっそり(^^;見に行こうかな.

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8/15'06

 夏季特別休暇(^^;を利用して日本ランキングサーキットを見に青葉台の日体大まで行ってきました.夜中過ぎ3時に寝て,6時に起きるのはまあ無理だろうなと思っていたのですが,あっさり目覚ましが鳴る1分前に目が覚めました.行こうと思っていると目が覚めるもんです.でも,TX→千代田線→田園都市線→路線バスで片道2時間はやっぱり結構遠かった.ただ青葉台の駅から日体大へのバスはばんばん走っていて結構便利でした.筑波大のバスもあのくらいの頻度で運行して欲しいものです.青葉台駅周辺って洗練された?田園都市線沿線の割にはごちゃとちゃした感じのところでしたねー.

 日本ランキングサーキットというのは,バドミントンのシングル,ダブルのランキングの上位32位までで行われるトーナメントで,ということは,メンツ的には「総合」並で,ランキングのポイントにも加算される重要な大会なのですが,現地に着くまではほんとにここで試合あるの?という雰囲気で,実際いるのはほとんど関係者という感じでした(^^;.総合同様,日本のトップレベルの選手がほぼ全員集合する大会なのに勿体ないですねー.入場料も只だし(^^;.例年だと4月くらいに行われるのですが,今年は,トマス杯・ユーバー杯があったのでこの時期となったらしいです.

 実は単なる観客としてこっそり(^^;行くつもりでしたが,トイレから出たらあっさり村松に見つかり?ました.ていうか,まあ普通の体育館なので見つからずにこっそり見るのは不可能でしたね(^^;.おかげで,そこら辺にテレビでしか見たことがない日本のトッププレーヤーがうろうろしているわけです.会場はとにかく暑いの一言でした.

 先日,磯下由貴子が全日本教職員で準優勝して,脇田,村松,柴村より先に総合の出場権を得た,とかメールしたら,村松に「私が先ですよ」と怒られました(^^;.彼女は去年総合でベスト8に入っているのでその時点で出場権を得ていたのでしたm(_ _)m.

 朝一いきなり8面でいっせいに男子シングルが始まります.私は早坂vs佐伯(浩一)を見ていました.2人ともスマッシュの速さが売りですが,打球音を聞くと早坂の方が高かった(^^;.やっぱそうか.フレームが陥没しかかってるくらいですからねー.試合は...惜しかったですねー.内容的には早坂が押していたと思います.佐伯は早坂の特にバック奥からのクロスのスマッシュがほとんど取れてなかった.でもほんとなんでもないミスの数の差がそのままわずかな得点差となってしまいました.ラリーポイントですから尚更です.2ゲーム目の19点からのクロスのロブが甘くなったのも悔やまれる.やっぱりクロスのロブは怖い.でも佐伯も日大時代より強くなってますし,早坂が一皮剥けたのは間違いなさそうです.ていうか,大学時代よりなんかはつらつとプレーしているような気がします.

 男子シングルの後は,女子シングルです.でも脇田,村松,柴村と3人ほぼ同時に入ってしまいました.吹田先生が最初に始まった脇田に付いていたのですが,柴村の試合が始まるとそっちに行ってしまったので(村松には磯下が付いていた),脇田の試合を応援しながら最後まで見ていました.試合は圧勝でした.相手は高校の後輩の奥(インターハイベスト4)でしたが,全く寄せ付けない感じでした.ショットに速さはないのですが,とにかく先に先に動けていて,ほとんどの球がめちゃめちゃ厳しいところにプレースメントされます.特にネット前が厳しい.相手の球がほとんど読めてる感じですね.ただ最後,なぜだかどどどどっと勝手にミスして7点くらいあげてしまったのがねー.なぜだかわからないのですが脇田には時々そういうことがあるんですよねー.でもそれでも勝ってしまうんですからねー.逆に言えばそれさえなくなれば...

 村松は勝ちましたが,柴村は惜しいところまで行ったのですが負けてしまいました.柴村はちょっと体調を崩してたようですが,動けたのでそれは関係ないですと言ってました.村松は結構競ったりするのですが,「勝ち方」を知ってる感じですねー.逆に柴村にそういうところがあればと思います.まあこういう試合に出て経験を積んでいくことですね.特にラリーポイントになってどどどどと点が入ってしまうので勝負所の見極めが重要になったと思います.

 でもその時だったか,村松のお母さんに声をかけられて,柴村と話をしていたせいか最初は私のことを彼女のお父さんかと思ったそうで,ちょっとショックでしたねー(T_T).まあ確かに歳から行けばそういう年齢でもおかしくはないのですが...

 女子シングルの次は男子ダブルスですが,これはもう「エンターテインメント」ですね.スマッシュのスピードもすごいですが,それを拾う方もすごいです.早坂はシングルは残念でしたが,ダブルスは圧勝でした.早坂が打つものすごいスマッシュを相手も懸命に拾って,でも5発6発と打ち続けて最後には打ち抜いて決める,なんていうのは見てて圧巻でした.後で本人に会ったら,また「副業」のダブルで勝っちゃいました,と言ってました.でも会うのは久しぶりでしたが元気そうでしたねー(^^).対照的?に坂本・池田のダブルは緩急をつけて,なおかつ,とてもシュアで丁寧で力が抜けていて,でも打ち抜くときは打ち抜くという感じで見ててとても勉強になりました.

 女子ダブルの脇田・村松は2ゲーム目はちょっとあぶなかったですが,何とか勝ちました.シングル,ダブル平行して行われているので,ファイナらずに2−0で勝つことも重要ですね.ただ,金山のペアは負けてしまいました.彼女ってダブルはインターハイ,ジュニア(選抜だったかな?)の2冠なんですね(と楽人君(T大バドミントン部OBの阪大の森安先生のご子息(^^;)が言ってました).そんなにすげー奴だったとわ(^^;.

 その後は,シングルの2回戦です.男子シングルはランキング1位の佐藤翔治の試合を見てました.生で見るのは初めてでしたが,さすがにオーラ(^^;を感じました.ていうかそんなに大きくないのにとても大きく見えました(ウェアのサイズがあってないせいかも(^^;?).ただ,調子は悪そうでしたねー.肩か腕をしきりに気にしていました.まあそれでも勝ってしまうのはさすがですが.調子が悪いなりに相手に点を与えながら決めるところでちゃんと決める感じでした.相手はサウスポーだったのですが,バックサイドへのクロスのスマッシュがほとんど取れてなくて,決めるときはそこを中心に攻めるのですが,時々ストレートにも打って読まれないようにしていてとても考えてプレーしていました.でも生で見て初めてわかったんですけど,ネット前の厳しさがすごいです.やっぱシングルはネット前かな.

 女子シングルの2回戦は,脇田,村松とも圧勝でした.これで2人ともベスト8です.すごい,というか実力からすると当然なんですが,特に,脇田は怪我してたこともあってポイントが足らずとにかく1つでも上に,できれば平山にリベンジして優勝して欲しいです.もちろん,村松にも頑張って欲しいので少なくとも明日は2人とも勝って,明後日の準決は2人でやって欲しいですねー.柴村,金山は残念でしたが,柴村は勝ってもどっちみち村松と当たったわけだし,脇田,村松はシングル,ダブルとも勝ち上がったので,筑波大としてはまあよし,という結果になりました.試合は明日,明後日まで続くので頑張って欲しいです(私は仕事です(^^;).

 私もほんと純粋に楽しかったです(^^).朝9時半から始まって午後6時まで時々筑波大のみんながいるところに来て休憩しながら(^^;ほぼ立ちっぱなしで応援しながら見ていましたが,あっと言う間でした.こういう日本のトップレベルの試合を「身内」を応援しながら見られる,ということにとても幸せを感じました.ありがとう,と言いたいくらいです.「休み方がわからない」と書きましたが,とてもいい「休日」となりました.そして当然のことながら自分のプレーにも参考になることがいっぱいありました.何だかんだ言って肘から先(回内回外内旋外旋)はやっぱり重要ですねー.それに何と言ってもみんな頑張ってるし,私も頑張らなくちゃ,ですね.

 帰りに吹田先生が車に同乗しませんか,と誘ってくださったのですが,帰省ラッシュが大変そうだし,また電車でこの文章を書きながら(^^;帰ってきました.青葉台の駅前に,前から気になってた大戸屋があったので,そこで晩ご飯を食べました.大戸屋は,「女性が1人でも入りやすい」を売りにしていて,お店は1階ではなく,2階か地下にあるそうで,青葉台の店は2階にありました.ソース鶏カツ丼税込み504円,なかなか美味しかったですよ.こういう店がつくばにもあればなー.つくばはとにかくファミリー向けの店しかないのです.

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8/16'06

 ランキングサーキット大会ですが,脇田は期待通り勝ってベスト4入りしてくれたようですが,村松は残念でした.まあ相手は社会人の幡谷で相当粘り強いですからねー.でもベスト8です.ただダブルは16で負けてしまったようです.次は脇田は幡谷と準決ですが脇田なら何とかしてくれるでしょう.早坂のダブルも相手が坂本・池田ではさすがに厳しかったようですね.

 さて,肝心?の私自身の方ですが,今日久しぶりに和所さんとシングルの練習をして,今の自分の現在の「位置」を把握しておこうと思ってゲームをやりました.今の自分の調子ならおそらく初めて負けるだろうから,一応負けておこうと思いました.でもゲームなのでもちろん勝つつもりでやりました.そして,ラリーポイントでやったのは初めてでしたが,予定通り?ファイナルで負けました.

 それは予定通りのはずだったのですが,ゲームをやりながらあまりに動けず情けなくなり「もし負けたらバドミントンをやめよう」と考えていました.ファイナルの最後の方はもし負ければバドミントンをやめるわけですから,動けない中でも必死で食らいついて頑張りましたが18点くらいで負けました.

 彼に負けたのは初めてなのでショックですが,それより負ければバドミントンをやめようと思っていたのでバドミントンをやめることになると思いました.特につくばに来てからそうですが,目に見えて動けなくなりどんどん弱くなっているような気がします.歳のせいもあるでしょうが,同年代に対しても相対的に弱くなっていると思います.実際,同年代相手の全日本教職員の成績は年々悪くなる一方です.練習時間は限られますがそれなりに練習はしていると思います.というか今以上練習するのは無理です.

 スポーツは練習やトレーニングを創意工夫してそれをすることによって強くなって,自分の思い描くようなプレーができるようになって,達成感が得られ,結果的に試合に勝てる,というおまけまでついてきますと書きましたが,練習してもあまりに結果が出ずどんどん弱くなっていくのでは全く達成感は得られません.もちろん趣味としてやるのならそれでもいいでしょうが,私は趣味や健康のためにバドミントンをやるつもりは全くありません(趣味や健康のためにスポーツをやるのなら他のスポーツにします).5点くらいで息が上がってしまうのも単に動けない中で必死で食らいつくから疲れるだけなのかもしれません.そういうバドミントンは私のプレースタイルでもありますが,もうしんどくなってきました.それにいくら体力があっても動けずシャトルに届かなければどうしようもありません.

 ひょっとしたら今日が最後の練習になってしまったのかもしれません.帰り際に金曜日どうしますか?ときかれて,もうバドミントンやめようかと思ってるというような話をして,練習する気になったときはメールしますと返事しましたが,永遠にメールしなければ永遠に練習することはないわけです.もうしんどいし,練習してもあまりに結果も出ないし,バドミントンやめようとは,全日本教職員で負けたとき考えたことで,教職員の磯下の試合やランキングサーキットの脇田や村松や柴村や金山や早坂やその他のトップレベルの選手の試合を見て単にそれが今日まで「ペンディング」になっていただけかもしれません.つまり,今日練習して急に現実に引き戻されたというわけです.でも昨日はほんとに楽しかった.最後にいい思いさせてもらったような感じです.

 でも大学に入ってから始めたバドミントンですが,20年以上も仕事も忙しい中よく頑張ったとは思います.戦績と言えるものがあるとすれば,都大会の30代で組み合わせに恵まれて1回だけベスト4,40になったとき全日本教職員でベスト16に入ったくらいというのはちょっと寂しいですが,でもまあ私の力ではそんなもんかもしれませんね.

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8/17'06

 ランキングサーキット大会ですが,さっき連絡が入って,脇田は準決勝で第2シードの幡谷に負けてしまったようですね.残念.でもベスト4なのでインカレ優勝以上のポイントを獲得したことになります.今回から上位選手に勝った場合のボーナスポイントもありますし,大分ランキング上がるんじゃないですかね.ていうか,今の位置がどう考えても不自然ですが.あー,でもなんか完全に「向こう側」の話になっちゃいましたねー.

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 女子シングルは平山が優勝したんですね.脇田,村松が勝ち上がっていたのであえて黙って?いたのですが,今大会は調子良さそうでしたねー.結果を見ても実際,1ゲームも落としていません.関東リーグもありますが,インカレで是非去年のリベンジ(団体は連続優勝)してもらいましょう.男子シングルは佐藤翔治は準決で棄権して佐々木が優勝したんですね.確かに佐藤は2回戦見たときもなんかおかしかったですからねー.

 男子ダブルは坂本・池田組が舛田・大束組に勝って優勝しましたね.彼らも筑波大OBです.私が筑波大に来たときはもういなかったので,2人とも1,2回会って二言三言話したことがあるくらいですけど,やっぱり嬉しいもんです.坂本君は去年筑波大バドミントン部の飲み会に顔を出してくれましたし,信太郎君は私が筑波大に来て1年目で阿部先生が退官される早坂が3年の時,何度か筑波大まで早坂の練習相手に来てくれていて,そのとき早坂が普段と全然違うプレーをしていて,とても生き生きしていたのを憶えています.阿部先生も「ありがとう!すばらしかった!」と絶賛でした.

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8/18'06

 今日は練習日で,もしその気になったらこちらから連絡しますと言っていたにも関わらず,たまにはのんびりダブルスでもいいからやりませんか?と和所さんに誘っていただいたのですが(ありがとうございますm(_ _)m),やはり気持ちは変わりませんでした.なんかもう「切れて」しまったようです.バドミントンだけは不思議とあまり効力感を失うことなく(まあそんなにがんがんやってないということもあるでしょうが)20年以上やってきたのですが,なんかあっけないもんですね.

 仕事は30がターニングポイントだったと思いますが,バドミントンは40がターニングポイントだったような気がします.仕事は30前に小さい頃からの大学に職を得て研究者になるという夢を実現した後は下り坂になりました(でも今は大分持ち直した,のかな?).バドミントンは40までは,40になったとき全日本に出るという目標もあったし,少しずつでも強くなってると(自分では)思っていたのですが,これも40で全日本教職員に出て16に入って以降は下り坂となりました.大学に就職できたときはほんと嬉しかったし,40になったとき全日本教職員に出てシード選手に勝って16に入ったときもほんと嬉しかった.でもそういう後は,得てして事態は暗転してしまうものかもしれません.やはり目標は達成してはいけないんですかね.まあ要は私の目標が低すぎるってことか(^^;.

 40以降も練習量は仕事が忙しくなって少しは減ったとは思いますができる範囲では精一杯やっていたと思います.でも練習しても結果が出ずどんどん弱くなっていくのは辛いものです.そういうときにじっと我慢できるかがとても大事なことで,4年頑張りましたがもう限界のようです.もちろん歳ということもあるでしょうが,同年代に対しても弱くなってきているのは全日本教職員の成績を見れば明らかです.

 静岡の松田さんは,50になったときまた上位を狙えばいいじゃないですが,ともおっしゃってくださったのですが,確かに今の全日本教職員の50代の選手のプレーを見ていると何とかなりそうな気がしますが(でも優勝した高岡さんは別格でしたね.ですから彼以外なら(^^;),よく考えてみると,私が50になったときは,今の40代がほぼそのまま上がるのでしょうから(例えば,江藤さんは多分私と同い年),それを考えるととてもじゃない気がします.

 結果が出ないというのは,試合の結果ということもありますが,やはり「自分の思うようなプレーができなくなった」ということが一番大きいです.そういう状態でプレーしていても全然楽しくない.バドミントンは自己実現に繋がる奥深さがあるとは何度も書いてきましたが,それとは別に,単純にシャトルをインパクトする瞬間の手応えとか打球音の何とも言えない快感があって,でも今は想像するだけでも重荷というか苦痛に感じてしまいます.なんかもうほんとしんどい.

 まあ全ては150億年前に決まっていますが,未来のことはわからないので,どうなるかはわかりませんが,少なくとも今は全くプレーする気にはなれません.でもほんと20年以上続いてきた気持ちがある一瞬を境にがらっと変わってしまうなんてなんだかほんと怖いですねー.あー,でも結局最後までバドミントンがわからなかった...ほんとに奥深いものだと思います.

 でもこれまでバドミントンが続けられたのは,いっしょにプレーしてくれた,東大バドミントン部,ラブオール,プーナ,松井さんはじめ文京区の皆さん(あー,結局松井さんには一度も勝てませんでした.最後にもう一度手合わせしたい気持ちもあるのですが,残念ながら今の醜態をさらしたくない気持ちの方が強いですかね),吉野君,筑波大バドミントン部の皆さん,阿部先生,吹田先生,和所さん,つくば市のサークルの皆さんのおかげであることは間違いなく,感謝の念にたえません.筑波大バドミントン部とそのOB, OGの皆さんの活躍はこれからも蔭ながら応援していきたいと思っています.

 バドミントンはやめますが,私は運動なしでは生きていけないので(^^;スポーツは続けていきたいと思っています.冬はスキーがあるので,夏やるスポーツを何か探さないと,ですね.それまでは「健康のために(^^;」とりあえず走っていようかなと思います(早歩き程度じゃ運動にならん).でもやっぱり寂しいもんですね.人生の一部が終わってしまったような心境です.でも歳をとるに従ってそういうことが次々と起こってくるんでしょうねー.でもそれが運命ですし,歳をとることはやはり辛いことですが,人生を楽しむためにはそういうこととも上手くつき合っていかなければいけない,ということなのでしょう.

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8/22'06

 高校野球が終わりましたね.まあちらちら見てる程度でしたが,9回表に8点取って,その裏に5点取られて大逆転とか,37年ぶりの決勝引き分け再試合(ただし,37年前は確か18回まであった)とか,駒大苫小牧の73年ぶりの3連覇なるかとか,何かと話題が多い大会でした.

 でも早実って西東京予選から見てましたけど,予選では結構あぶない試合もあったのに,甲子園に来てからは決勝までは全く危なげなくて,そんなもんなんですかね?早実より格上とされていた横浜に大勝した大阪桐蔭にも大勝してますしね.わからないもんです.実際,斎藤君(彼もゆうき君ですね(^^;.あー,でもこれでまた「ゆうき君」が増えるかと思うと...)の外角低めのスライダーは駒苫の選手も含めてほとんど打たれてませんでした.最近は高校野球も投手の分業化が進んでいる中,4日連続(そのうち1日は延長15回)も1人で投げきったこと,しかも終盤でも球速が衰えないのはすごいですね.ていうか肩大丈夫ですかね?

 ハンドタオルで顔を拭くのも別に上品(^^;とかそういうことじゃなくて合理的でいいと思いますよ.バドミントンの場合は,タオルをコートサイドに置いておいて,タイムを取って主審に許可を得てからタオルを使うんですが,実際はそんな頻度ではとても足りません.ポケットにハンドタオルを入れておいて使ったら怒られますかね?でもハンドタオルじゃあ「面積(体積)」が全然足りないか.ポケットに入れてるだけでべしょべしょになりそうだし.まあもう関係ないですけど.でもたかが?高校野球なのにちょっと騒ぎすぎですよね.「こっち側」の特権?こういうのを見ているとつくづく「有名」にはなりたくないもんだと思います(^^;.

 そんな中で決勝引き分け再試合前の早実と駒苫の監督のコメントがとても対照的で面白かったです(全然関係ないですけど早実の監督って私と同い年みたいですね.私もあんなにおじさんなのか...).駒苫の監督は勝負に拘らず楽しみたい,と言っているのに対して,早実の監督はとにかく勝負に拘りたいと言っていました.そして,結果はその通りになりました.うーん,やっぱり勝ちたいと思った方が勝つんですかね?当たり前?

 私はどっちかというと,というより,はっきり言って駒苫の監督の気持ちがよくわかります(でも早実を応援してましたけど(^^;).早実は初優勝のチャンスでしたが,駒苫も3連覇がかかっていたので,「千載一遇」的には似たようなもんですよね.でもそういう勝ちたい気持ちって,なぜか強く感じるときとそうでもない(^^;ときとあるんですよね.

 卑近(^^;?な例なんですが,私が全日本教職員で唯一結果を残した4年前のときは,とにかく勝ちたくて勝ちたくて結果を残したくて仕方なかったです.10年間目標としていた大会に初参加ということもあったと思います.そういうときは勝ちたいのでとにかく念入りに準備もしますし(出張先で走ったりしていた),当日のアップなんかも気合いが全然違います.そして結果的に結果も残りました.でも最近は...なんか競ってくると,ていうか競ってばかりですが(^^;,何としても勝ちたいというよりは,「プレーを楽しもう」としてましたね.もちろんどうでもよくなるということではなくて,そう考えることでリラックスできて結果に結びつくだろうと考えている,ということもあります.でも結果的には全く結果には結びつきませんでした.

 アトランタオリンピックの日本女子水泳チームの惨敗もチームリーダーだった千葉すずさんが,楽しもう楽しもうと言い過ぎて?年下の選手がほんとに楽しんじゃった(^^;のが原因?とか,そういうことが言われてましたよね.やっぱ,しんどい思いをしないと「勝てない」ってことですかね.ていうかしんどい思いしてまで勝ちたいと思うか,そこまでするくらいなら勝たなくてもいいやて思うか,ですかね.

 でもそもそも「勝つ」って何ですかね?スポーツではもちろん勝ち負けがあって,「勝つ」方がいい,というか,まあそのために試合してるんですけど,それが全てに優先するんですかね?スポーツを心から楽しめるかどうかと勝ち負けってどっちが大事でしょうか?勝ってもプレーしてて全然つまんないのと,負けてもプレーしててとても楽しいのとどっちがいいですか?

 別にスポーツに限らず,最近は何か人生にも勝ち負けをつけるのが流行みたいですけど,「成功」して人生に「勝つ」ことがどれほどのものなの?とは正直思います.「向こう」に行ってしんどい思いするよりは「こっち」でのんびりやって行きたいと思う人は多いんじゃないですかね?でもそんなことは本人の意志ではどうにもならない,向こうに行く役回りの人は向こうに行くことになっているんだと思います.なぜだか勝ちたくて勝ちたくてしょうがなくて,なんだか知らないけど,そんなつもり全然ないんだけど,思わずめちゃめちゃ頑張ってしまう時っていうのがそうなんでしょう.逆に言えばそういう衝動にかられない限りは「こっち」でのんびりしていたいもんです(というわけには行かないでしょうが(T_T)).

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8/24'06

 何人かの方からバドミントンを趣味とか健康のためにやるってことは考えられないの?ときかれました(ありがとうございますm(_ _)m).実はバドミントンを競技として続けていくのはやめようかなとはこれまでも何回か考えたことがあります.しかしそのたびに思ったのは,バドミントンを趣味とか健康のためにやっていくのは無理ということです.

 バドミントンを趣味や健康のためにやっていくとすると,具体的?にどうするかというと多分地域のサークルの練習に行ってちょっと基礎打ちをしてダブルスのゲームをやるってことになるんでしょう.ゲームですから勝ち負けがつきます.ていうか勝とうと思ってやるのがゲームですよね.でも負けることもある.負けても気持ちよく体が動かせたからいいや,と思えるか,ですよね.

 勝つか負けるかはもちろん相手やパートナーの力量にもよりますが,「趣味や健康のために」バドミントンをやっていればだんだん自分の思うようなプレーはできなくなり,今まで勝っていた相手にも負けるようになるでしょう.負けたら今度は勝てるように練習するのが「競技」ですが,「趣味や健康のための」バドミントンですからそういう練習はしません.そしてどんどん弱くなっていきます.そんなんではつまらないと私は思います.やる気3要素にもあるようにスポーツの楽しみは内的熟達であり,練習して技量が向上して「結果として」ゲームに勝てるということです.「練習して技量が向上する」という部分を放棄してはもはやスポーツの楽しみは(私の場合は)なきに等しいです.

 もちろん歳をとってくるに従って若くて強いのはばんばん出てくるので今まで負けなかった相手に負けるということは出てくるのですが,幸いシニアの世界というのがあったので,同世代に対して,つまり,一種の「階級制」で勝負する,ということでやってきました.そして,練習して技量が向上してこれまで勝ったことのない相手に勝つ(のを目標とする)というのがこれまでのスタンスだったわけですが,相手だって練習してるわけですから,そんなに簡単なことではありません.実際,最近は同世代に対しても今まで負けなかった相手にも負けるようになってきました.

 そして気がついたらもう競技としてやってると言うには恥ずかしいレベルにまで落ち込んでしまっていたと思います.競技としてやってるというレベルはまあ全日本教職員で1,2回は勝てるくらいのレベルでしょう.もちろんつくば市の大会や在京大会なんかに出れば私が勝てる相手は掃いて捨てる(失礼(^^;)ほどいますが,彼らはバドミントンを競技としてやっているわけではありません.でもちんたら「趣味や健康のために」バドミントンやっていたらそのうち彼らにも負けることになるのでしょう.

 まあぐだぐだ書いてしまいましたが,簡単に言えば「もうバドミントンはしんどい」ということですかね.ここでも書きましたが,とにかく数あるスポーツの中でもそのハードさは指折りだと思います.特にシングルは半端じゃありません.同世代相手ならそれがつけいる隙だったはずなのですが,逆に私の方が衰えてきてしまいました(T_T).自分の能力や気力の限界を知ることも必要なことで,これも1つの挫折でしょう.私はこれまで数え切れないくらいの挫折を繰り返してきましたが,やっぱり挫折って嫌なもんですね.

 1つ心残りなのは,つくばに来たときはもうピーク?を過ぎてしまっていたので,筑波大バドミントン部の学生達とそんな状態でしか打てなかったことですかね.もっとちゃんとした状態,全日本でも何回か勝てるくらいの状態のとき彼らと練習してみたかったです.

 さてこれからですが,どうしましょうかね.バドミントンはやめますが,スポーツをやめるつもりはありません.そして,バドミントンをやめてしまうというどうしようもない虚しさを埋めるには次にやるスポーツのことを考えるしかありません.皮肉?にもバドミントンというスポーツで書いた分析が参考になります.即ち,ゴルフ,卓球,ボウリング,陸上,水泳のどれか,ということになりそうです.ただ,これから始めるものなので競技レベルまで行けるかどうかはわかりません.でも「練習して技量が向上する」ということは追求して行けそうです.実際,スキーはそういうスタンスとレベルでやってます.卓球以外は相手がいるわけではないので,スコアやタイムなどより純粋に自分の技量の向上を追求して行けるかもしれません.スポーツに勝負は付き物ですが,やはり負けたときの敗北感は辛いものです.まあそこでよし次は勝てるように練習しようと思えればそれでいいんですが.つまりもうそう思えないからバドミントンやめるわけですが.

 ここでも書きましたが,一番興味があるのはゴルフです.なんかいきなりおやじ臭い(^^;感じもしますが(でもほんとにおやじなので仕方ない?あーあ,でもとうとう自分で自分のことをおやじと言うようになるなんて...(T_T)),とにかく全くやったことがないので(クラブすら握ったことがない)その分興味はあります.それにいい年したそれこそおじさん(^^;達が夢中になるわけですからやれば面白いに決まっています.そして,「おじさん達のゴルフ」の先には「競技レベルのゴルフ」があるわけです.

 この辺の感覚はスキーを始める前と少し似ています.九州出身の私は大学を卒業するまで一度もスキーをしたことがなく,正直言って,リフトでわざわざ登って降りてくるなんてなんてばかなことしてるんだろう(まるでカミュのシーシュポスの神話?)と思ってました(^^;.でも大学を卒業するときの研究室のスキーに行って結構「はま」って,今年とうとう準指まで取っちゃいました(^^;.

 実は,行方不明だった(^^;中高時代仲が良かったY本が見つかった(^^;ときからやろうと誘われていて,まあ渡りに船ですね.つーことでよろしく(^^;.ただゴルフはスキー同様とても金のかかるスポーツですからねー.まあこの辺はいろいろ話があって,例えば,東京にいたスキークラブで準指とるのに10年かかった人がいるのですが,会長さんに「ベンツ買えたのに」とかからかわれていて,でも私に言わせればベンツなんか買うより,よっぽど充実した金の使い方ができたんじゃないかと思います.豪邸,高級車,ブランド品などは全て「金の使い道」がない人達のものですからねー(プロ野球選手がみんな「車が趣味」なわけありません).逆に言えば「金の使い道」がある人は幸せだと思います.

 あと,バドミントンをやめると決めた日から「健康のために」ゆっくり30分くらいかけてですが毎日5km走っていて,まあ次のスポーツを始めるまでの「繋ぎ」と思っていたのですが,これもできれば続けていきたいです.たった30分ですし,30分で5kmなら全然楽勝なので全く苦痛には感じません(今のところは).私の仕事は実験や被害調査などのフィールドワークに出ることがなければ講義以外はそれこそ椅子に座りっぱなしなので「適度な」運動は毎日した方がいいですよね.東京にいた頃は移動は全て自転車だったのですが,つくばに来てからは車なので日常生活ではほとんど体を動かしません.そんな状態で週2回めちゃめちゃハードな運動をしていたわけですから体にいいわけありません.

 でもやっぱり日常生活で適度に体を動かすのが一番いいですよね.昔の話ですが確か全米のシニアの陸上(確か短距離)のチャンピオンというのが外科医で(かっこいい(^^;),でも彼は普段全くトレーニングをしてなくて,何で勝てるかというと手術で10何時間も立ちっぱなしでそれがトレーニングになってる,と本人は言ってました.でもさすがに10何時間立ちっぱなしはハードですね(^^;.

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8/25'06
私のバドミントンライフ?
(2)東大バドミントン部時代

 バドミントンをやめるということで,バドミントンというスポーツで途中まで書いていた,これまでのバドミントンライフ?について一通り振り返っておこうと思います.そんなことして何の意味があるのかとも思いますが,まあ一種の日記というか「お葬式」みたいなもんですかね(お葬式って残された人が亡くなった人に対してちゃんとお別れをするためのものですからね).ですから,公開はしますが基本的には「自分のために」書いています(まあこのコーナーの目的の大半は「自分のため」ですが(^^;).

 バドミントンというスポーツで書いたのは,大学1年の夏合宿まででした.夏合宿では地獄のような(^^;練習が何日も続いた後,最後にランキング戦が行われ,夏合宿の後の京大戦,七大戦(7つある旧帝国大学の大会,以下,七帝)のレギュラーが決まります.ただ,京大戦は全員で京都まで行きましたが,1年は名古屋であった七帝は「免除」だったと思います.というのは1年でレギュラーに入った者がいなかったからです.考えてみたら後に東大バドミントン部を背負って立つことになる同期のM田も1年のときは京大戦のレギュラー(10番以内)にも入れなかったんですねー.きびしー.

 夏休みが明けると「強化練」というのがあって,そこでようやく基礎打ちからコートに入れるようになります.とても嬉しかったですねー.でもバドミントンってほんと「一人前」になるのに時間がかかりますから,上級生や経験者の同期との差は相変わらず大きなものでした.当時は東大バドミントン部にとって一番重要な試合は春と秋にある関東リーグで東大は3部にいました.しかし,関東リーグのレギュラーは当時3複4単で,大学から始めてシングルで4番に入るのは絶望的でした.そこで,七帝の存在を知り,また,七帝で4年は引退となり,どうやら私が4年の時,この試合が私の故郷にある九大であるらしいと漏れ聞いて,七帝の本数は3複6単なので,4年の夏にシングルの6番に入って七帝にレギュラーとして出る,ということを何となく目標にしたと思います.でも実際のところは,途方もない道のりに見えました.1,2年のころは将来を見失っていたり,ピアノの方を頑張ってたりして正直あんまり真面目な部員ではなかったですね(^^;.

 ただ,2年の秋に進振り(東大では2年の秋に具体的な学科が決まる)のとき進学先を選ぶ段階で,自分がやりたいと思っていたイメージに近かったものを3つくらいに絞り込んで,それが,土木,建築,機械だったのですが,時間割表を見て建築が月,水,金のバドミントン部の練習に一番出られそうだった(^^;,というのも建築を選んだ理由の1つになりました(もちろんそれだけで決めたわけではないですが).そういうことを考えるとバドミントンが私の中で占める比重は結構大きかったんだなー,と思いますね.ただし,3年になると授業は本郷であり,練習は駒場であるので,練習に出るためには駒場まで「帰って」こないといけません.私は当時駒場に住んでいましたが,多くの同級生が本郷進学と同時に本郷界隈に引っ越す中,私はそのまま駒場に住み続けました.理由はもちろんバドミントン部の練習とピアノの会の会室も駒場にあってグランドピアノが弾けたからです(^^;.大学4年の年末に本郷に引っ越したので,それまでは駒場から本郷まで「通った」ということになります.大学1年からつくばに来るまでのほぼ20年間で通学・通勤時間が3分以上かかったのは,この2年だけです.

 私が進学した建築学科は製図が結構大変で(私は構造志望でしたから尚更です),本郷から駒場に「帰って」きて練習に出るのは大変でしたが,1,2年の頃よりは真面目に練習に出てたと思います.ただ,七帝が九大であったのは,実は3年のときだったので,「九大のときの七帝」でレギュラーになるというのはさすがに間に合いませんでした.結果的にはメンバーチェンジで試合には出してもらいましたが,全く何もできずに負けてしまいました.そうそう,中高時代仲が良くて行方不明だった(^^;Y本が当時九大生で試合を見に来てくれました.試合が行われた体育館の屋根がスレート1枚でめちゃめちゃ暑かったのを憶えています.

 3年の七帝が終わると,いよいよもう残り1年です.そして最終学年4年になりました.しかし,大学から始めて4年の夏にシングル6番に入るのは実際のところかなり厳しい状況でした.当時は,同期の4年のM田,S澤,M田,3年のM(一文字だと一部?伏せ字にするとこうなっちゃう(^^;),T橋が不動のレギュラーで残り枠は1つでした.私のライバルは3年のA山,2年のK矢,A瀬,1年のH川,H田でした.もちろん全員中学高校からやってる経験者ばかりです.H田はインターハイに出たほどの強者でしたが,遅れて入ってきたので今一「戻ってない」感じでした.2年にはもう1人強い奴,K田がいて2年の中では一番強かったのですが,彼は当時余り練習に出てきてない状態でした.同期のK上とH高も強敵でしたが,K上は手首骨折,H高はアキレス腱断裂で戦線離脱しました(ほんとシビアなスポーツですね).ただ経験者であるK上には結局一度も勝てませんでしたが,大学から始めた中で一番強かったH高にはずっと勝てていなかったのですが,彼が怪我する直前の最後の対戦では何とか勝つことができました(今思えばその時から何かアキレス腱断裂の兆候があったのかもしれません).ちなみに当時は,夏合宿が行われる検見川の4面あるコートの特定の箇所で毎年1人アキレス腱を断裂していて,そこに「何かいる」かもしれないから,一度お払いをしようと話していたほどでした.

 ということで,目下のライバルは2年のK矢とA瀬でした(と勝手に思っていました).彼らは2年後東大バドミントン部を背負って立ったわけで2年のときから相当強かったです.彼らに勝たなければ6番には入れないと思っていました.3年4年のときは,とにかく6番に入ることばかり考えて練習していたと思います.そして,ランキング戦がある夏合宿へと突入します.

 私はまず3年のA山とやったと思います.彼も経験者でかなり強いのですが,私とは相性が悪いらしく会心の試合(7点と1点,今でも点数憶えてる(^^;)で勝ちました.A山には負ける気はしませんでした.でもA山は結構強いので,彼が私のライバル達に勝ってくれれば,という目論見もありました.

 そして最初は,目論見通り?1年でインターハイ経験者のH田との試合でA山がH田をリードします.しかし...内容的にはA山が圧倒していたと思うのですが,最終的にはファイナルでH田が勝ちました.H田は夏合宿直前に復帰したような感じで,ということは1日1日と日が経つに連れて,いや,1つラリーを重ねるたびにめきめきと強くなって(戻って)いくのがわかったほどです.一晩寝ると強くなってると言った奴もいました.勝ち進むH田に対して(そう言えば,1つ下でレギュラーのボーダーラインにいたI松が「砂の防波堤ですみません」とか言ってましたね(^^;)一度はA山とH田の対戦の後,私とH田との対戦が組まれましたが,さすがに連戦を考慮して翌日に持ち越しとなりました.しかしこれが...

 次の日の朝一で私はH田と対戦することになりました.私は朝が弱い(^^;.そして,H田は一晩寝てまた強くなってました(T_T).というか,彼はネット前でフェイントをかけることができるのも大きかったです.つまり私が最も苦手とするプレーヤーでもあったわけです.試合は全くいいところなく負けたと思います.これで終わった,と思いました.H田はその後も勝ち進み,最終的には2年のK田が彼を「止め」ました.つまりシングル6番手にはK田が入ったことになります.彼は夏合宿前から練習にまた来るようになり,ちゃんと練習すれば6番手の実力は揺るぎないものだったので,まあその時点で私の6単入りはなくなったようなものだったわけです.実際,H田とK田の試合を見ていたのですが,とても私が勝てる相手ではないと思いました.

 福沢諭吉の言葉に,最善がだめなら次善を目指すのがよろし(だったかな?)というのがあります.K田が復帰した時点で正直6単に入るのは厳しいと思っていましたが,七帝の6単は無理でも6単を目指せば京大戦の10単には入れるのでは,と考えていました.10単というのは,数ある対外試合の中で一番本数が多く,つまりは,10単に入ることがレギュラーとなる「最低ライン」だったわけです.そして目論見通りに10単には入ることができました.どの試合で決まったかはよく憶えてませんが,おそらくA瀬がA山に勝って上位10人が確定したと思います(7〜10は,H田,K矢,私,A瀬).その瞬間はやはり「ガッツポーズ」をしました.横に2つ上のOBのN川さんがいて「おめでとう」と言ってくれました.ほんとの目標は6単でしたが,最低限の目標としていた10単に入れて何とか対外試合に出られることになって,レギュラーと名が付く一番端っこに入れてほんとに嬉しかったです.でも本来の6単という目標を達成できなかったというどうしようもない残念さはありましたね.それに,私のランキング戦は,A山に勝ってH田に負けて終わってしまったわけです.ターゲット?としてきたK矢やA瀬との対戦も結局ありませんでした.

 レギュラーのS澤と後になって2人とも目論見がはずれたな,と話していたのを思い出します.というのは,S澤も最初の試合でT橋に勝って,「あとはT橋を使って勝つ」とか言ってて,私もA山があのままH田に勝ってくれればどうなったかはわからず,でも2人ともその目論見もはずれたのでした.しかしながら,S澤はT橋に勝って上がってきた相手(M田だったか)にしっかり勝って退けたのですが,私は...(T_T).

 私の6単を阻んだ張本人(^^;のK田とはその後もつきあいが続きました.彼も博士まで行ってその後東大の助手をしていたので,卒業後,よく御殿下で練習しましたし(その頃はもう私の方が強かった(^^)),合コン(^^;をセットしてくれたこともありましたし,私がUCバークレーに行ったときは,彼もたまたまUCデイヴィスにいてお互いに家まで遊びに行ったりしました.私の妻は桐朋のピアノ科卒ですが,彼の奥さんは桐朋のヴァイオリン卒で,彼自身もピアノが弾けるので4人で私の家で近所の人などを呼んでプチ演奏会もやりました.今は九州工大で先生をしてます.

 ただ,今でも思い出すだけでとても悔しさがこみ上げてくることがあります.ランキング戦の後,ミーティングで何人か「感想」を言うのですが,私がH田に負けて「全てが終わった」日,私が感想を言わされました.私は,4年がいくらインターハイ経験者とは言え1年にあっさり負けてしまったことが悔しくて情けなくて仕方なかったのですが,その場で,私は大学でバドミントンを始めて4年目,H田は中学から始めて7年目なので,そういう意味では私の方が後輩みたいなほんとに心にもないことを言ってしまって,ほんとに言い訳がましくてその後相当自己嫌悪に陥りました.あのときなんであんなほんとに心にもないことを言ってしまったのかは未だに謎です.多分よっぽど悔しかったんだと思います(これも言い訳).

 さて,やっとの思いで掴んだ京大戦出場ですが,向こうのS1と当たり(まさに見事な当て馬ですね(^^;)あっと言う間に終わりました.でも京大戦が終わってそのあとレセプションというか飲み会があるのですが,試合に出ていないととても肩身の狭い思いをずっとしていたのですが,やっと試合をした相手や同級生などと普通?にどんちゃん騒ぎができてとても楽しかったです.

 京大戦が終わると次は七帝ですが(その年は阪大だった),私は行きませんでした.というか悔しくてどうしても行けませんでした.主将のM田には,研究室の仕事があって試合に出るのなら行ってもいいと言われたが,応援だけなら許してもらえないと言いましたが,ほんとは6単に入れなかった悔しさが一番の理由でした.でも七帝が終わると4年は引退で,最後にみんなの前で話をしたりするのでどんなに辛くてもやはり行くべきでしたね.

 8月の下旬からは上述の「強化練」があるのですが,4年はもう引退しているので参加しません.つまり,私の東大バドミントン部生活は7月の京大戦で終わったことになります.ただ,秋に一橋戦があって,それも京大戦同様5複10単で,私は一応10単に入っていたので,3年生以下の挑戦を受ける立場となりました.でも京大戦以降はほとんど練習なんかしてませんからレギュラー落ちは目に見えていました.相手は3年のY崎でした.ほんとにしんどい試合でした.ファイナルになり多分8-0とリードされてチェンジエンドしたと思います.負けたと思いましたが,そこから大逆転しました.つまり一橋戦レギュラーの座を死守(^^;したことになります.Y崎は相当悔しかったみたいで(そりゃそうでしょう),その後数年間は会うたびに悔しかったを連発(^^;していました.追いコンのときにもらった色紙にもしっかり書いてありました(^^;.

 そして年末の追いコンでしっかり追い出されました(^^;.2,30人はいたと思いますが,大挙して渋谷で飲み歩き,いつの間にか夜が明けていたのを憶えています.そのときS谷さんにかけてもらった言葉は多分一生忘れませんし,そのとき出た部誌に1つ下で主将のMが大学から始めて京大戦のレギュラーになり,一橋戦でもそれを守ったことをとても評価してくれていて,大学から始める人は私を手本にしろ,みたいなことを書いてあって嬉しかったです.何より,中学高校とクラブを途中でやめてしまってとても苦い思い出になっていたので,最後までやり通したことに充実感を感じていました.このコーナーでも何回か書いていますが,彼らとのつきあいはまだ続いていますし,これからもずっと続くでしょう.

 ただ,私はやはり目標としていた6単に入れなかったので完全燃焼したとは思ってませんでしたし,挫折感の方が強かったと思います.Mは大学から始めての10単入りを評価してくれましたが(実際,大学から始めて10単入りする者は当時は非常に少なかった),同期で主将のM田は,大学から始めたら6単入りを目指すべきと確かこれも部誌に書いてあったと思います.私も全くその通りだと思いました.でもその「目標未達成感」がその後私がバドミントンを続けることになった1つの大きな要因となったことは間違いありません.

 なんか書き出すとやっぱり(^^;止まらなくなっちゃいますね.いろいろ思い出してしまってとても切なく,でも懐かしくもなってきます.自分の気持ちを整理するために書いているのですが,もし万が一読んでくださる方がいらっしゃるのなら感謝感謝ですね.でもあんまり長くなるのもなんなので,ここで一旦筆を置きます.でもこのペースだとなかなか「現在」まで到達しないかなー(^^;.

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自殺

 いきなりぎょっとするタイトルですみません(^^;.でもこれもいつか書いておかなければいけないテーマだとずっと思っていました.

 死にたい,つまり,自殺したいと思ったことはありますか?私は今は自殺は絶対にすべきではないと考えていますが,このコーナーに何度も書いているように30代の頃は何度も死にたいと思いました.自分の将来がつまらなく,退屈でどうしようもない人生に見えてこれから何十年も生きていかないといけないと考えると絶望的な心境になりました.実際に具体的に「企てる」ところまでは幸い行きませんでしたが,当時は相当追いつめられていて,少なくとも寝るときに「どうかこのまま目が覚めませんように」とは心から本気でお祈りして毎日床についていました.でも今は自殺は絶対にすべきではないと考えています.

 まあそれは当然?なんですが,でもなんで当然かときかれると,なかなかずばっと答えることは難しいですよね.実際,「生きるべきか死ぬべきかそれが問題」なので,ありとあらゆる局面で死を選ぶという選択肢は常に存在するわけです.そしてそれを自ら選ぶことができるのは人間だけです.

 さて,なんで自殺してはいけないのか,ですが,まあよくある?回答としては,大切な命を粗末にしてはいけないとか,周りに迷惑をかけてはいけないとか,自分だけの命ではないとか,命は尊いものだとか,せっかくもらった命がもったいないとか,そういう感じのことがよく言われますが,もっともなようであまり説得力はありませんよね(でも,せっかくもらった命がもったいない,は一理あると私は思いますが).

 私の(今のところの)答えは,「唯一死だけはリカバーできないから」です.人間生きていく間に,しまったとか取り返しのつかないことをしてしまった,ということはいくらでもあるでしょう.後悔先に立たず,後悔後を絶たずです.でも実際のところ,取り返しのつかないことなんて何1つありません.その時死にたいと思っても何とか死なずにある一定の時間が過ぎればなんであのときは死にたいと思ったのだろう,と思うことはよくあることです.その時苦しくて苦しくてしょうがなくても時間が過ぎて状況が変わって何とかなることはしばしばです.というか10年周期説ではないですが,そういうものは周期的に変化するものです.でももしその時に死んでしまっていたら...そこで全てが終わってしまいます.その後何かがあった「かも」しれないのに,その時点で死んでしまえばその可能性を「完全に」摘んでしまうことになります.取り返しのつかないことなんて何1つありませんと書きましたが,唯一「死」だけは取り返しがつきません.だからどんなに苦しくても自殺だけはしてはいけない,と私は考えています.

 今は毎日が薔薇色で楽しくてるんるんというには程遠く(^^;,実際,いろいろ思い悩むことは尽きませんが,少なくともあの時死ななくてよかったとは心の底から思います.そしてそう思えるのはあの時死ななかったからです.あの時死んでいたら今はもういないわけですから,あの時死ななくてよかった,と思うことすらできないわけです.

 ただし,尊厳死,いわゆる,安楽死については違った考えをもっています.それについてはまた機会を改めて書きたいと思います.

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8/26'06
私のバドミントンライフ?
(3)ラブ・オール時代

 なんか長くなりそうなので,てきとーー(^^;なタイトルをつけました.「お別れ」するのも結構大変です.今回は大学を卒業してプーナに入るまでの大学院のM1〜D1のだいたい3年間くらいです.(3)がラブ・オール時代ということで(2)が東大バドミントン部時代,(1)がバドミントンというスポーツで書いた「バドミントンを始めたとき」になりますでしょうか.繰り返しになりますが,自分の気持ちを整理するために書いているものですので,興味がない方はどうぞ読み飛ばしてくださいm(_ _)m.

 バドミントン部を卒部,即ち,大学を卒業した後は本業(^^;の研究にはまっていったこともあり,バドミントンはあまりしていませんでした.しばらくは同期のK上と東大バドミントン部の練習に時々顔を出していましたが,本郷から駒場まで行くのが面倒でだんだん行かなくなりました.当時のことで憶えているのは,私の卒業と入れ替わりに現東大バドミントン部監督のG藤が入ってきて,彼とよくシングルをしていたことですかね.当時はだいたい私が勝っていたと思いますが,彼は大学4年間で相当強くなって今でもバドミントンを続けていて今では彼の方が全然強いです.

 彼はついこの間まで会社(M菱G化学)がつくばにあったので(ていうか彼は荒川沖が地元),私がつくばに来たとき彼が主催する練習会に何回か顔を出しました.東大バドミントン部の学生を筑波大バドミントン部に練習に連れていったときもいっしょについてきて(そりゃ監督ですから(^^;)いっしょに練習してました.そう言えば筑波大バドミントン部の練習にも何回か来ましたね.そのときの彼のプレーを見て阿部先生も絶賛してました.彼もそろそろ40なんで全日本教職員に出れるんじゃないですかね.話を戻します.

 それで,バドミントン部以外にもっとお手軽(^^;に練習できるところということで,ラブ・オールという東大のサークルで週1回だけ,それこそ,軽く基礎打ちしてダブルスのゲームだけという練習に出るようになりました.東大にはスポーツ愛好会(スポ愛),TBA,スペースシャトル,ぱんぷきん,飛行船など数多くのサークルがありましたが,ラブ・オールはちょっと特殊で当時は(今でも?)丁友会という工学部の組織の傘下のサークルだったので,男子は3年から,それも工学部中心(もちろん他学部の学生もいますが)で,工学部はほとんど大学院に進学しますから,M2までは実質現役?というところでした.ですから大学院から入っても全然普通に違和感なく入れてありがたかったです.女子はお茶の水女子大が中心でした(女子は普通?に1年から入る).東大のサークルはだいたいそうなのですが,女子はとても少ないので,お茶大,東女,本女などの他(女子)大学から「調達(^^;」してくるところがほとんどでした.

 ラブ・オールには実は3年になったとき,同期のK上やK野と冷やかし半分で練習に出たことがありました.でもその時は何回か行ってそのうち行かなくなりました.ただ,1年のときまで東大バドミントン部にいたM山がキャプテンをしていて,彼は経験者なので私が1年のときは全然かなわなかったのですが,3年の時点ではもう私の方が強くなっていて(そりゃー練習してますからね),ちょっと(かなり?)嬉しかったのを憶えています.

 ちなみにラブ・オールという(ちょっと恥ずかしい(^^;?)名前は多分バドミントンのゲームが始まるときに「ラブ(0のこと)オール.プレイ.」と言うのとラブ(愛)をかけているのだと思いますが,チームウェアに「Love All」って書いてあると,やっぱりちょっと気恥ずかしくないですか(^^;?(ごめん)

 大学院に入ってラブ・オールの練習に出ることになったのですが,私は大学で4年間,バドミントン部で練習してきたのでもちろん相当強い方ではあったのですが,私より強い人も,Cばさん,K崎さん,N名さん,T橋さん,Y本さん,K嶋などごろごろいました.中にはT橋さんのように高校時代実績のある人もいましたが,大学からバドミントンを始めてスポ愛などで大学4年間やってラブ・オールに流れてきたという人もいました.私はバドミントン部で練習してきたのに...とも思ったのですが,サークルとは言え彼らも相当練習していたようです.ですからレベル的には結構いい練習相手だったと思います.

 試合は東大リーグと言って,東大のサークル間のリーグ戦が年2回ほどありました.UBF(関東のバドミントンサークル連盟)の試合には当時はラブ・オールからは出ていませんでしたね.でも東大のラブ・オール以外のサークルにも強い奴はごろごろいました.東大バドミントン部も参加していて「本チャン」と言われて敬意を表されて?いましたが,当時,即ち,私が大学院にいたときに東大で一番強かったのは,「本チャン」の選手ではなく,TBAのS部でした.彼は学年は私より1つ下で,つまり,Mと同期ですが,入学時に一度バドミントン部の練習に出たらしいのですが,「アニマル(^^;」などの前時代的な練習方法が嫌ですぐやめたらしいです.

 東大リーグで確かMはS部に勝ったと思いますが,Mが卒業した次の学年のときは,A瀬が決勝でS部に負けたと思います.S部は,東大の助手になってしばらく文京区でプレーしていました.彼とは何年か後に文京区大会の決勝で当たることになります.その後,福岡に行って全日本教職員にも出ていたと思うのですが,そう言えば私が出るようになってからは見ませんね(もうバドミントンやめたのかな?).という感じで,まあサークルでしたが,それなりにバドミントンもやってました.

 でもそんなことより(^^;,サークルには女の子が沢山いるのが楽しかったです.ラブ・オールはできてからまだ2,3年という感じで,多分,私が入った年くらいから本格的?にお茶大へ勧誘に行くようになり,毎年何十人という1年生の女の子が入会したと思います.こういうサークルにはありがちですが,まあ(私も)いろいろありました.実際,サークル内で結婚したペアも数知れずです.

 東大バドミントン部の同期で仲が良くていっしょに練習に出ていたK野もサークル内で結婚しました.確かそれがラブ・オール内第一号(だったかな?)ということで,練習が終わった後,いつもご飯を食べに行く「カフェテラス本郷」で何十人とすし詰め状態(^^;で2次会をやりました.司会はもちろん?私がやりました.かなり入念に準備して相当盛り上がりましたが,一番盛り上がったのは,最後に2人でバドミントン(羽根突き)をしてもらって何回続くかというクイズをしたときに,まあ2人ともバドミントンのサークル(K野は東大バドミントン部)でやってるわけですから,相当続くとみんな予想したのに,K野がサーブをいきなり天井にぶつけて,結局0回!に終わったときでしたね(^^;.

 そんな感じでラブ・オール時代,即ち,大学院時代(M1からD1くらいまでか)は楽しかったですね.バドミントンもラブ・オールに入った頃はなかなか勝てなかった相手に対してもだんだん勝てるようになってきました.大学3,4年の練習成果が2,3年遅れで出てきたんですかね.バドミントンってそういうことが結構あるんですよね.夏や春にだいたい信州あたりで合宿があって(サークルの合宿はバドミントン部の合宿とは全然!違ってとにかく楽しいの一言です),そこでシングルのトーナメントがあるのですが,入った頃はなかなか勝てなかったのですが,最後の試合では優勝しました.

 ラブ・オール時代のいい思い出としては,後輩のN村が国技館近くの横網の体育館で練習していたNTT東京(今のNTT東日本)の練習にラブ・オール全員を招待?してくれたことですかね.というのは,彼のお父さんというのがNTTの関東支社長(^^;で,まあNTT東京のバドミントン部にして見れば,ちょーお偉いさんから「息子がバドミントンやってるんだ.すまんがよろしく頼むよ.」て言われたみたいな感じでしょうか(^^;?当時のNTT東京は実業団の中で,つまり日本の中で(今のNTT東日本より)圧倒的な存在のチームでした.

 当日は,当時監督の池田さんが出迎えてくれました.女の子なんかはキャーキャー騒いで,みんな結構ミーハーしてましたね.当時男子シングルの全日本チャンピオンの西山さんもいました.近くで見ると筋肉隆々でしたね.最初は基礎打ちからやるのですが,私はもちろん西山さんのところに飛んでいきました.もちろん手加減してくれているのでしょうが,意外と普通?にちゃんと基礎打ちができて嬉しかったです.その後,ダブルスのゲームをやりましたが,アップの時に軽い「アニマル(^^;」を何年ぶりかにやらされた(^^;ので,あまりちゃんと動けずにちょっと残念でした.でも練習が終わった後,池田さんに,君が一番ちゃんとプレーしていたよ,と言われて嬉しかったです.練習の後,軽く飲みに行って,色紙にサインしてもらって(^^;,何枚か東大バドミントン部に持っていって配り(自慢し)ました(^^;.

 まあそんな感じでラブ・オール時代は楽しいことが多かったのですが,レベル的にはだんだん物足らなくなってきました.何度も書いてますが,バドミントンはとにかく激しい(^^;のでそのうちやめる(他のスポーツに鞍替えする)つもりでしたが,まあ30くらいまではやるつもりでした.そういう話を東大バドミントン部同期のK野にしたら,彼が「文京区総合体育館に社会人のサークル募集みたいな掲示とかが出てるんじゃない?」と提案?してくれました.文京区総合体育館というのはラブ・オールがいつも練習していた体育館です(今でもそうですね).そしてその時見たのが社会人のサークルであるプーナの募集貼り紙でした.おそらく,その日の夜に会長のK村さんに電話したと思います.いかにもスポーツ選手で好青年という感じの電話の受け答えでとても好印象をもったのを憶えています(でも後日,本人に会ってちょっとびっくり(^^;).そして,だいたい日曜に文京区総合体育館で12:30〜18:00!に練習してるからということで早速行ってみることにしました(つづく(^^;).

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8/27'06
私のバドミントンライフ?
(4)プーナに入った頃

 会長のK村さんに電話した週の週末,12:30から練習ということで,早速12:30頃文京区総合体育館に行きました.プーナの練習は基本的に今でも日曜の12:30〜18:00なのですが,12:30という練習が始まる時間に行ったのはこのときが最初で最後(^^;のような気がします.K村さんが暖かく迎えてくれたのですが,電話の印象と違ってスポーツ選手というにはかなり体格がいい(^^;のにちょっとびっくりしました(ごめん!).最初に打ったのは今でもはっきり憶えていますがN嶋君でした.まず基礎打ちのドライブからやったと思いますが,打ってみてこりゃかなりレベルが高いところだなと手応えを感じて嬉しかったです.N嶋君とはそれ以来ずっとライバル関係?みたいものが続いたと思います.最初の頃は私の方が勝っていたと思いますが,最近は大分分が悪い感じでしたね.

 ちなみにプーナというのは,日本では「定説」となっている「1873年,イギリスのポーフォート公爵邸でインド帰りの将校がインドのプーナ地方に伝わる遊びとして紹介し,公爵の邸宅の名にちなんでバドミントンと名付けた」,つまり,プーナはバドミントン発祥の地ということになっていて,プーナこれをクラブ名としてとったものです.実際,文京区のプーナ以外にも時々見ます(ラブ・オールも).しかし,この説はどうも違うようです.というのは,イギリスには古くから「バトルドアンドシャトルコック」という遊びがあり,ポーフォート公爵のバドミントンハウスで盛んに行われていたからです.

 さて,当時のプーナですが,N嶋君以外にも強い人はほんとごろごろいました.Hさん,O本さん,T中Aちゃん,彼らは当時文京区の1部でプレーしていて雲の上の存在でした.T中Aちゃんと初めてシングルをやって,それこそぼこぼこにやられたのを今でもはっきり憶えています.2部でプレーしていたS井さんにも最初にシングルをやったときは2-0で負けました(でもおそらく彼に負けたのはその時だけだと思います).

 私がプーナに入ったのがD1の7月で,最初の試合が9月の文京区のシングルでした.私は初参加なので3部に出ました.プーナからも結構沢山出ていて,1〜3回戦の相手は憶えていませんが,準決勝がI丸さん,決勝がT澤さんと,途中から身内の争いになりました.決勝は5試合目だったので足がつりそう(^^;になりましたが,何とか優勝することができました.N嶋君も私が入る少し前にプーナに入ったばかりで彼もこの大会に出る予定だったと思うのですが,彼は出ていなかったと思います.でも後にも先にも公式な試合での個人戦の「優勝」はこのときだけです.

 まあ私の文京区デビュー?はそんな感じで順調な滑り出しだったのですが,そんなことより,この大会で私のバドミントンライフ?にとって決定的かつ衝撃的な場面に出くわすことになります.私が出たのは3部だったのですが,1部にはプーナのそれこそエース達が出ていました.この時,Hさん,O本さんが出ていたかどうかは憶えていませんが,はっきり憶えているのは,私がぼこぼこに負けたT中Aちゃんが確か準々決勝くらいでぼこぼこに負けていました.そして衝撃的だったのはその相手が「おじさん」だったことです.でも「おじさん」なのにめちゃめちゃ強い!動きは速いし,スマッシュは速いし,体力は無尽蔵でどんな球も拾うし,しかも動きやフォームは格好いいし,体はめちゃめちゃ引き締まってるし,なんか悪い夢?を見ているような不思議な光景でした.その「おじさん」がM井さんです.

 いったい何者だ?と思ってすぐプーナの誰かにきいたと思います.なんと40代の全日本チャンピオンということでした.全日本チャンピオンのプレーを間近で見たのも初めてでしたし(西山さんと打ってもらったことはありましたが(^^;),そのあまりの強さにも驚きましたし,そんな人が文京区にいることもびっくりでした.と,同時にバドミントンに「シニアの世界」があること,そのレベルの高さも思い知りました.そして,単純に「へーー,バドミントンって30過ぎても,いや,40過ぎてもできるんだ.しかもこんなに高いレベルで.」と感動すらしました.

 何度も書いているように私はバドミントンは30くらいまでしかできないと思い込んでいましたので,その考えを根本からひっくり返されたことになります.私は結局44までプレーしたことになりますが,あのときM井さんを見ていなかったらこの歳までプレーすることはなかったと思います.それ位,私にとって衝撃的なことでした.

 ただ,プーナの練習はレベルはラブ・オールより高かったですが,週1回で,しかもやはりダブルスが中心だったので,練習量はそんなに増えたわけではありませんでした.でもプーナって社会人のサークルなんですが,みんなとても大人で何というかとても居心地がよくて,ラブ・オールとはまた違ったいいところでした.これまでいろんなサークルを見てきましたが,プーナくらい雰囲気がいいところはそうそうないと思います.

 ただ週1回の練習では物足りないと思っていて,確かその年の暮れか明けて2月くらいにプーナで越後湯沢にスキーに行って,プーナでスキーに行くと駅前の「ささ」という飲み屋で飲むのが慣例(^^;なんですが,その時,週一では物足りないというような話をS井さんにしたら,木曜に本郷3丁目の駅裏にある文京二中(今の本郷台中)で練習してるから来ないか,と誘ってくださいました.二つ返事で行く行く(^^)と言ったと思います.そのときから週2回練習するようになりました.

 木曜の二中の練習はS井さんとシングルの練習を中心にやっていましたが,あるとき,ふっとM井さんが顔を出してくれました.そして,初めてシングルをやってもらいました.強かった...ていうか,ほんと全然相手にならなかった.とにかく驚いたのはその文字通り無尽蔵の体力でした.M井さんは明らかに繋いでくれていて,私が打った球が永遠と(^^;返ってきて,つまり,私がミスするまでラリーが続くわけです.私も繋ぐタイプのプレーヤーなのでラリーはとても長くなり,M井さんの体力の前にそれこそあっと言う間にへろへろになってしまったと思います.なんせ40代の全日本チャンピオンです.でも全日本シニアのレベルの高さを身を以て知ることができたと思います.そして,そのときかどうかはよく憶えていないのですが,というか,M井さんから言われたかどうかも実は定かではないのですが(^^;,今の感じで頑張れば40になったとき全日本に出られるんじゃない?みたいなことを言われたと思います.

 ここでも書いてますが,大学からバドミントンを始めて,関東リーグ3部の東大バドミントン部の10番にぎりぎり滑り込んだ程度の私が「全日本」に出られるなんて,ほんと夢のまた夢のような話でした.そのとき40までは頑張って続けてみようと決心したと思います.M井さんとプレーして,もちろん,最初は全然相手にならないのですが,彼は全日本「チャンピオン」ですから,彼に勝つのは無理でも彼と何とか「ゲームになる」レベルまで行けば全日本に出れて何回か勝てるところまで行けるのではないか,という割と明確なイメージをもつことができたことも大きかったと思います.プーナのK西君(だったかな?)が,「この間飲んだとき,M井さんが「境が意外と(^^;強くなるんじゃないかなー」って言ってたよ」なんてことを言ってくれたことも(真偽はともかく)大きな支えになってましたね.

 文京区はとてもバドミントンが盛んなところでその気になれば,毎日どこかで練習をやっていました.当時一番レベルが高かったのは,茗荷谷の文京一中でした.Hさん,O本さん,T中Aちゃんなどの当時プーナのそうそうたるメンバーがそこで練習しているのは知っていましたが,私は怖くて(^^;なかなか行けませんでした.でもある日意を決して?行きました.今は新しい体育館になってますが,当時はとても古い体育館で,雰囲気も殺気だった(^^;ものすごいものでした.そしてプーナ以上にレベルが高かったです.M井さんもそこで練習していました.そして,そこでM井さんともう1人の「超人」に出会うことになります.Y田先生です.

 当時一中に「新人」が行くとまずY田先生とシングルをやる,というのが慣例みたいになっていました.Y田先生は昭和2年生まれですから(まだご健在でプレーしておられる!とのことです),当時60は過ぎていたと思います.つまりM井さんが「おじさん」なら,Y田先生は「おじいさん」ということになります.そのおじいさんとシングルをやるわけです.いくらなんでも負けるわけは...そして...負けました(T_T).実は彼も60代の全日本チャンピオンだったのでした.なんで文京区にはそんなのばっかりいるの?とか思ってたら超人がもう1人いたのでした.家庭婦人(今は言い方が確か変わっている)のチャンピオンのK守さんもいたのでした(^^;.文京区って(当時は)ほんととんでもないところでしたね.

 一中の練習もダブルスが中心でしたが,みんな疲れて(^^;コートが空いてくるとシングルもできました.M井さんに「境君,じゃあシングルやろうか」とよく声をかけていただいてほんと何十試合も相手をしていただきました.最初は全然相手にならなかったのですが,だんだん「ゲームになることもある」ようにもなり,Y田先生にもそのうち(でも大分かかりました)勝つことができました.

 次の年(D2の年)の文京区シングルは前年3部で優勝していたので昇格して2部に出ました.事前予想は,一中で練習していたメンバーの1人のK後さんが圧倒的な優勝候補だったと思います.私も一中で何回か打ったことがありましたが強かったですねー.とにかくスピードがあった.トーナメント表を見ると準々決勝で私と当たることになっていました.そして,その準々決勝,ものすごい(^^;試合になりました.1ゲーム目はあっさりとられたと思いますが,私はとにかくひたすら繋いで繋いでとにかくK後さんの体力を消耗させようと考えていました.そして,目論見通り(でもほんとしんどかった)2ゲーム目,3ゲーム目を何とか取って勝つことができました.この試合は私のこれまでの数多くの試合の中でも会心の試合の1つですが,他の人,例えば,S井さんはこの試合のことをよく憶えていてくれて,見てるだけで疲れた(^^;とか,あのときはすごかったねー,とか最近になっても言ってくれて嬉しかったですね.

 準決勝はN嶋君でした.内容的には負けていたと思います.でも終盤ひっくり返して,それこそ,内容で負けて勝負に勝ったような感じでした.そういう勝負強さが当時はありましたねー.そして,決勝がS部でした.準々決勝,準決勝と壮絶(^^;な試合が続いたので(言い訳),決勝ではあまりいいところなく負けてしまったと思います.でもS部と言えば,ラブ・オール時代に書いたように,東大バドミントン部を押さえて東大で一番強かった奴(その後彼も一中で練習していた)ですから,そんな奴とまあちゃんとゲームになるゲームができたのは私にとってやはり大きな進歩だったと思います.実際,S部も私が強くなったことに驚いた,と言っていた,と誰かからききました.そして,何より2部で準優勝ということは,私もめでたく文京区1部昇格となったわけでした.つまり,プーナに入った頃,雲の上の存在だった,Hさん,O本さん,T中Aちゃんと同じ土俵に上がることになったわけです.実際,一中の練習なんかでもいつの間にか?彼らとちゃんとまともに打てるようになっていたと思います.プーナに入って1年ちょっとですから,今思い返してみれば,この時期が一番伸びたような気がします(つづく(^^;).

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8/28'06
私のバドミントンライフ?
(5)文京区時代

 プーナに入って1,2年した頃から,週2,3回はいろんなところで練習するようになりました.練習場所は,水曜が一中,あるいは,総合体育館の一般開放,木曜が二中,金曜が茗荷谷のスポーツセンターの一般開放,土曜が茗荷谷の窪町小,日曜がプーナで,自分のその週の予定に応じて行ける曜日を選んでいましたが,水曜の一中と日曜のプーナが中心だったと思います.金曜の茗荷谷のスポーツセンターの一般開放ではM井さんが指導員をしておられて,ここでも後半はコートが空いてくるので大分シングルの相手をしていただきました.また,東大に御殿下体育館ができたので,バドミントンが強い奴を誘ったり誘われたりしてシングルの練習もしてました.最初,練習していたのは,東大バドミントン部時代で書いた私の現役時代の6単入りを阻んだ(^^;K田でしたかね.

 今でも憶えているのは,D3の博士論文提出1週間前!という大変な時期に御殿下でK田とシングルやっていたことですね(^^;.ちょうどそこを通りかかったラブ・オールにいたN名さん(彼は卒業後,某大手銀行に就職していたがやめて東大の体育関係に入り直し,そして東大バドミントン部にも入った.つまり先輩だが,東大バドミントン部では後輩(^^;.今はお茶の水女子大の先生)に強くなったねー,と言われたことも嬉しかったのでよく憶えています.強くなったかどうかって,例えば試合の成績なんかは対戦相手も練習して強くなるので,実はよくわからなかったりするものですが,N名さんのようにバドミントンのことがよくわかってる人が久しぶりに見てプレーが違うということがわかれば他人より強くなっているかはともかく少なくとも自分の中では強くなっていることが確認できるわけです.

 あとは,ラブ・オール(の練習にも時々出ていました)に入ってきてかなり強かったK日ともよく練習しました.彼は物理の博士課程にいて,神岡で時々山籠もり(^^;をしていて,そのときバドミントンができないので,どうしたらいいですかねー,とかきかれて,スクワットでもやってれば?とかてきとー(^^;なことを言ったら,ほんとにやってたみたいで,山籠もりから帰ってきてシングルやったらすげー強くなっていてびっくりしました.バドミントンはやっぱフィジカルのトレーニングが重要なんですね.でも一番驚いたのは,彼が就職の時,専門は物理だがプログラミングなど仕事はばりばりにできるし,素粒子物理,株と対象が違ってもやり方は結局同じです(私も全くその通りだと思いますねー)と面接でぶちかまして(^^;?N村證券(総研?)!に行ったことですかね.

 無事博士論文を提出して卒業して東大地震研に就職した後もペースは全く変わりませんでした.でも私が行った南先生の研究室は「その日の流れで」夜飲むことが多かったのですが,練習の日は練習に行ったこともあったのでそれはちょっと後ろめたかったですかね.このコーナーのあちこちで書いているように私は就職した後,いろいろ思い悩むようになり,ほんとに苦しい30代を過ごしましたが,どういうわけか,バドミントンはさほど効力感を失うことがなく続けられました(まあそんなにばりばりにやってたわけではないというのもあると思いますけど).

 バドミントンってほんと不思議なんですけど,プレーしている間って他のことが全く考えられないんですよ.私の場合,仕事をしたり,ピアノを弾いたり,スキーをしたり,他のどんなことをしていてもそれ以外の「雑念」が結構浮かぶんですが,バドミントンだけは全くそういうことがありません.ですから「気分転換」としてはもってこいでした.

 筑波大バドミントン部の監督だった阿部先生と東京からの高速バスの中でたまたまいっしょになったときそういう話をしたら,それは相手に合わせないといけないからですよ,と言われてなるほどと思いました.つまり,バドミントンはコートの向こうに相手がいて,相手が打ってくる球に対して「否応なしに」対応しないといけないので他のことを考える余裕がなくて雑念が浮かばないわけです.仕事もピアノもスキーも「自分から動く」ものは,余裕がある?ので逆に雑念が浮かぶんですね.

 ただ一度だけバドミントンをしていてもどうしても雑念?が浮かんでしまったときがあって,それは,当時つき合っていた人と結婚できなくなってしまったとき,いや,1回目(^^;にふられたときでしたかね.ですから1992年の夏頃の就職2年目ですね.確かその時はプーナでO本さんとシングルをしていて,でもどうしようもなくて,その頃はもうO本さんにはだいたい勝っていたと思うのですが確か負けてしまって,周りで見ていても様子がおかしいのがわかったみたいで,どういうわけかプーナのW坂やKさんなどの女性陣がとても心配してくれて,その後,飲みに行って随分慰めてもらったのを憶えています.プーナってほんとにいいところでしたねー.そう言えばちょうどその頃,九大バドミントン部でプレーしていた妹もプーナに一度遊びに来たのを思い出しました.

 プーナと一中の週2回,あるいは,そのどちらかの練習に行けないときややる気になったとき(^^;は,素振りやフットワークなどのトレーニングもしていました.場所は地震研の建物(今の旧館,いや2号館?)の北側の地下の「秘密の場所(^^;」でした.だいたいバドミントンのコートの広さがあってちょうどよかったですねー.年に2回,地震研全員でやる屋外の掃除があるのですが,そのときは私は真っ先に「秘密の場所(^^;」に行ってそこをきれいにしました(^^;.雨の日は地震研の南側の玄関のちょうど真下のスペースでやりました.ただ広さはバドミントンのコートよりちょっと狭かったので,雨でなければ北側でやってましたね.トレーニングの後は,地震研にはお風呂があったのでさっぱり汗を流して,その後また仕事をしていました.私が特殊?なのかもしれませんが,運動して体が疲れると頭は逆に元気になったりするんですよね.つくばに来てそういう「秘密の場所」を随分探したんですけど,とうとう見つけられずそういうトレーニングをできなくなったのも弱くなった原因ですかね?

 そんな感じで30代は,仕事や日常はいろいろしんどいことも多かったのですが,バドミントンは40になったときに全日本に出るという目標もあって,まあ仕事が忙しい中もそれなりに頑張って練習してたと思います.UCバークレーに行った10ヶ月の間もバドミントンはできませんでしたが,走ったり素振りやフットワークなども暇を見つけてはやっていました.家は一軒家を借りることができたのですが,まずチェックしたのは家の中で素振りができるだけの天井の高さがあるかどうかでした(ばっちりでした).そして,何と居間と台所を使って前後のフットワークもできたのでした(^^;.ただ素振りしたりフットワークしたりするのはしんどいので,前とか後とかの指示をパソコンに出させるプログラムを組んだりしてました(^^;.横で妻がなーにやってんの?みたいな感じでにこにこしながら見てましたね(^^;.

 バークレーから帰ってきて初めてプーナの練習に出たときはちゃんと打てるかさすがに不安でしたが,意外と大丈夫でしたね.その後も,バークレーに行く前と同じようなペースで練習していたと思います.御殿下のパートナーは,千葉大バドミントン部出身で卒業後は文京区でS部とダブルスを組んでかなり活躍していたK澤さんやここで紹介したY野君などでした.K澤さんは,東大バドミントン部で言うとY梨さんと同期で,Y梨さんのことを,あー,あのスマッシュゴリラ(^^;と呼んでいたのはかなり笑えました.Y梨さんの文字通り破壊力のあるものすごいスマッシュは当時から有名でしたからねー.彼がスマッシュを打ってその瞬間にシャトルがつぶれてコートのはるか彼方(^^;に飛んでいくのを何度も目撃しました(^^;.

 Y野君はここでも書いたようにほんとに強くて私にとって今までで最高の練習相手だったと思います.彼にしてみれば私なんかと練習するよりもっと強い人とやった方がよかったのでしょうが,当時東大の中にそこそこ強いのが私くらいしかいなかったのが私にとってラッキーでしたね.でもシングルで1ゲーム取ることもありましたし,なんとか練習相手にはなっていたと思います.そういうことを考えるとその頃と比べて最近は大分弱くなってしまっていたんだなーと思いますね.実際,彼と練習していた頃が自分でも一番強かったと思います.ただその年(N山君がいたときだからここを見ると1998年くらい?)は,建築学会と文京区のシングルが重なって出られなかったのがとても残念でした.その時はY野君が文京区のシングルに出て,文京区でずっと勝っていたU村をやぶって優勝してくれました.彼は去年30になって全日本シニアデビューとなり,去年の全日本社会人の時,筑波大バドミントン部の飲み会に顔を出してくれたとき,優勝を狙うと言ってましたが,相当上の方まで行って優勝した人に惜しいところで負けてしまったようです.

 Y野君が行きたいと言うのでU村さんが主催するJOYの練習にもK村さんに秘密で(^^;行ったこともありましたね.とてもいい,でもとてもきつい練習をしていました(^^;.でも考えてみれば,筑波大に来て出た筑波大バドミントン部の練習の方が全然きつかったですかね(^^;(当たり前か).そう言えばU村さんもそろそろ40じゃないですかね.あんなのが40代に上がって来たら,ほんとどうしようもないですね.U村さんとも文京区シングルで何回も対戦しましたが,あのレベルだと全く歯が立たなかったです.前でフェイントがかけられる一番嫌なタイプでしたし.

 それ以外では,東大バドミントン部の練習は駒場であるのですが,本郷の学生は駒場まで行くのは大変なので練習日以外に時々御殿下で練習していたときにいっしょに練習していた時期もありました.S本君やH部君やK田君がいた頃です.

 試合の方は,文京区のシングルは1部に上がってからはU村,T本,M井さんなど全日本クラスの選手がごろごろいたこともあり,なかなか勝てませんでしたが,ダブルスはT中Aちゃんと組んで3位まで行ったことがありました.でもよく考えてみると,ダブルスって2人で組みますから,「人間の数」で数えれば,ダブルスのベスト4ってシングルのベスト8「相当」ですよね.ですから,よりよい成績を収めたかったらダブルスの方が「コストパフォーマンス」がいいということになります.でもまあ私もそう考えたこともあったのですが,ダブルスはパートナーに恵まれることも必要ですし,シニアの世界ではシングルはもうしんどいけどダブルスならという感じで往年の名選手が結構出てくるので,そういうことも考えてシングルを目指したということもあります.

 そうそう,何とK村さんと組んで3位に入ったこともありましたね.途中,筑波大バドミントン部の総監督?をしておられたO本さんとの対戦もありました.当時は彼がそんな人だとは全然知りませんでした(^^;.でもこの間,東大バドミントン部の同期で飲んだときはみんな知ってました.当時は東大と筑波大とは定期戦もありましたからね.

 文京区大会にはヨネックス(湯島に会社がある)の選手も出てきてましたね.私が出ていた頃に見たのは捧さんでしたが,かわいかったですねー.私が文京区の試合に出る前は陣内さんも出たことがあるそうです.かわいかったよー,とラブ・オールにいたK崎さんが言ってました(^^;.でも優勝できなかったそうです(負けた相手はM井さん?).

 この頃の忘れられない試合は,1996年,即ち,バークレーから帰ってきた年の都大会のシングルですかね.都大会はだいたい荒川区のスポーツセンターであるんですけど,この年は,中央線(いや,青梅線かな)の田舎の方であって,そのせいか参加者が少なく,組み合わせにも恵まれて準決勝まで行ってA賀さんと対戦した試合でした.彼は当時(今でも?)めちゃめちゃ強くて,でも確かもう40は過ぎてたと思うのですが30代に出てきて(全くいい迷惑(^^;),私にとって雲の上の存在でした(M井さんも勝てなかったくらいですから).

 全くゲームにすらならないと思っていたのですが...結果的に負けましたがかなり健闘していい試合ができたと思います.フォア奥を中心に攻めたのですが,フォア奥に打つまでの組立を考え,実際そういう風にラリーができたという私なりに「うまく行った」試合でした.試合を見ていたM井さんも驚いていました.でも文京区のシングルでK後さんに勝って以来の大物食いの本領発揮か?とも思ったのですが,勝つことはできませんでした.負けてもいい印象が残ってる試合はこの試合だけです.

 ただ残念だったのは,その後の3位決定戦で,2ゲーム目の途中まで圧倒的にリードしながら,ひっくり返されて負けてしまったことですかね.このときのことがトラウマというわけではないと思うのですが,その後,私は同じようなパターンでファイナルで負けることがとても多くなってしまったような気がします.やっぱり肩関節が硬いので可動域が狭く,ゲームが続くに従ってショットが読まれやすくなってくるんですかねー.でも次の年の組み合わせを見たたときは,ちゃんとシードされていて(第3シードで右上に名前があった)ちょっと嬉しかったです(^^).

 まあそんな感じでバドミントンに関してはそれなりに充実した?30代を過ごしていよいよ40になり(^^;,全日本に挑戦することになります.全日本で年代別のものがあるものというと全日本シニアと全日本教職員があるのですが,幸い私は「教職員」だったので,私でも何とかなりそうな全日本教職員に挑戦することにしました.これも幸いなことに40になった年は関東(甲府)で開催でした(つづく(^^;).

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 また悲惨な事故(事件?)が起こってしまいましたね.ニュースを見ているだけでいたたまれないです.自ら命を絶つことはリカバーできないから絶対すべきではないと書きましたが,それは人の命を奪うことに対しても全く同じです.それにしても飲酒運転ってどうしてなくならないと思います?もちろん「飲んだら乗るな」が絶対大原則です.というか,そういう風に言われていますよね.飲んだら運転能力が落ちる,だから乗るな,という発想ですよね.でも私はそれが最大の落とし穴だと思います.なぜなら「飲んで」しまったらもうその時点で判断能力が落ちてしまって「乗ってはいけない」という判断ができなくなってしまう可能性があるからです(全くのしらふのときに飲酒運転するか?ときかれて,運転すると堂々と答えるような人は問題外です.立派な「未必の故意」による殺人者です.).

 だったらどうすればいいでしょうか?極論すれば人間の冷静な判断能力を失わせる酒なんか飲んではいけないということになります.でも,さすがにそれは現実的に難しいでしょうから,少なくとも冷静な判断ができない状態になるまで飲んではいけない,ということでしょう.酒を飲んで嫌なことを忘れるのが目的なんだからそんなんでは飲む意味がない!と言う人もいるかもしれません.実際,夜東京の街を歩いているとそれこそ前後不覚になって道をさまよっているような人はいくらでもいます.昨日もつくばの街を走っていたらお祭りがあったみたいで酔っ払いが千鳥足でうろうろしていて何度もぶつかりそうになりました.

 私はそんなに飲む方ではありませんが,飲みながらいろんな人といろんな話をするのは大好きです.でも前後不覚になるまで飲んだことは一度もありません.まあそんなに強くないのでそういうところまで酒が入らないということはありますが,それでも充分いい気分にはなれます.そもそもちゃんと話ができないような状態の人と話していても楽しいわけありません.

 よく「記憶がなくなるほど飲んだ」ことを武勇伝のように自慢げに話す人がいますが,飲酒運転をするのはそういう人でしょう.つまり自分で自分をコントロールできない人です.一度記憶をなくすようなことがあると怖くてある一定以上は飲めなくなるものですが(だって記憶がないということは自分の行動に一切責任をもてなくなるんですから),何度も繰り返してしまう人もいるようです.まだ判断力が残ってる時点でこれ以上飲むと判断力をなくすと思っても更に飲んでしまうということは,もうその時点で判断力を失っているようなもので,そういう状態で運転もしてしまうでしょう.そしてそういう人はいつか大失敗をすることになります.飲酒運転に限らず「酒の席」での失敗談はいくらでもあります.そして「酒の席」だからということで許されることは実際にはまずありません.

 赤ん坊のような判断しかできず,まともに歩けないような大の大人が平気で危険な街中をほっつき歩けば危険な目に会うことも目に見えています.駅のホームから転落するかもしれません.本人が大失敗をするのは自業自得でしょうが,それに巻き込まれる方はたまったものではありません.ましてや命を奪われれば絶対にリカバーできません.そして奪った方もリカバーできないでしょう.

 車は「凶器」です.こんなこと書くと自動車メーカーからクレームが来そうですが,「人の命を奪う可能性がある」という意味ではまさに「凶器」です.それは料理するのに必要な包丁が凶器になることと全く同じです.飲酒運転の罰則を強化するだけではなかなか問題の解決にはならないと思います.

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8/29'06
私のバドミントンライフ?
(6)初めての全日本挑戦
(2002年全日本教職員バドミントン大会(於甲府))

 いよいよ(^^;40になったということで全日本教職員に挑戦することになりました.ただ,これもどこかで書きましたが,40になったときは,この10年間,即ち,30代いったいなにやってきたんだろ?という心境で暗澹たる気持ちになりました.30になったときと対照的でした.でもバドミントンは唯一?それなりにできる範囲でですが頑張ってきたと思います.そういう意味では念願の全日本挑戦はとても重要なものでした.ちなみに全日本教職員というのは,対象は教職員に限られますが(実際は出場資格がびみょーな人も結構出てますが),一般の部では2位までに入ると全日本総合の出場権が得られる(ベスト4だと予選から)ように,日本で全国を対象として行われる最高ランクのいわゆる「第1種年次大会」です.

 まず,東京都の教職員連盟に連絡したと思います.市ヶ谷(だったかな?)で週1回練習会をしているので来てくださいとのことでした.そこには一中の練習に時々来ていたI井さんもいらっしゃいました.I井さんが中学の先生だったとは,それまで全然知らなかったのでした(^^;.向こうも結構びっくりしていて,なんだそうだとわかっていたらダブルス組めたのに,と残念がってもいただきました(^^;.

 ただ,東京都から出たのはこの年1年だけですが,実は思い出したくもない思い出があります.全日本教職員は個人戦だけではなく団体戦もあるのですが,東京都は壮年(30代,40代,50代の3ダブルス)からもチームを出していました.それで選考会をやるというので目白学園(だったかな?)まで行ってI井さんと組んで優勝しました.でも帰り際に他の人に出てもらうと告げられました.私は「はぁ?」てなもんです.今回の選考会に出てない人もいる,春の東京都の教職員大会やこれまでの実績も参考にする,などと説明されましたが全然納得できませんでした.だったら私は始めからこの選考会に出てどんなに好成績を収めても(ていうか実際優勝したわけですし)選ばれなかったわけです.じゃあ一体何のための選考会だったのでしょうか?そんなことなら最初からお前は出ても無駄だから出るなと言ってくれ(それもすごいことですよね)ってなもんです.当時(今でも?)の役員?の人に相当噛みつきましたが,ばからしくなって引き下がりました.でも,もちろん今でも納得していません.どうにもおさまりがつかず,K澤さんとか東大バドミントン部の後輩のS村とかに怒り?のメールを送ったりしてしまいましたが,みんないっしょになって怒ってくれました(^^;.

 そうそう,そう言えばS村とも御殿下で練習してましたね.彼女はプーナにも入れたのですが,プーナのよさが彼女も身に浸みたようで,なんか「居場所」が見つけられたような気がします,とか言ってました.でも彼女もプーナではちょっといろいろあって,その後随分大変な思いをしたようで,でも今では落ち着いたようです(最近連絡ないけどどうしてるかな?).

 ということで個人戦のみの出場となりました.ダブルスは実は出るつもりはなかったのですが(ダブル,シングルと2日続くのでシングルに集中したかった)パートナーを「あてがわれ」たので仕方なく?出たのですが,そのパートナーというのがT工大のS田先生でした.彼とはそのときが初対面でしたが,彼は何と筑波大バドミントン部OBで,その後,私が筑波大に来てから,例えば,阿部先生の退官記念パーティーなどで何度か顔を合わせることになりました.でもダブルスは初戦負けでした(T_T).正直に書かせていただくと(^^;S田先生と私では相当の力量の差があったと思います(まさかS田先生この文章読んでないよな(^^;).でも翌日シングルだったのでそのためにはよかったのかもしれません.

 会場は甲府だったので,東京からなんとか電車で通いました.でも片道3時間かかるので結構大変でした.電車の中で「南先生の思い出」の原稿の整理をしていたのを憶えています(もちろん私の原稿ではなく,いっぱい送られてきた他の人の原稿です(^^;).当日はかなり気合い入ってましたねー.ていうか,これも書きましたけどかなり念入りに調整しました.直前に建築学会で金沢に行ったときもホテルの周りを走ったりしてました.でも後にも先にもそれほどのことをしたのはこの年だけです.そして,一応の結果が出たのもこの年だけということになりますね.

 初戦はかなり緊張したと思います.私はピアノではめちゃめちゃ緊張するのですが,それ以外ではどんな場面でもバドミントンでも緊張することはほとんどないのですが,このときは緊張したと思います.私って(ピアノ以外は)ほとんど緊張しないし,緊張しない方がいいと思っていたのですが,「逆U字曲線」というのがあってある程度は緊張した方がいいらしいですね.でもリラックスしてるのに緊張させるのってちょっと難しそうですね.

 とにかく初戦負けだけは絶対にしたくないという気持ちでいっぱいでした.そして,初戦は最初からがんがんスマッシュ打ちまくって圧勝したと思います.ラリーを続けるよりラリーを早く終わらせて,その後の試合に体力を温存しておきたかったというのもあります.その後,もう1試合あったかどうかその直後だったかどうかはよく憶えていないのですが,2試合目か3試合目が山場でした.つまり,私は初参加なのでシード下に入れられていて,その試合が第3シードとの試合だったわけです.その試合に全精力を注ぎ込んだと思います.

 実際,ものすごい試合となりました.8月の猛暑の中,まさに体力の奪い合いでした.ファイナルまで行って最後まで相当もつれたと思います.相手はもちろん強く,スピードもあってショットもかなり速かったのですが,背が低かったのでバック奥にジャンプ気味にドリブンクリアを打って攻めてそれが奏功しました.でもほんとしんどかった.試合が終わった後,コートの横でしばらく倒れ込んでいました.全日本の大会は背中に都道府県名が入ったウェアを着ないといけないのですが,用意していた数(4枚くらいだったか?)をあっと言う間に使い切ってしまいました.このときの経験を基に,茨城に来てからは背中に茨城と入ったウェアをたくさん用意して(実は背中に茨城って入れると格安になるっていうのもあるんですけど(^^;),ウェアがなくなったときのために「茨城」と書いた布(をいざとなったら安全ピンでとめる)も準備しましたが,結果的に全くの無用の長物となってしまいました(T_T).

 でもあのときはほんと嬉しかった.なんかこの10年間の努力(ってそんなにしてないですけど(^^;)が報われたような思いでした.その頃は,試合であんまりいい結果が出ることも少なくなっていたので,そういう意味でも嬉しかったです.でも今から思えばこのときがある意味私のバドミントンライフ?の頂点でしたね.

 その日はもう1試合ありました.今は1日目でベスト4までやりますが,当時はベスト8までだったと思います.つまり,もう1回勝つとベスト8で,明日また来ないといけないわけです.ちょっとめんどくさいと思いました(^^;.でももちろん力を振り絞って頑張りました.ウェアがもうなかったので前の試合のまだ「ぐしょぐしょに濡れてる」ウェアを着てやったのでかなり気持ち悪かったです.相手はその前のシード選手と比べると格下だったと思いますが,もう体力も気力を使い切ってましたかねー.途中で何度も足がつりそうになりました(まあそうなったらシングルは「負け」なんですけど).結局,私のその年の成績はベスト16止まりということになりました.でもシード選手に勝ったのは大きかったと思います.1年目はシード下に入れられるので,そのときシード選手に勝って次の年シードされるというのが重要なわけです.でも結果的にこれも徒労に終わってしまいました(T_T).というのは,次の年に筑波大に移籍して所属が東京から茨城に変わったからです.後でわかったのですが,ベスト8まで行くとバドミントンマガジンに名前が載ったのでした(^^;.

 そんな感じで1年目の全日本挑戦はまあそれなりに満足の行くものでした.でもそれなりに満足の行く結果となったのは,この時が最初で最後になります.当時は自分では気づいてなかったと思うのですが,今にして思えば,ある一定の目標を達成した後,明らかに力が落ちていったと思います.その年の関東シニアにも出ましたが,初戦負けでしたし,都大会も40代に出ましたが惨敗だったと思います(まあ都大会の場合,30代より40代がレベルが高かったりするんですが(^^;).そして,次の年,つくばに来てからは...全くさっぱりです.やっぱり目標は達成してはいけないんですかね.

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8/30'06

 地震研時代の南研の学生のN山君(今書いてるシリーズ?私のバドミントンライフ?で出てくるY野君と引き合わせてくれた奴)から連絡があって(どうもありがとう!),私が知る限り,現在のところ本来の本場の博多ラーメンに最も近い(本場の福岡の店よりもです)みよし新宿歌舞伎町に進出したようです!早速行きたいくらい(^^;です(でも昨日委員会帰りに京橋の由○(旧福のれん)に行ったばかりですけど(^^;).よくあるパターンとして心配なのはしばらくのように味を東京向けに変えていないかどうかですね.私の場合,新宿だとちょっと足を伸ばさないといけないので(でもそのうち必ず行きます!),誰か行くことがあったら味見してきて知らせて(^^;ください(できれば本場の味がわかる博多出身希望(^^;.もちろん本場の味がわかれば全く拘らず(^^;).

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8/31'06

 バドミントンの日本ランキングが更新されたようです.脇田は28位から13位と15ランクアップですが,もっと上がるかも(上がって欲しい(^^;)と思っていたので意外と上がらなかったなー,という印象ですかね.やはりここ3年が対象なので,怪我してたのが響いちゃいますね.でも今年の試合が終われば怪我してたときの試合は対象からはずれるのでもう少しの辛抱です.

 「所属大会」,即ち,インハイ,インカレ,全日本社会人の評価が同じってのもねー.まあ,若い人に頑張ってもらおうという意図もあるんだとは思いますけど.あとはやはり国外大会のポイントがでかいです.実際上位7人は国外大会で多くのポイントを稼いでいます.例えば6位,7位の後藤,梅津と脇田の差はその国外大会のポイント差だけです.でも2004年に怪我してて国内のポイントがその辺と同じということは,実力的には5番くらいには来てるということです.ていうかポテンシャル的にはもっと上だと思いますけど.

 早坂,村松,柴村も1つだけ(^^;上がりましたね.柴村は1年でいきなりインカレでベスト4に入っ(てしまっ)たので,気持ちの持ち方が少し心配ですが,でもそれは村松もそうでしたし,もっと上を目指せると思うので頑張って欲しいです.私はそれこそ人間の反射神経の限界レベルで勝負している男子トップレベルを除けば,シングルはしっかり動いてしっかり返球できてそれを持続できればなんとかなると思っていて,柴村のまさにそういうプレースタイルでどこまで行けるか注目して見てみたいというのもあります.

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私のバドミントンライフ?
(7)つくばに来た頃

 私のバドミントンライフ?もようやく最終章です(と書いたのですが,書き出したらやっぱり(^^;長くなってしまったので,つくば編その1として,「つくばに来た頃」としました(^^;).今のままじゃだめだと相当追いつめられていた私は一念発起して筑波大の公募に応募し,幸いにも採用していただくことになりました.バドミントンをするには文京区はとても恵まれたところでしたが,まあそりゃあ仕事の方が大事ですよね.筑波大に来たのは2003年の3月で,自宅も20年近く住んだ本郷界隈からつくば市のつくばセンター近くに引っ越してきました.

 筑波大に採用が決まってから,いや,公募に応募しようと思ったときからインターネットでつくば市にあるサークルは物色していました.というか,つくば市でバドミントンがちゃんと続けていけるかどうか確認しました.サークルはいくつもあるようでした.

 最初に行ったのはBのBのでした.当時はまだM谷さんなど強い人もいて楽しめましたが,うーんなんか違和感が...すげー人が多いしなんかよそよそしい?(そのときはそう思ったのですが,その後,筑波大バドミントン部の練習が昼間で練習に出られない夏休みなどに練習に行って今では結構仲良くなりました(^^;)次に行ったのは,H鳥会T園でした.ここはこじんまりしていい雰囲気でした.でもなんか物足りない.やっぱりサークルはダブルスのゲームが中心なんですよね.ただ,H鳥会T園には当時M本君がいて彼はシングルが相当強く,大分相手をしてもらいました(彼とも結局1ゲームは取れても勝つことはできなかったですね...).彼が主催するT利出小の練習にも誘ってもらって大分練習に行きました.でも最初の頃は人も少なくてM本君やN君などとシングルも結構やれましたが,だんだん人が増えてきてシングルはそんなにできなくなっちゃいましたねー.

 BのBのに最初に行ったとき,練習が終わってM谷さんにレベルの高いサークルはどこか?ときいたら,東大バドミントン部の後輩のG藤が主催するM菱G化学の練習を紹介されました.そっか,そう言えばG藤がいたか(^^;.すぐに連絡をとって練習に行ったと思います.その時は車がまだなくて谷田部の体育館まで自転車で行きました(^^;.レベルの高さは期待通りでした.S田君なんか強すぎて相手にならなかったくらいです.しばらくはここに行ってました.G藤に誘われて牛久のBLZの練習にも行きました.BLZは女性が多いのですが,レベルも高く練習内容も充実していました.木曜のM菱G化学(実際は単にG藤が主催してるというだけでM菱G化学とは関係ない(^^;ものでした)の練習と週末のBLZを中心にしようと考えていたと思います.

 そんな折り,谷田部の練習が終わった後,G藤が何気なく「境さん,筑波大の教職員でしょ.教職員のクラブ入らないとまずいんじゃないですか?」と言ってきました.そうなん?じゃあまあ一応入っとくか,そういう感じで連絡したのがW所さんでした.水曜日に第一体育館で練習しているので一度来ませんかとのことでした.第一体育館というと筑波大バドミントン部が練習しているところです.つまり彼らが練習しているすぐ横で練習しているとのことでした.

 実は筑波大に来る前にプーナのT中Aちゃんに筑波大行くなら筑波大バドミントン部で練習すればいいじゃん,とか言われていたのですが,筑波大バドミントン部と言えば全国でもトップレベルの大学です.そんなところの練習について行けるわけもないし,レベルが違いすぎる,と思っていました.でもとても興味はありました.というか,ほんとはできることなら練習に出てみたいと思っていました.何でもそうですが,強くなりたかったらよりレベルが高いところで練習した方がいいに決まっています.

 ただいきなり行くのはさすがにちょっと怖かったです(^^;.そこで教職員の練習に出れば一度様子が見られると思いました.折しも,同じ学域のK久保先生が実験棟で天ぷらパーティーをやるので来ませんかと呼んでくれて,そのとき話をしたK久保の学生の1人がバドミントン部で(それがI井君です),彼は高校時代東京都でベスト4くらい(だったかな?)と相当強いみたいで,じゃあ今度教職員の練習に行くからその時打とうと話しました.

 そして,第一体育館に行きました.この体育館はおそらく大学時代,東大と筑波大の定期戦や関東リーグ(私が大学2年のときは東大も筑波大も同じ3部にいた)で来た体育館だと思うのですが,当時の面影は...なかったですね(^^;.まあもう20年以上前ですからね.W所さんと打ちながら練習を見ていましたが,そりゃーすごい練習でした.そのときはH坂がいなかったので,Y浦を見てこいつが一番かなと思いました.ただ結構驚いたのは,練習はもちろん厳しいのですが,雰囲気は意外と和気あいあいとしてたことですね.その後,I井君と軽くシングルをやりましたが,ぼこぼこにやられました.でも全くラリーにならない,ということはなかったと思います.その日は,阿部先生はおられず吹田先生が練習を見ておられたので,一応挨拶をしておきました.ものすごく感じがいい人だなーと思ったのを今でも憶えています(ていうかその印象は今でも全く変わってません).

 その年は阿部先生が退官される最後の年で,監督はまだ吹田先生ではなく阿部先生でしたので,ほんとにおそるおそる,筑波大バドミントン部の練習に行ってもよろしいでしょうか?というメールを出しました.阿部先生と言えば,バドミントン界では超有名人です.彼がM弘先生と書かれた本(大修館書店から出てるペラペラビデオがついてる奴(^^;)は,私が東大バドミントン部時代はバイブルのような存在でした.当然門前払いされることも覚悟していましたが,大歓迎ですという返事が来て嬉しかったですねー.

 そして筑波大バドミントン部の練習にそれこそ「意を決して」行きました.練習に出るのですから学生と同じメニューをこなさなければならないからです.でも何というか私はバドミントンのレベルは全然自信なかったですが,トレーニングについて行ける自信はなんとなくありました.まあ強靱な体力(^^;だけが取り柄ですからね.ほんとバドミントンに向いてないですよね.

 最初に行った日は,ちょっと記憶が定かではないのですが,阿部先生はいらっしゃらなかったと思います.学生達もきょとんとしていて,この人誰?みたいな感じでしたかね.まあそんなことでめげる私ではありません.一応事情を説明して練習に混ぜてもらったと思いますが,練習内容についてはよく憶えていません.でも次か次の次くらいに行ったときは阿部先生がいらっしゃって,にこにこしながら「ようこそいらっしゃいました」と出迎えてくださいました.その日,いや,初日も?準レギュラーのT澤君が相手をしてくれたと思います.トレーニングのやり方,その意義,注意点などをとても理路整然と説明してくれて,こりゃー筑波大の体専の学生はただバドミントンが強いというだけではなくとてもしっかりしてるなー,という印象を強く持ちました.

 T澤君は当時6番手くらいでしたが,運動神経抜群を絵に描いたような奴でしたね.運動神経抜群というよりは運動能力が高いと言った方がいいかもしれません.そういう点ではレギュラーより上だったと思います.それでも6番手ですからバドミントンはわからない...そうそう,彼は,東大バドミントン部の現役とそのOB, OGが集まって試合をやる「シングル選手権」に一度R人君といっしょに連れていきましたが,もちろんあっさり優勝しました(^^;.

 その頃の練習でよく憶えているのは,ハードなトレーニングに私も必死でついて行ったのですが,私なんかより全然ついてこれない1年生の女の子がいて,全くしょーがねーな,筑波大にもこんなのもいるのか,と思ったのですが,それがこのコーナーで再三登場しているW田でした(^^;.その後,彼女がプレーするのを見て度肝を抜かれたのは言うまでもありません.と,同時にまた一層バドミントンがわからなくなりました(T_T).あとは,確か初日に行ったときにA澤君がにこにこしながら「しんどいですねー.でも頑張りましょう」とか言いながら話しかけたりしてくれたのにも大分助けられましたね.

 ということで,週2,3回,筑波大バドミントン部の練習に出させていただけることになりました.だいたい火曜と木曜と行ける時は土日のどちらか,という感じでしたかね.第一体育館は私の研究室から歩いて2,3分なのでとても便利というのもありました.練習が終わった後は,シャワーを浴びて研究室に戻ってまた仕事ができるわけです.私が筑波大に来たのは3月で,卒論の配属は1月に決まってしまってましたので,まだ自分の研究室の学生もおらず(I井先生が気を使ってくださって1人だけ回していただきました.彼がいわゆる0期生のT中T博君です)かなりさびしい思いをしていたので,筑波大バドミントン部に大分助けられたと思います.

 ただ最初の頃は,準レギュラーのA田君やT澤君が相手をしてくれていたのでとても充実していましたが,だんだん溶け込んできて安心してほっとかれる(^^;ようになってきました.でも週2,3回ですが,学生といっしょのメニューをこなして行きました.ノックなんかは女子の準レギュラーの面に入ることが多かったですかね.ほとんどは体専の学生ですが,そうではない普通?の学群の学生も何人かいました.

 筑波大バドミントン部というともちろんレギュラーは全国でもトップレベルですが,私の練習相手になるような選手もちゃんと(^^;いました.そんな感じでおそらくバドミントンを始めて一番ハードなメニューをこの歳になってこなすようになったわけです.ただ,最初の頃は頑張って(仕事をほったらかして(^^;)練習の最初から参加してましたが,さすがにそうも行かなくなり途中から参加という形ではありました.それに,この年(2003年)は,5月,7月と大きな地震があって(宮城県沖と宮城県北部)被害調査に行ったりして,コンスタントに練習に出ることはできなかったですねー.また,この歳にしての激しいトレーニングがたたったのか,肘を痛めたりもしてました.そんな感じで調子はだめだめでしたね.そして,いよいよ全日本教職員が近づいてきます.この辺は

2003年全日本教職員バドミントン大会(於宮崎)

 に書いてますので省略します.また,その後のことも

2004年全日本教職員バドミントン大会(於島根)
2005年全日本教職員バドミントン大会(於栃木)
2006年全日本教職員バドミントン大会(於京都)

 に書いています.「成果」的に言えば,つくば時代は全くいいところなしでしたね.実際,自分の中でも思うようなプレーができることはほとんどなくなりました.練習は(それなりに)するけど,結果が全くでない,自分の思うようなプレーも全然できくなってしまった,それがつくば時代...でしたかね.その辺の葛藤のようなものが

まだバドミントンやってます
バドミントンというスポーツ
なんかどれも中途半端...

 あたりにありますね.次はいよいよ,というかとうとう最終章です.

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